happycat/永遠性

創作物置き場 小説と詩が置いてあるよ!

空箱 2021

「にゅー、ううん」
「はあーっ。はあーっ」
 セックスをしている。
「んんんっ」
 避妊具はつけていない。パイプベッドの軋む音が少ない。
「いっちゃった?」
「ふぇ?……いっぱい」
「はあっ。んんっ」
 そろそろかと思い、避妊具を付ける。もう慣れた作業だ。
「出したあ?」
「出してないよ」
「寒い」
「ちょっと待って」
 僕はまた彼女に挿れる。
「ええんっ。ぅん、ぇん」
「はあっ、はあっ」
「ちょっと下」……「もうちょっと下」
「ん……ここ?」
「そう」……「んんんっ」……「いいいっ」……「ぃぃぃうんっ」
「いったの」
「ふぇ?」……「すきにしてぇ?」
「んんー。もういっちゃうよ」
「いいよ」
「うううううっ」
「中出した?」
「ん?」
「中出した?」
「ふん」
「んーんんっ……?」
「出してないよ」
「んっ」
「抜くよ」
「ん、ん、んんんっ」……「オムライス」
「?」
「オムライス」
「オムライス、作んなきゃね」
 
 
 彼女とのセックスは何度目になるのだろう。彼女はいつも求めてきた。ファミレスで注文を待っている間、僕の股間を足でさすり、欲情させた。そのあとは適当にファミレスのトイレでセックスをした。
 夜、コンビニに買い出しに行く途中にある公園で、フェラチオをしたいと言い、そのようにすると、僕は興奮して、金網に手をやるように促して、セックスをした。
 あのセックスより前、僕の誕生日には、いろいろ店を回って、それからホテルに着いたまま、僕を押し倒し「もうウチが我慢できないの」と言ってキスをし、首筋をぶっきらぼうに舐め、そのままセックスをした。
 はじめてセックスをしたのが公園だった、そんなよくある嫌な思い出を払拭するために、生理中だというのに、公園のトイレでセックス行う姿勢になり、結局僕は調子が悪く、出来なかった。その言い訳と共に、安っぽい、過去に対する思い方を諭すと、彼女は泣いた。ずっと泣いていた。
 僕は、安いな、と思って、彼女の肩を持っていた。
 
 
吹奏楽しててー、うん」
「そうなんだ、僕も楽器上手くできたらなあ。なにやってたの?」
「ホルン!」
「ホルンかあ」
「うんー。そう」
「うちの友達にもホルンやってるやついたよ」
「へえ〜」
 小野さんは顎を心持ち前に出して、体全体で頷いた。右手でシャープペンシルのキャップを外し、左手でゆっくりとペン先をいじっている。
「ホルンって言ったらヒンデミットとか? だよね」
「うんうん」
「そのくらいしか知らないなあ。あとはモーツァルト?」
「うんうん、そうだね」
「有名だよね」
「そうだね」
 学生が続々と集まり、僕たちの背後には男子連中が陣取っていた。僕と小野さんが座るとなりの席は一つ空いていて、中国人の女性が座っている。首を傾げて薄いファンデーションが塗られた頬の稜線を撫でていた。大きい丸眼鏡の奥には、胡桃ほどの大きさの目が薄く開かれていて、無機質な教室の机を眺めていた。彼女が座っている椅子はやけに軋んで、座りなおすたびに嫌な音が鳴る。彼女からは「あまりに痩せすぎている」から、という理由で、高いホワイトチョコをもらった事がある。僕たちは話し続ける。
「うーん」
「……」
「ホルンってなんとなくわからない楽器なんだよね」
「うんうん」
吹奏楽? ではどのくらい行ったの?」
「県南一位だったよー」
「おおすごい」
「えへへ」
「じゃあ有名なんだ」
「まあね、金綾高校とかはほんと強いから、負けちゃったけど」
「そうかあ」ことさら残念そうに、ため息混じりで言った。「でも、すごいと思うよ」
「だよねーへへへ」
YouTubeにあるんだよ」
「へえ」
「水戸学の演奏」
「あとで調べて聞いてみるよ」
「うん」
 後ろからビニール袋の擦れる音が聞こえる。続いてペットボトルの底が跳ねる音、紙の箱が鳴る音。
「買ってきた」
「ナイスう」
「あとで払うから」
「うい」
「バボラーク」
「え?」
「バボラークが好きなんだ」
「ごめん、僕そこまで詳しくなくて」
「バボラークが演奏してるホルンが好きなんだあ」
「へえ、聞いてみるよ」
「音色が綺麗なんだよね」
「そうなんだ」……「どんな音色?」
「なんというか、柔らかい?」
「ほうほう」
「とりあえず聞いてみるよ」
「聴いてみてー」
「ほいじゃ、講義はじめよかー」
 
 
 大学がはじまる前に、僕はあらかじめ、Twitterのアカウントを作って、同大学生と繋がっていた。ここまではよくある。狡猾だったのは、性別を隠し、性別を問うものに対する嫌悪を隠さなかったことだった。
 それに、思いつくがままにツイートし、文体は、Twitter慣れしている女性を装っていた。だが、一言も「私は女だ」とも「私は男だ」とも言わなかった。「性別」という区分を嫌っている女性。それが僕が作ろうとしていた、アカウントの像だった。
 LGBTという言葉が流布していた頃だった。ということでこの意見は、いったん受け止められていたし、それ以上に「私はレズだ」と主張している子、るりがいたのが幸いだった。僕はるりに面白がられた。るりは同大学Twitter界隈で最もTwitter慣れしていた。親玉のような存在だった。るりにも小さなグループがあり、女性だけだったが、るりに好まれるのと同時に、彼女たちにも好かれた。
 一方、男性陣からは奇妙な存在として扱われた。
 僕は男に興味はない。どうでもいいやつら。その中に、お気持ち表明文をあけすけに書いてしまう阿呆がいた。こいつはおもしろいやつだ、と思って、男性では唯一、彼に接近した。
 彼は、ぴーと言う。
 僕は、しーと言う。
 ぴーは、実里のことが好きだ。
 しーは、実里のことが気になっている。簡潔に言って、セックスがしたい。裸がみたい。
 ぴーと一緒に行動していると、なんだか、実里と、やけに絡もうとしている姿が映った。そのころには、あのお気持ち表明文も、恋愛じみたものになっていった。
 ぴーと一番仲のいいのは、僕、しーだ。同じく履修している、俳句の講義で僕は、
「お前」と優しい声で言った。
「なんだよ」
「お前、何か思い悩んでるんだろう」
「だったらなんだよ」
「俺から助言してやる。思い煩いは消して、早く行動すべきだ」
「うるせえな。大体、何のことだよ」
 履修生がぞろぞろとやってくる。
「お前、好きな人がいるだろ」
「だからなんだよ」
「俺にはその人が分かる。これは助言だ。あんなお気持ち表明してないで、さっさと告白したほうがいい」
「うっせえな」
 講義がはじまる。おっと、僕は間違えていたようだ。さっきの「助言」は、「忠告」だった。
 
 
「あいつ、頭おかしいよ」僕はベッドの上で必死に説明しようとする。この大げさな身振り手振りで、何度も女から馬鹿にされている。体を横に向けて、垂れ下がった乳房を愛おしげに腕で押しながら、僕の腕を微笑みながら見ていた。
「ひどいよね」
 女は嘘っぽく笑いながら、言った。
「君の方が断然頭おかしいから」
「いやだって」
「まず女の子のことを頭おかしいなんていうとか、信じられない」
「いやいや」
 女は体を揺らす。ベッドが甲高い音を立てて軋む。
 鼻にかかった笑い声が聞こえ、女が静かになるのを待った。「えへへへへ」
「なんかさ、変なんだ。掴み所がないって感じじゃない。掴もうとしても掴めないんじゃなくて、もともとそこにないみたいな感じ」
「おっ、文学少女ですねえ」
「うるさい」
「こう考えるのはいい。でも彼女は一切そんなことを考えていないんだ」
「処女だね」女はえへへと笑っている。
「少なくとも誰とも付き合ったことはなさそうだよ」
「かわいいね」
 頭を撫でられた。
 女は口元に笑みを浮かべている。目が細まり顔をかくんかくんと動かして、何度もえへ、えへ、えへへと笑った。それから次第に目を閉じて、唇を僕に突き出した。キスをした。女の唇から顔を離し、女の紫髪を眺めていたら「もう一回」と言われ、また唇を重ねた。女の唇は、顔のへこんだ位置にあった。だから首をよく傾けないと上手く唇を合わせられない。その唇はかぎりなく薄く、親のせいで地元から出れないでいる、とある女の子*を思い出させた。女は強引に舌を入れてくる。「もっと触って」女が耳元で囁く。左手を女の右の乳房にあてがい、体全体を滑らせるように触れる。
 僕は、すり鉢状の一番奥で僕はあの女の子を求め、女の子は僕を一度も求めなかった。
「挿れて」女は体をくねらせて、僕の柔らかい陰茎に手を添える。僕は尿意を感じていた。
 
 
 僕はコンクリートを歩いていた。家に帰ることは簡単だった。生まれ育った場所ではないけれど、住んでしばらく生活していると迷うことはできなくなっていた。片側一車線の大通りをただひたすら歩いていた。無心に歩いていた。数えきれないほどの電柱が剪定され、同じ長さになっている。蜘蛛の糸が垂れ下がっていた。もちろん電柱からは電線が伸びている。ハイビームをたいた軽自動車がカーブの終わりでスピードを上げた。轟音と共に風が僕の髪を吹き上げた。
 通りを左に曲がる。車道側を向く電灯が見えた。この通りは細く、ろくに舗装されていない砂利道で、砂利の中にはダンゴムシやワラジ虫が顔を出していた。ワラジ虫をつつくと触れた指から逃げていった。後ろから来ていた軽自動車に轢かれた虫がいるかもしれない。死骸はどこにも見当たらなかった。僕は立ち上がって手を払い、ダンゴムシを踏み潰してそこに死骸があることを確認した。
 
 
「実里、おもしろい話ってなによ」
「おもしろい話かどうかはわからないけど」実里は肩を丸めてスマートフォンを覗き込んでいる。「ちょっとまってね」
「うん」
 ついさっきスーパーで買った240円程度のビールを開けた。缶はひんやりとしていた。プルタブがめり込むと泡が飛び出て、僕はそれを慌てて啜った。
 実里はスマートフォンの画面を下へ下へとスクロールしている。
 白い泡を啜った勢いでビールを飲み込んで、心地よい感覚のなかで揺られている。
 ネイビーの絨毯の上には白い食べかすのようなものが浮かんでいて、僕はそれを手で払った。目線をあげるとデニール数の低いタイツが見え、それはデニムのショート・パンツに続いている。
「僕、トイレ行ってくるね」
「はーい」
 ヘアゴムで何重にも巻いた髪の上に、深い赤のリボンが飾られていた。ポニーテールの実里を上から見た。深い赤のリボンは傾いていて、真後ろからでは高すぎてリボンはうまく見えないだろう。
 実里はスマートフォンを眺めている。
 用を足して部屋へ戻ると、足を崩した実里が逆さまにしたスマートフォンに指を差していた。
「これ」
「見てみるよ」
「見ればだいたいわかる」
「見るよ」
 とりとめもない会話が流れている。女が二人と男が一人。貞操の感覚も薄れてきた女性の無味乾燥な言葉を勘違いして、道化になっている哀れな、ぴー。
「こいつ、何度も話ぶりかえしてくるね」
「そうー。わたしは元彼の話をしてるのにいきなりさあ」
「笑っちゃうな」嫉妬のような、甘美な感情の揺らめきを感じていた僕は甚だ興味が失われてため息をついた。アルコールの匂いがした。
「ディープキスでこんな反応してるのウケるね」
「それな。ディープキスなんて大したことないのに」
 実里は愉快に笑っている。その度にサイドの髪が揺れた。
「3Pしてないんでしょ?」
「うん、まず機会ないしね?」語尾を裏返るほどつりあげてそう言った。表情を変えずに体を前に出して真っ直ぐ前を向いている。
「だよね」
「うん。非現実的だよね」
「仮に3Pするとしても……」
「ふふふふっ」
「戸惑うだろうな、扱い方わかんなくて」
「どうしたらいいんだろうってね」
 僕と実里は笑いあった。
「おや、ダブルフェラされたいとか言ってますね」
「まあそういう話だけならいいんだけどさ?」
「害はないしね」
「そうそう」
「それにしても実里と三島は揃って〈おん〉って……」
「そそ、適当でしょ?」
「見ててこっちがかわいそうになってくるよ」
「ふふふふっ」
 僕はビールを一気に飲み干して、絨毯にへたりこんだ。実里の足がそこにあった。頭を乗せるとじんわりと暖かくて柔らかかった。実里は僕の頭を撫でた。髪を固めていたから、崩れないか心配になった。次第に僕は眠りこんでいった。
 
 
 Twitterの名前が「しー」と「ぴー」で似てるからといって「カップリングなら、しーぴーかな? ぴーしーかな?」とふざけたことで盛り上がっていたのは、あの女を含めた寮の女性たちだった。
 それを女の口から聞いたときは甚だ不愉快な思いをした。が、下らないことを言う女のことなら、ありえそうだと、納得もした。排泄の話を平気でする女だ。
「トイレ行ってくるね」と言った。女はスマホを忘れて、裸のままトイレに行った。僕は女のスマホを見た。
 なぜだろうか、実里とのやりとりがあった。内容をかいつまんでみると
 
<しーさんは危険だから、注意した方がいい>
 
  とのことに対する返信だったみたいだ。嫌な予感がした。
 今日は、はじめて実里と話をした日だった。出まかせの口舌で僕は場を盛り上げつつ、僕対実里の会話に入り込んでくる者は、客席から届くツッコミのような役割だけを与え、終始、僕対実里の会話の体制を崩さなかった。それでも、些細な会話だったはず。そしてぴーは、よく分からない男だったから、ずっと絡んでやった。とてつもなく嫌がり、そのくせ、耳は赤くなっていた。
 そんな時に女から連絡が来、僕はその場から退場し、女と約束されたセックスの会場へとむかっていたのだ。
 
 
「ん」
 実里のかすかに動いた足で目が覚めた。
「寝ちゃった」
「おはよう」
「ごめんね。痛かった?」
「んーーん、大丈夫」
「そうか」
 僕は可愛げに目をこすった。実里はスマートフォンの画面を見ていた。
 興味ありげにその画面を覗き込んで、実里の体に近づいた。清潔な匂いがした。抱きしめた。実里は僕の頭を撫でた。
「細いね」
「そう?」
「50kgもないでしょ」
「まあね」
 アルコールが抜けていく。頭が痛かった。ふらふらした。実里の細い体を抱きしめて暴風を耐えしのいでいるみたいだった。
 実里は穏やかに足を動かしてクッキーを食べた。お腹が鳴ったら恥ずかしげに足を動かした。
 顔を上げて実里の首元にキスをした。「ねえ」「ん?」実里のマスクを外した。僕と実里はキスをした。実里は僕の方へ顔を向けていた。僕は実里の頬を手のひらで触れ、愛おしくその首元に手を当てた。なぜだか胸を触る気にはならなかった。
 つかの間の愛のようなものが終わると、僕は実里の小さな胸と胸の間に顔を埋めた。実里の小さな心臓が大きな音を立てて早く鳴っていた。実里を見上げた。
 実里は変わらずにクッキーを食べてスマートフォンを眺めていた。ひとしきり咀嚼するとマスクを元に戻した。僕は穏やかな心音を聞いた。
 それから僕と実里は話さなかった。陽光の中のような昼下がりだった。
 僕はもう一度キスをしたくなって、キスをした。
「ねえ」
「ん?」
「セックスしようよ」
「んー」
「……」
「やだ」
「やだかあ」
「うん」
「ひどいね」
「どうして? ひどくはない」
「だってセックスとかしたければどうぞなんでしょ?」
「まあね」
 僕は実里の足に頭をつけた。
 ああ、生理?
 うん。ごめんね。
 んーーん、大丈夫。ごめんよ。
 それから三十分後くらいに僕は言った。「いつか君とセックスがしたい」
 実里はあいも変わらず正面を向いて「別にいいけど」と言った。
 
 
 小野さんとコンサートの約束をした。結局、行かなかった。小野さんに会いたい気持ちが、全く無くなっていった。

 女は界隈に属していなかったが、断続的に情交は続いていた。
 
 
「好きな女の子がいる」と、るりから聞いた。るりが好きな女の子だ。
「ひろみでしょ?」
「どうしてわかったの?」
「いっつもくっついてるじゃん。僕から見ると男を寄らせないようにしてるみたいだよ」
「あちゃ、ばれてたか」
「勘は鋭い方なんだ」
 家にいる、るりは、自分から僕の家に来たいと言ってきた。話がしたいらしい。僕はなんとなく、予想はついていた。
「で、ぴーのことなんだけど……」
「ぴー、実里のことが好きなんだよね」
「そう、それはいいんだけど、あのグループをめちゃくちゃにしないでほしい」
「いま、ぴーだけが疎外されてるもんねえ。いつまで続くんだか」
「あれってどうしてそうなったの?」
「ぴーが実里に告白したんだよ」
「え」
 告白を促したのは僕だ。残念なことに、セックスはできなかったが、二回、家に連れ込んで、あらかじめキスをしている。その口で僕は、ぴー・実里・三島のグループの内、三島が家へ泊まりに来た時、電話し、三島と共にぴーを励まし、実里に告白するよう、促した。ぴーは「どうしてそんなに言ってくれる……そんなにやさしいんだよお! 俺の心を読むな!」と絶叫しながら泣いていた。電話を切ったあと、二人が口にしたのは、
「あいつはあほだ」
 という言葉だった。
 三島ともセックスはしていない。というかこっちはどうでもいい、好みではなかったから。それでも、仲良くしてくるから、過去の話を聞いたりしていた。
 むかし、三島の母と情夫がセックスしている様をみて、母親を刺したこと。
 むかし、それで公正の何とかに送られ、小学生でセックスをしたこと。
 むかし、演劇部で使っていた公民館のおじさんが好きになり、セックスをしたこと。
 むかし、肌が透き通っていて、細くて、病弱がゆえに、長い間、入院生活を余儀なくされている、同性の大親友がいること。
 僕と三島は、彼女とセックスした公園のブランコで揺れていた。
「あたし思うの。あの子が好きなんじゃないかって」
「それは、親友として?」
「ううん、しーさんと話してて、やっとわかったの。あの子の全てが好き。親友としても、恋人としても、性的にも。あたし、あの子に、あの子は病室から外に出られないから、いつか、一緒に旅ができるようにって、その為に生きて、大学に、しかも観光学部にまできたんだって。あたしの全部はあの子なの。男なんてどうだっていい。あの子が生きてさえくれればいい。あたしのいきがいなの。実里が、その子に似てるの。そっくり。だから、あんなやつ、ぴーにとられたくない。浮気じゃない。あたしの気持ち。友達として、仲良くなれた……しかもあの子に似てる子がとられるなんてやだ。ありがとう。君のおかげで、あたし、生きてる理由がはっきりとしたよ」
 三島ははっきりと、感情的でなく、悟ったように話していた。
「なんでこんなこと気づかなかったんだろう」
 二人は公園を去った。布団の中でキスをし、胸を揉んだ。それ以上は何もしていない。三島を抱きしめて寝ようとすると、三島が泣きだした。苦しんでいるような泣き方だった。
「どうしたの」
「ねえ、腕、細いね」
「僕の腕?」
「あの子みたい……」
「……」
 三島は涙声で、
「ねえ、ね。死んじゃだめだよ」……「絶対、死んじゃだめだよ」
 と言った。
 そのとき、僕の体重は五十三キロを切っていた。
 
 
「じゃっ、そろそろ」
「ああ、帰るのか」
「おじゃましましたー」
「ちょっとまって早い」
「帰るときは早いのです」
「それにしても早すぎる待って」
 家の扉が閉められ、実里はその向こうで歩いていた。僕は財布と携帯を持ち、眼鏡をかけて家を出た。実里はすたすたと歩いていた。
「なんでこうも待たないの」
「いやだって帰る道わかるし、ほら電車来ちゃうから」
「いやでも、送るよ」
「そう」
「君って変だよね」
「そう?」
「そう言われないの?」
 言われないなあ、と実里は笑って応える。
「うそつけ」
「うそじゃないよお」
「こんなすたすた帰る人はじめてだよ」
 線路沿いに傾いた太陽が、薄紫の光を湛えて輝いていた。レジ袋を持った主婦が頬と眉間にしわを寄せ、つらそうな表情で歩いている。
 僕と実里はしばらく無言で歩いていた。
「あのさ」
「んー」
「そういうはなしって、よく相談とかされてた?」
「いーや?」
「あ、そうなんだ」
「うん」
「いやね、僕はそういうはなしを中学からずっとされてたの」
「うん」
「こいつなら話せる、話してもいいや、信用できる、みたいにね」
「あー」
「それで聞いてるとさ、あまりにもひどいパターンとかもあるんだよ」
「へえ」
「例えばね、夫婦別居してて普段生活してるお父さんの家はほとんどゴミ屋敷で、お母さんの家ではお母さんとその愛人が暮らしてる。で、中学生のその女の子は毎日そこを行ったり来たりしてる」
「ほう」
「すごいよね」
「すごいと思う」
「こういうのをずーっと聞かされてたわけだよ」
「君が望んで聞いてるんでしょ?」
「鋭いね」
「まあ」
「そういう話を聞いてるとさ、聞いてるのはそりゃ楽しいんだけど」
「うん」
「自殺するだとか不倫するだとか、そういうのもただの出来事にすぎなくて、例えば石ころを蹴るのと同じ出来事みたいに思える」
「あー、わかるよ」
「わかる?」
「うん」
「なんか、自分で自分を試し続けてるみたいだなって」
「ふーん」
「ふーん、だよね。なにも言えないよね、まあ適当な答えを言われるよりかはいいよ」
「ふふふふっ」
「あいつにはそれができないからな」
「あー」
「そろそろだね」
「うん」
「今日はありがとね」
「うん」
「よかったらまた来てね」
「バイバイ」
「バイバイ」
 
 
 大学がはじまる前に、オフ会をしていたらしかった。大学がはじまって二日目にそれを知った。
「私、行ったの。あのオフ会。友達と一緒に」
「え! 行ったんだ」
「そうなの」
「どうだったの、オフ会。いい男いた?」僕は冗談でそう言った。
「いないいない。全員ダメ。もともと仲いい子同士で固まってて、全然みんな交流しようとしないの」
「うわー、やだね」
「その中で、後ろでずっとスマホいじって歩いてる、ううんと、ぴーさん? が気味悪くって、友達と一緒に途中で帰ってきたの」
 女はほんとうにおもしろそうな話ぶりだった。はじめて会って、とりあえず近場のラーメン屋に行って、そのあと、この辺を全く知らないというから、一緒に散歩しているときだった。ラーメン屋で隠し撮りされ、インスタに投稿され、一定数は僕を男なのではないか、と思わせたようだった、顔を隠す良心はあったようなので。
「実際、楽しかった?」実際、と使うのは何度目か。僕たちは右に曲がり、話を続けていた。桜のトンネルのようなところで、女は写真を撮っていた「きれい、きれい。桜吹雪だねー」、僕はまた写真を撮られないようにと全力で逃げ回っていた。
 この道を真っすぐ行くと、女が住む寮に着く。
 その前に僕の家がある。
 僕は彼女を家に誘った。やましい気持ちは余りなかった。でも、付き合っている彼女から解放されたい思いでいっぱいだったことも確かだ。
 女は、軽く拒みつつ、
「いっちゃおっかな」とつぶやいた。セックスをした。
 
 
 実里に振られたぴーは、やけになっていた。実里の次に好きな、ひろみに告白しようとしていた。僕は、これはおもしろいことになるぞ、と思って、あれやこれや助言をした。
 その端々に実里を諦めきれない様子があった。面倒なので「<せめてヤらせてくれ>とか言ったら?」と唆したら、本当にそう言ったらしく、さらに嫌われる結果になった。
 ぴー・実里・三島グループは、童貞を囲む慰めチームのようなものだったらしい。実里とはキスをしたらしいし、三島に至っては学内のトイレでフェラチオをしてもらってたそうだ。後者はどうでもいいが、ちゃんとした恋愛をしたいとか抜かしてる癖に、ぬけぬけとキスをしてるのはバカだ、と先に唇を奪っておいた口で言った。
 ぴーは、近いうちにひろみに告白しに行くらしい。
 僕と三島が集まり、喫煙所でちょっとした会議をした。ぴーをどうするかについてだ。
 それでは、僕の意見が通った。ひろみを呼び出して、これからぴーがしようとしていることを話して、警戒してもらう。実行に移った。
 ひろみだけを呼び出したはずが、ひろみの他に、小さなグループ員である、るりとちえまで来ていた。僕からの連絡では、男女二人はまずいだろうから、こっちには三島もいる。と伝えておいたのに。
 僕はその場で、最近のぴーを含めた実里・三島の一連の行為、ぴーのこれから予想される行動、全てを話した。そこで「セックス」及び「フェラチオ」などという言葉も、そのまま使って、生々しく教えた。警戒の意味を込めてだったが、これが影響して、るりに嫌われた。
「あそこまで言う必要なかったのに」という言い分だ。
 僕は元々、この界隈に属してたわけではない。出たり入ったりする稀な人間だった。これ以上なにかおもしろいことが起きることはないだろう、そう考えて、大きな界隈から出ることにした。実際、ぴーと実里と三島、ひろみについては、かなりうやむやな形で終わりを迎え、ぴーは僕を無視するようになった。そのさまを撮影した動画をツイートしたら、
「やりすぎだ」
 と諭された。僕は楽しんでいたが。
 


* のちに知ったことだが、あの女の子は看護学校に通っている。彼女のことだから頑張りすぎていないかと心配になった。そのことについて彼女と話していると、彼女は「私は忙しいのが好きなの」と真面目な顔で言った。会話のうちに彼女が休学中であり、いまは夜の仕事の帰りであることを知った。大人びていた。老けていると言ってもいい。おふざけで、彼女は笑いながら、僕の目元にアイラインを引いた。「気持ち悪っ」と言っていた。

とても平たく白く

 スーパーハウス。プレハブ小屋のことだが、僕がぱっと思いつくプレハブ小屋はスーパーハウスという名前をしている。公民館の裏、整備されていない駐車場にぽつり佇んでいた、白くて小さな無人の建物。そこから走って二秒のところには百葉箱(ひゃくようばこ)があった。名前がわからなかった。女の子と帰る道すがら、白くて小さいやつ、と口にし、それを指さすと、上の辺ちかくに古いフォントでスーパーハウス、と書かれていた。

「あれ。スーパーハウスっていうんだ」

「どれ。ほんと」

 背後から、おれ、入ったことあるよ、と、話に割り込んできた友達が続けて言う。暑い日には暑いし、寒い日には寒い。しかも何にも置いてないんだ

「へえ、なんのためのものなんだろうね」

「全くわからん」

 友達が割り込んでくる前に僕と会話してた女の子が、思い出しながら話すようにたどたどしく口を開いた。

「捨てちゃうのにも、きっと、お金がかかる、んだよ。たぶん、そう、聞いたことがある」

「さっきまでスーパーハウスって名前も知らなかったのに?」僕は意地が悪い。言って後悔した。話が途絶えてしまったのだ。でも会話の隙間に現れる(この隙間こそが現実なのだ)沈黙には、愛想笑いも、いやらしいポーズもない。僕が放った言葉は女の子の発言と結びついてすらいない。生まれるべくして生まれた、この幼い沈黙は春うらら。

「使われてたんだろうなあ、何かに」

「でもよ、お前、休み時間にちょっと入ってみろよ。外の暑さとか寒さとかの悪い部分ぜんぶ集めたところみたいな、しかもとんでもなく狭いから、こう思うのもヘンだろうけど、身体にその暑い寒いが張り付いてくるように感じたんだよ。そうだ、もう通り過ぎちゃったけど、あの白いやつの窓、あれは開かないんだよ。空気がどこにも漏れないんだよ。漏れないから流れ込むこともないんだ。だから暑くて寒くてひどいんだ。謎だよな。あの、学校の七不思議的なやつに入れてもいいんじゃねえかな。おれたちで作るか、都市伝説。てかここまで来ちまった、じゃあな、またあした」

「じゃあね」

「まーたあしたー」

 友達が話しているあいだ、僕はずっと考えていた。あの白いやつの不思議さではなくて、もっと、違うアプローチ(当時必死に絞り出した言葉だ。「視座(しざ)」という言葉は生まれなかった)があるんじゃないかと、いや、絶対にあるんだと思えて仕方がなくなっていた。友達が言っていた「七不思議的なやつ」という言葉に引っかかったのだ。友達の捲し立てる口調がはじまって、女の子は頷くだけの機械になってしまった。「じゃあね」と言ってから、白いやつの話題も溶けて消えた。僕は、うまく言葉に出来ているか自信がなかったけど、ひとつの考えを紡ぎ終えたのだ。これはすごい。きっと、僕は成績は悪いけど、賢いことはあるのだと思う。生まれてはじめて、ここまで自分のことを客観視した。

 坂を降り終え、考えを言葉へ念入りにこねていると、

「おおおおおおおおおおおおおおおおおい!」

 裏声と怒声のあいのこみたいな大絶叫が背後から聞こえてきた。

「あした! マンガ! きーこーえーるー!?

 あ・し・た マ・ン・ガ!」

 坂のたもとにあるゴミ置き場に女の子はしゃがみ込んで耳を塞いでいた。友達は坂の上でちっちゃく、居た。前屈みになっていたようだが、小指の爪ほどの大きさだ。

 僕は深く息を吸って

「うっせー!(声が重なった。女の子も同じことを叫んだのだ) 忘れてねえよちゃあんと持っでくっがら!」

「じゃ・あ! ま・た・な!」

 小指の爪くらいの友達は、スキップしながら消えていった。ふーっ、喉が痛い。それにうるさい。あいつあんなにデカい声出せるんだね。わたしもびっくりした(デカい声を出せることに、なのか、大声じたいのことか、未だに分からない)。

「声、重なったね」

 女の子は楽しそうにそう言って、ゴミ置き場から飛んできて「えへへ」と笑った。

「かえろっ」

「うんっ」

 僕と女の子は再び歩き出した。特に考えてはいなかったけど、いつも僕が車道沿いを歩いて、女の子に車道沿いを歩かせることはなかった。

 縁石を「ほ」「ほ」「ほ」と、歩いていると、四つ角に建物がある十字路の、左の建物からとんでもないスピードの自動車が現れ、ハンドルをこっちに向かえるように切ったものの、僕の存在を気がつくや否や、左急ハンドルでそのままコンビニエンスストアに突っ込んでしまった。僕といえば建物から自動車がにゅっ、と現れた驚きで縁石を車道側に踏みはずしてしまい、ほんとうに、死んでしまうところだったのだが、女の子が僕の腰の周りに両腕で輪っかを作って、歩道側に引き寄せてくれた。どれもこれもが急で首が痛くなった。明日、この道を通ったとき、踏みはずした縁石からタイヤが残した黒い(あと)までの距離が、ちょうど僕の足から頭までの距離だった(踏み外したまま倒れていたら、僕の頭はきれいに()かれ、突然の大きな音に野次馬根性が刺激されて事故現場に向かった友達は、顔がないランドセルを背負った身体と、ぶっつぶれたトマトのような僕の頭を見てしまい、これは、マンガと僕の死が結びついて、生涯、マンガを読むことが出来なくなった)のに、はじめて死を感じた。でもそれは悲しいものではなかった。頭だけ轢かれ潰されていたのなら、身体はきれいだっただろうから。

 女の子に引き寄せられ、瞬間の轟音へ顔を向けると、白いスポーツカーコンビニエンスストアに突っ込んでいた。しかもそれはレジ側に、だった。客足の疎らな時間帯だったため、店長はレジ側の事務室で発注作業をしていたし、バイトの一人は一気に買われなくなってしまったチキンを揚げていたし、もう一人はレジにある小銭の枚数をプラスチックのコインケースに入れて数えていた。六十代の店長は自動車に頭を潰され(僕の死ほどではないが、美しかった)、チキンのバイトは店に自動車が触れた衝撃で油が身体中に撒かれ、片脚はぶらぶらと遊ばせていたから、左半身と右半身が引き剥がされた。レジのバイトはコーヒー豆まみれになって、右のタイヤに人間の型をばらばらにされた。ドライバーは、ショックで死んだ。

 僕と女の子しか事故の様子を見た人は居なかった。二人は口が不自由になって、叫ぶことも喋ることも出来なくなって、ただ走った。手を繋いで、どこまでも走った。救急車か警察車輛の音が聞こえてくるまで、家に帰りたくない(家に帰っても、その場所はきっと家だとは思えなかったからだろう。いまの僕はそうだったのだろうと思うし、女の子も、いつも僕と帰るときに曲がる道に差し掛かっても、手を緩めることも走りがぎこちなくもなっていなかった)と、あの場所からは去らなければならない、そう思っていた。

 通ったことのない道を通り、聞いたこともない場所から、生まれてはじめて見る景色まで走り続けると、そこは最近整備された自然公園の、町を一望できる高台に辿り着いていた。二人はそこで救急車と警察車輛の掛け合い——現代音楽のようなサイレンの洪水を鳥瞰(ちょうかん)した。

「いまここで、死ぬことができる」

 軽く飛び跳ねる黒いランドセルの背中。

「死んじゃったかな」

 防犯ブザーを少しだけ鳴らして、サイレンにサイレンを重ねる赤いランドセルの背中。

 自動車が突っ込んだのは、高台のふもとにあるコンビニエンスストアだったから、ここから、ぐちゃぐちゃになったコンビニエンスストアが見えた。

 二人して木でできた欄干から身を乗り出して事故現場を覗いてみると、まだ救急車も警察車輛も到着していなかった。

 散りばめられた硝子片が太陽で煌めいている。その隣には血が広がっていて、左脚が駐車場に佇んでいた。

「スーパーハウスってさ、あいつの言い分ならさ、何年もむかしの空気が保存されているんだろうね」

「使われていたころの空気ね」

「僕思ったんだ。なんであの小屋を使われている頃と、使われていない頃とで分けるんだろうって。なんで使われていないなら捨てちゃおうと考えるんだって。だって……」

「捨てる理由があるから捨てるんだよ」

「違う。捨てる理由は、使われている頃と使われていない頃に分けられるから、捨てようとするから、だからね、使われている頃と、使われていない頃、こう分けなかったら、捨てる理由、使わないからっていう、理由がなくなる、その、なくなるはずなんだ。それに、誰かひとりのものではない、から、ひとりの理由が捨てる理由にもならないから、そう、そう、こう思ってたんだ。わかるかな。伝わってるかな」

 女の子はしばらくそっぽを向いて、欄干で頬杖をついていた。その腕は震えている。

「わたしのね、おばあちゃんは記憶力がなくなってきてるの。いつもものを失くすの。ね、おばあちゃんはそのとき、どうすると思う?」

「失くしものが見つかるまで待つんじゃないかな」

「ねえ、時間は戻らないんだよ」

「そう……は言い切れないはずだよ」

「真っ先にゴミ箱を探すんだよ。間違って捨てていないかどうか確かめるために。K君の言いたいことって、わたし、たぶんこういうことだと思う」

「きっと、それは違う。確信できてるわけじゃないし上手く言葉に出来てなかったけど、違うと思う」

(けれど、探すところが、家からなくなってしまう場所から、というのはおもしろいと、思う)

 最後の言葉は、余りにも自信が持てなかった。それまでは、かろうじて女の子の肩あたりで内巻きになっている髪の先端を見ていたが、軽くかぶりを振って女の子見ている方向に目線をゆっくりずらしていった。あの、豆腐みたいな建物はきっといつまでも残り続ける。公民館に生えそろっている喬木(きょうぼく)に並んで、泥や水垢に塗れながら当時の空気を保存……して、いる……? 当時の空気? それは違う、当時、なんてないはずなのだ。僕が表していたのは、それより前・それより後、というわけ方への疑問だった(これはいま浮かんでいた整理された内容だ)。ならば当時という言葉も……すこしおかしい。悩ましいのは、当時というのが、それより前・それより後のあいだを繋ぐ空間、時代、なのかもしれないということだが、きっとこれは失敗している。あいだを繋ぐ、と言いながら、これは時間を細かく切り刻んでいることと同じだから。

 なにも保存なんてされていないんじゃないのか。完全に密閉されていることが前提だったし、そうだと仮定して考え続ける。それでも、保存はされていないのだろうと思った。それは友達がたまに出入りしていたからでも、建物自体にミクロな空気の通り道があるかも、という理由でもない。周りの喬木が知らぬ間に何本かに増えていて、どれが最初の一本だったか、それはわからない問題だ。最初の一本はないんじゃないのか。はじまりがない。既に、はじまり続けているからだ。そして終わりもない。理由もない。建物は、空間を穿った——マクロな空洞の彫刻だ。樹林は空間に盛られた——フラクタルなミクロのマティエールだ。共通するのは、理由がないのにそこにあるということだろう。

「君、この前までゴールデンバットじゃなかった?」

 大学で出会ったはじめての喫煙友達が喫煙所にやってきたところで、考えが中断された。彼は青い眼を持つアルビノだ。物珍しく扱われて生きてきた。確かに僕もはじめ、美しい髪だと目をつけていたし、図書館で然る美術書を探しているとき、彼は僕のいる棚にふらつきながらやって来、その場にぶっ倒れてしまい、さすがに酷いと身を起こしてやって、まつ毛まで白いのを見て、アルビノだ、と知った。が、僕にとっては、ゆすりながら、あの、あのあの、大丈夫ですか。こんな昼間に……ウォッカでも飲んでたんですよね(安物ウォッカ特有の匂いがする)、ここは敷物がありますから吐いたりしてしまったら後が大変です。起きて。とりあえずトイレに……と慌てていると彼は(おもむろ)に口を開けて「俺は……俺はな……俺はよ……」俺俺俺とふわふわした語調で言い、次に、デュシャンなんだよ……俺はデュシャン……デュシャンなの……と呟いた。

 そして僕は

「マルセルですか!」

 と叫んだ日から仲良くなったのだ(彼はふらつきながらも目当ての本……彼は明らかに酔っていたのに、『ダダ大全』を貸りるために図書館に来ていた。ちょうど僕が『ダダ大全』を立ち読みしていた。きっと彼も僕に好感を持ったのだろう、僕が貸りる予定だった本——マルク・ダシーのダダ本、マラルメ詩集——を平置きしていた棚をちらちら見ていた)。

「僕は色々な煙草を試してるんだよ」

「嘘だあ、外から君のこと見かけてても、いっつも、あのちびっちぇ煙草吸っとったもの」

「まあ一番の理由は、値上がりしてからバットに固執(こしつ)するのもなんかあほらしーな、って思ったからなんだけどね。色んな煙草を試してたのは本当よ」

 へえ。それでセッタ? いやしかし白い煙草はほんと白いねえ。という彼は、リトルシガーがコンビニエンスストアで買えるほど手軽になるまで、黒い煙草・バイブを吸っていた。リトルシガーが出ると「まじい(まずい)、まじい(まずい)」と言いながら細いラッキーストライクを吸っていたが、ピースにもリトルシガーが出るとなり、彼曰く「この県で出回ってた分のすべて」を買い占めたという。無論、借金がすごい。僕が「ギャンブルで金溶かすよりか、ずっと生活的だぜ」と(そそのか)したことをまるで恨んでいるかのように貧乏話をするが、ピース・リトルシガーを吸う彼は、僕とダダの話をしているときよりも幸せそうだ。白の装いで彼の吸う煙草の色、本人もそう思っているが、美しい。

「俺、セッタ、マジで無理なんよなー。煙草ったらこれっしょー! って買ったときマジで後悔したもん。変な甘さ、無理」

「変な甘さだったらお前の銘柄、バイブとピースの方が人工的な甘さで気持ち悪いでしょ。僕はそう思うぜ」

「わかってねえなあ。あれは人工的な甘さの裏に花畑があるんだぜ。セッタは花畑に見せかけて人工的なんだよ。つまり花畑も人工的なんだわ」

「いいじゃん。僕はその言い分でも虚構(きょこう)の花畑を愛したいね」

「お前は殆っど引きこもりだもんなあ。空想家? 夢想家? やだわ。俺が女だったらお前絶対『アルビノの女だ!』って近寄ってくるだろ。そのくせリルケみてえなルソーみてえなSentimentalismをお持ちで、こいつは厄介だよ。しかも、根底には偉大なるDaDaismがあるときた。し・か・も、メンヘラ」

 彼も文学に精通しているが、その母体はダダであって、シュルレアリスムは嫌いなので、範囲は意外にも狭い。現行の文学に興味もない。僕たちは知り合って、ダダとシュルレアリスムの話をした。そこで彼は小説よりも戯曲の方が好きだと話していて、もしやと思い、少ない知識を絞り出して、ジャリ、イヨネスコ、ベケット安部公房、と上げると目を輝かせた。

孤独革命家の人間味って言っておくれ」

 茶色の煙草の灰を、とん、と落とす。

孤独革命家ね。俺は人間味てのは嫌いだが、わからんでもないぜ。名言じゃないか……それに応えられる格言もあるぜ『ムッシューDADAやわらかDaDa機械を召しあがれ』」

 最後に強く吸った不意に、彼はそう叫び、僕は笑って、白髪の男の方へ咳き込みながら白煙をふきだしてしまった。不意の笑い。

「けっ、僕の負けだ。ファッキン・ダダ」

「ハハハ、葉巻はいかが?ってね」

 白い煙草を貯められた水に落とす。じゅっ、と煙草と煙草の海になっていった。

 僕の今日の講義はもう終わっていて、大学を出る前に退屈な講義の憂さを晴らすための喫煙だった。そういえば、彼はこの時間に講義があったはずなのに、どうしてここに来てるのだろう。単位を取るのがかなり難しい、記号論理学の講義があったはずで、欠席数も二で目を付けられるほどなのに。僕も違う日にちに同じ教授の記号論理学を受けているけど、サボり癖ある自分でさえ未だ欠席はしていない。

記号論理学? あの講義つまんなくてさ、まあ、記号論理学自体は興味あるから、参考書買って独学してたのね。超おもしろくって、買って三日くらいで終わらしちゃって、教授に訊いたら『あの講義は、その参考書の1/3くらいしかやらないよ』って言われて、講義は出るやめたんだよね。退屈で退屈で。いまは様相論理と圏論を、暇なとき教授の部屋行って教わってんの。あの教授、おもしろいんだけど講義になるとクソつまんないからさあ」

 ここらへんになっとまじー(まずい)と言って、彼は煙草を水に落とした。

「なるほどね。そういや僕も似たようなことしてたわ。哲学の講義が初歩的すぎてさ、講義切って教授に形而上学を教わってるんだ、」

 小刻みに白髪が左右に揺れて「形而上学っ」と笑った。

 俺たち、ダダダダ言っておきながらかなりガチガチの学問やってるよな。でもお前の方がガチガチやぞ。形而上学って言っても結構、可塑性あるからな。そうか、俺はただ好奇心の赴くまま、その学問に突っ走ってるけど、お前はなんというか、お前の中にあるやつを表現する手段を探してるみたいだ。へへーーー。まさにその通りだよ。僕はね、情念の形而上学ってやつを組み上げようとしてるんだ。へえ、情念ねえ、デカルト? や、もっと射程は伸ばすつもりよ。プラトンからドゥルーズ、あと人道主義者のデリダまでって感じ。ひゅーっ、やりますねえ。人道主義者のデリダって言葉の響きなんかおもしろ。

「ぷっはー! 僕そろそろ家帰るよ、お前は?」

「そうね、Kのその教授ンとこ行って、ちょっと可能世界のことでも訊いて来よかな。きっと守備範囲っしょ。俺の教わってる教授と、どの差があるかちょっと気になるし」

「そか。あの教授、結構、暗いっていうか、厭世(えんせい)的だから、可能性の話になると暴走するかも」

「それもおもしろいから行くわ。てかお前気づいてないのかもだけど、お前の可能性-理論はかなりニヒルだぞ」

 白い壁を四本の指で撫でながら二人は喫煙所から出た。講義の終わる時間なだけあって、人がごちゃごちゃ居る。

ヒルな論理は情念だから。生来、そうだから

「あっそ、まあそうだろうとは思ってたけどな……じゃ、俺行くわ」

「へーい、頑張ってね」

「うーす、頑張るわー。お前、死ぬなよーっ」

「死なねえよ。早く行け」

「うーっ、うーっ、行きますよー」

「またな」

「うす」

 小走りに彼は校舎に入っていった。柔らかく細い白髪を揺らして。彼は倫理を高校時に選択していて、僕の話すことも理解してくれる。実際、僕は哲学専攻だが、よく読むのは文学の方だから、もしかすると彼の方が深く哲学を理解しているのかもしれない。哲学を学ぶと言うよりかは、僕の表したいものの手段がたまたま哲学が最適だった、ときているから彼の言い分は当たっている。むかしからよく考える方だったのだろう。決定的なのは、女の子と見た事故だ(僕は一度死んでいたはずだ)。この出来事は僕を倫理の道へと誘った。𠮟責(しっせき)があったのだ。さながらトロッコ問題がこの身にあったと言える。そして、僕は死ななかった。

 女の子は、あの時のことはもう、なにもわからないよ、あの白い車が見えたときにはもう、K君が危険だからってすぐ、抱き寄せたし、それがK君を救う手段だったってことを理解したのは十年後くらいだったの。無我夢中というけれど、ちょっと違くて、熱いものに手が触れたら手を離してしまうくらいの、反応の連鎖が起きてたんだ。だから、変に思わないでほしいけど、K君が死んでしまっても、K君が生きていても、そのどっちもが同じで、どちらにせよ、ただひとつの行動があっただけなんだよ。だから、それが道徳であり、倫理である、とは言えないとわたしは思うよ、と後述していたことを覚えている。

 もちろんあんなことがあったわけだから、当時もそれについてのことを話していたけど、それはいつも「死ななくてよかった。死ななくてよかった。本当に死ななくてよかった」と感情的に言っていた。十数年後の女の子の言い分から察すると、その「死ななくてよかった」人は、女の子の友達であれば「誰でもよかった」ということになるだろう。僕は女の子より先にそう感じていた。その頃に、このことを女の子に話したが、はじめは激怒した。それから時間が経ち、また同じ話をしてみると「死ななくてよかったと思うけど、本当にそうだとわたしが思っているのかどうかはわからない」と返ってきた。そしてまた、数年後に同じ話をすると——さっきの後述を話してくれたのだ。僕は、女の子に救われた側の人間だから、白い車のことについてあまり考えたことはなかった。その代わり、考え事の要素の大部分が死で満たされた。そして、僕は一度死んでいると考えている。これも、女の子の後述を聞く前からそう思っていたから、女の子の後述を聞いて、安心した。

 事故のあと、さまざまなメディアでニュースになっていた(白いスポーツカーに乗っていたのは、僕は知らないが、かなり有名な女優だったのだ)。根掘り葉掘り、というまででもないが、死亡者のちょっとした来歴、顔、事故の様子を、あの自然公園の高台から覗いた景色に透かして見て、悲しい気持ちになった。それはドラマや映画——ストーリーから受ける悲しさでしかなかった。しかし、時が経って、コンビニエンスストアで働く人々の社会的な地位、働いている理由、大きく言って、個人の生活のことに目を向けると、当時、ストーリーというオブラートに身を包んでいた事故の有りよう、自分からの距離、という要素はまるきり形相(ぎょうそう)を変え、死にゆく者たち(我々、人間のことだ)の突然の死、不条理——雑草のように踏み(にじ)られた四つの生と、自分の生を見るようになっていた。はじめの段階では、四つの生の為に自分の生を幾つかに増やしてそれぞれの対応関係を見た。次は、ある程度ついてきた物心から、自分史が強靭(きょうじん)になり、四つの生と強靭な一つの生を見た。いま、ここ最近は、四つの生と僕の生、救ってくれた女の子の生を均等に並べて、アポリアを感じている。考え続けた結果、いまの段階では「まずこれはアポリアなのだ」と思ってから、それぞれの視座に自分を据えるようになった。そうなってから、この出来事をトロッコ問題だとは思わないようになっている。なぜなら、トロッコ問題はトロッコが動く前に与えられれる問題であり、僕の場合はその逆で、既に動いて人が死んだ、いわば終わりの地点からの思考だからだ。そして、トロッコ問題が倫理-記号学的な問題なのに対して、この終わりのロッコ問題は哲学-情念論的な問題である。既に経験したものを整理する事は、極めて抽象的であり、極めて個人的な事柄だからだ。僕が、あの事故で一度死んでいても死んでいなくても、惹かれるのは終わりのトロッコ問題だろう。なぜだろうか、そう思う。だが、つい最近よく考えることは、このトロッコ問題、終わりのトロッコ問題の中間、この区別を無化させる真ん中は存在しないのだろうか、ということだ。丁度、孤独革命家の人間味白霧(はくむ)がかった景色に、決して窓を置かない方法はないのだろうか。

 喫煙所にとんぼ返りして煙草を連続で五本吸いながら考えていた。いつも思う。僕は死んでいるのだろうか。それも美しく。僕の顔は醜いから潰してくれて結構なんだ。だからといって身体が美しいわけではないにしろ欠点を消してくれるのは有り難いと思う。では僕は生きているのだろうか。ただでさえきつい煙草を考え事をしていたからついつい肺に多く入れてしまってそれで心臓がばくばく言っている。こういうとき深呼吸をすれば正常なばくばく加減になると勝手に思っている。すーーーっ(痛っ)。肺が……肺が痛い……ぴきっとした……。煙草吸いはじめて何ヶ月経っただろうきっと半年は吸っている。煙草をはじめたのはえーと六月でいまは十月だからまだ半年ではないんだな。こうしてみるとやはり僕は生きているように感じる。心臓は高鳴るし肺が痛んだりカレンダーの日にちが進んでいる。生きていない状態というのは何を指しているのだろう。線分的に生きていない状態というのはわかるそしてある。でも直線的に生きていない状態というのはない。科学によると半直線的に生きていない状態が生きていない状態の限界値なのだという。観念的な話だけど。死んでしまいたいときそれはいまが負担になっているときが主だろう。でも僕はきっと半直線的に(=生来)死にたがっている。強く言えば自殺することが自分の使命だと思っている。四流芸術家の言い分ではなく僕を取り戻すずっとそこに居てもらう為に僕は思考の果てに自殺することに取り憑かれている。もちろん自殺でなくてもいい。自殺といえど潜在的道具(エネルギー)を必要として死に至るのだからどれも他殺-他者殺となると思う。何かで精神的身体的に悪く作用した他(人)殺ではない他者殺は自殺を丁寧な形で表したものだ。考えてみれば位置エネルギーというのは極悪な犯罪者だ。mgh。

 煙草を今度は二本吸った。もう帰ろう。過ぎていく時は悲しく、せつない。プレハブ小屋の喫煙所を後にした。

侮辱の

   

 

断片の幽かな反射

 

 

 五時四十五分と少し、薄ぼんやりと光を纏った空気は、丸みを持って部屋にとどまっている。煮凝りのような半透明さで、空気の方向が分からず、それぞれが好き勝手に動いているが、壁同士が直交する場を除いて、この角ばった空間からは出られない。壁と壁の隙間に注目すれば、そこは空間を繋ぐ通路とも思える。通路の先には玄関までの廊下があるのみだが、廊下も空間の一つだろう。廊下を通って玄関には、ピザや学習塾のチラシを下敷きにして、一足の靴が置いてある。「これをのむと、高く跳べるようになるんだ」。絶え間なく回る頭上の換気扇が、涼しげな印象を送り込む。羽の動き続ける通路で、生首が換気扇と同じ動きをする。懐かしい人間の顔が近くにある。「これをのむと、高く跳べるようになるんだ」。

 

   2

 六時三十分、瞼の上がじくじく傷んだ。身体を押し上げようと試みる。肩と瞼の痛みは同期しているようで、上体を少しでも動かすと、瞼の裏に鋭い星が瞬いた。これはかなしばりだ。そう気づいた頃には、既に目ははっきりと開かれている。それでも、瞼は傷んだ。

 懐かしい人間が、いったい誰だったのか、全く思い出せそうにない。確か、数年は顔を合わせていないだろう。彼とどこかへ行ったことはないはずだ。そして、なにかについて熱を入れて話したこともない。ここまでくると、大方の予想はついた。高く跳べるようになった自分は、はじめにどんなことをするだろうか。深い夜の中を漂う夢の断片では、高く跳べるようになると、彼を追って、ショッピングセンターの欄干に手を掛け、三階から二階へとびおりていた。都合が良いのか悪いのか、着地の記憶は見当たらず、とびおりには痛みは伴うものなのかどうか、知ることはできなかった。

 足裏から、布団の湿りを感じる。よほど夢がつらく、汗をかいていたのだろう、着ている寝巻は、人の形に温かみを帯びている。

 

   3

 眠りから目覚め、人間を覆っている布団と一緒に起き上がるまでの時間。淡いよろこびが、ビビッドな皮膚感覚へと推移するまで。確かな感覚をもっていないはずなのに、たくさんの思考のひと景色が、目まぐるしく通り過ぎる。視界が揺らめきながら枕元の時計を見る。

 

   4

 ティッシュ、イヤホン、薬瓶、ペットボトル、調味料数個、カップラーメン、櫛、ゲーム機、処方薬、本たち。

 

   5

 目を擦る。まだ瞼が痛み、右肩には違和感が残っている。残像、ではなく、身体の内部から痛みを感じる。胃が空白のようなものに圧迫されている感覚。数時間前に過剰摂取した薬が、身体にあるのだろう。吸い込む空気にも、吐き出す空気にも、違和感がある。副作用で口のなかが渇いているのだ。ベッドの下から、液体の入ったペットボトルを取ってくる。ベッドの下には、からになったペットボトルがたくさんある。

「あ」

 声は掠れていて、他人の声のようだ。緑茶をペットボトル半分以上飲んだ。

「あー」

「やっぱり、遠いな」

 音は、口蓋に潤滑油が塗られているように滑り落ちてくる。ペットボトルの飲み口というのは、でこぼこしている。キャップの裏は、ざらざらしている。

 

   6

 ペットボトルをしめた。

 

   7

 雨の音がする。これはおかしなことだ。

 

   8

 廊下から換気扇の回る音が聞こえた。部屋に洗濯物を干している。眠りに就く前と同じ風景だ。胃と瞼が多少ひくひくしていること、カーテンの隙間から光が漏れていることを除けば。口内と肩の違和感は、知らないうちに消えていた。ベッドから立ち上がると、瞼の痛みも無くなっていて、光が邪魔だから雨戸を閉めようと思ったのに、夢の断片が刺さって、また、ベッドに座り込んだ。彼は、黒縁で厚みのある眼鏡をしていた。そして、夢のように、気さくに話しかけられた覚えはなかった。いつも、誰かとセットでなにかを指示されていたように思う。だから、夢の光景は異常だった。

 首元の生え際をかく。かいた爪のにおいを嗅ぐ。爪のなかに、黒みがかった垢がたまった。湯を浴びないで二週間は経った。薬のせいもあるが、身体が痒く感じた。外に出るわけでもないから、特に問題はない。歯も磨いていない。でも、垢のにおいは分かる。体臭は分からない。洗濯物からはもう何のにおいもしなくなっている。

 

   9

 最後に外出したのは、どんな用事のためだっただろうか。夢の断片と、現実の断片が入り混じっている。断片たちの場は、ここにあるのだが、際限がない。平滑な面が輝く角度でしか、それらは見えないし、見えているとき以外は、断片の雰囲気すら思い出せない。

 夢というのは、一本の光線がえがいた一通りの軌跡なのではないか。断片というのは、鏡であって、その軌跡は、眺めることしかできない。現実は、断片の角度を傾けることが出来る。光の道筋は変更可能だが、夢と同じく、一通りしか経験できない。本当だろうか。夢想というのは、経験に含まれないのだろうか。

 

   10

 いま、おかしなことに雨音が聞こえる。この雨音が、断片の場にこだましているように感じるのは、断片の場は雨のことだからかもしれない。夢想する。彼と気さくに話せている情景を。

 

   11

 か細く高い音がこめかみで鳴っている。本棚に、ひとつの面が平行四辺形になっている石が置いてある。この石を舐めたことがある。ある河原で見つけた。石にうずもれて流れる川は、そのとき静かだった。川の流れよりも大きい音が聞こえていた。このか細い音がそれだ。森の一部から川辺に突き出た大木で湾曲した、土交じりの水が多い箇所には、森に対抗するかのように大きな岩があり、岩は大木の影になっていた。その影で、川の音を聴いていると、次第に雑多な音が一本になっていく。音を吸収する音だと気が付いた。立ち上がっても、靴と岩がすれる音が、一本の甲高い音に吸い込まれていったからだ。音は、岩の影になっていて、ひっくり返すと虫がたくさんいるような、中くらいの石のさらに下から聞こえる。そこに、平行四辺形の面がある石があった。石を手にした途端、川が轟々と流れて行った。石には雨のような色をしたところがあり、試しに舐めてみた。甘くはなかった。むしろ苦く、薬草の味がした。

 家で苦い部分を丹念に洗った。汚れではないのだから、無くなることに期待はしていなかった。それでも、落ちた。次の瞬間、この石を持ち帰ったことに気が付いた。

 

   12

 雨音が消えた。ペットボトルをしめた。九時、嚥下する。今のんだ薬は、病院で処方されたもので、記憶を辿ると、その通院が最後の外出だった。

「ナギサさん」

 名前を呼ばれた部屋に入る。

 

   13

 九時ということもあって、外が騒々しい。雨戸を締めているし、雨音も消えたということもあって、普段ならほとんど無音で過ごせるのだが、今日に限って騒々しい。そう感じるだけなのかもしれない。人間が活動をはじめた音が、地上の各地で鳴っているような感じ。あるときから人間が怖くなった。なにかのきっかけで、海外の見知らぬ人間に、手紙を書くことがあった。名前は憶えていないし、その人から届いた手紙は、紛失してしまった。内容は、もちろん忘れている。どんな事情で手紙を送ったのかすら、全く記憶にない。

 ただ「ハロー ナギサ」と書かれていたことが、印象に残っている。「ナギサ」。この名前を、海外にいる、「ナギサ」と面識のない人間が書いたということが、どこか突っかかっているのだ。

 

   14

 医師は、

「まあ、人それぞれ考え方があるから」

 と、二三回言った。この記憶はなぜか「ハロー ナギサ」の記憶と結びついていた。

 こう整理してみると、思いつくことがあった。「ナギサ」は、考え方には、左右されない。名前は、それだけでは、一通りなのだ。名前を持たないもの、それは、何通りなのか。例えば、彼が、名前を持たないものだったとする。彼とは、仲良くなれなかった。でも、夢では仲良くしていた。名前を持たない彼は、いったい何通りだろう。

 夢想は、名前を持たないものとする。

 夢想は、特性を持たないものとする。

 特性を持たないということは、存在しないということだ。

 

   15

 コショー、割りばし、詩集。

 

   16

 頭を垂らして、何も考えることがない、とテーブルの上の詩集に手を伸ばす。ここ一か月、本を読むことができなくなっている。本を開き、頁をめくる動作や、文字を追うことが嫌になってきた。全てが作法のように感じるのだ。本を読む、つまりは、なにかがある。それは、良いもののほうがいい。そのために、お行儀を良くしなければならない。ちがう。喉に突っかかるものがある。良いもの、感動は、ある程度、お行儀を良くしないと、得られないものなのか。いつかそんなことを考えていた。それから読めば読むほどその考えが大きくなっていき、ついには、読めなくなった。最後の方は、あがきのようなもので、詩を読んでいた。いま手にしている詩集が、それだ。開いて、読んでみようか。そんな気が湧いてきた。もしかしたら、読めるかもしれない。表紙を見つめていると、両耳の奥が一つの穴へ、捻じれながら吸い込まれていく感覚がして、身体全体も後ろへ、後ろへ、と引かれるようになり、下顎が限界まで下がった。めまいでも起こしたように気持ち悪くなり、詩集をテーブルに戻すと、ある程度良くなったが、おかしな感覚の余韻で、もしかすると、良いというもの、感動なのではないか、と考えることができた。反対に、思いつきにすぎない、とも考えてしまった。

 そう、これなのだ。まさに本を読めなくなった理由というのは。

 詩集に、コショーをふりかけた。

 美しかった。それはテーブルの上だ。

 

   17

 近くを泳ぐ空気の群れが、頭に浮かんだ断片と同じように、よそよそしくも、親しみがある。群れは、透明な姿で、においさえ持っていない。刺激閾を遥かに下回る運動は、静かに淀む、空間の色彩。断片の気配は常に感じられる。断片は場にあり、場とは空間だ。ここには瑞々しい空気はない。瑞々しい空気、それ自体、言葉にのみあることを許され、言葉に当たる光が、戸惑うように、辺り一面に飛び散っていく、その光のいくつかに、それを感じる要素があるという事態なのだ。そう思っている。中でも色彩は、夢に相似していた。色彩を顕すことは、色彩がある場で、か細い光線が、真っすぐ突き刺さる。飛び跳ねる光線の軌道は、来た道を描く。ここで注目していることは、来た道と帰り道が同じであることと、場に、何があるのかがわからないこと。色彩は断片を持たない、色彩が断片に従属している。だが色彩の場は、断片の場に繋がれながら、どこかの時間ではチューブが切り離される。同じ道を通るのは、その場の特性なのかもしれない。特殊さと断片は相いれない。それにしても、この光線の軌道というのは面白い、もしかすると0通りという言葉が最も似合うのではないだろうか。だから夢では詩が生まれない。コショーをふりかけた詩集は、だいぶ気に入っていたもので、詩に現れる全ての言葉が脱臼していた。脱臼した言葉を生み出すことは簡単だ。簡単じゃないのは、脱臼させたままにしておくことで、しかも、保存することが最も重要なのだ。「ハロー ナギサ」と結びついた記憶に、この詩集に並ぶ三つ目の詩は、

 

アパートの屋上にはアスピリンがほしてある

 

 とはじまる。

 

   18

 カップヌードルを食べる、十一時になっている。手を頭に乗せた。緩やかなうねりが軽く束になっている。癖が付いているのは生まれつきだ。油で固まっている髪に、虱のたまごでもいるんじゃないか。

 

   19

 むかしのゲームがすきだ。理由はよく分からない。平行四辺形の石を、雑多に本が並べてあるところから、カップヌードルとチョコレートの箱が乗っているテーブルに持ってきて、しばらく眺めていた。やがて音楽が聞こえてきたのだが、それにはしっかりとしたメロディーがあって、思い当たったのは、あるゲームの音楽だったのだ。

 そのゲームの名前は思い出せない。でも、たしかシューティングゲームだったはずだ。むかしのゲームにはシューティングゲームが多い。自機がはじめ画面端にいて、ボタンを押した回数で、自機から弾が発射される。ちいさな頃によく遊んだものだ。のめり込むほどではなく、むしろ、シューティングゲームは苦手だった。音楽が良いゲームは、鮮明な記憶を持つようになる。元の曲の音質は関係なく、頭の中で鳴る音は、靄がかって聞こえる。

 この部屋の淀んだ空気が原因かもしれない。思い立ってそのゲームを探した。いくら探しても無かった。仕方なく、他のカセットの端子部分に息を吹き込んで、ゲームを起動した。そのゲームも音楽が良かった。今ではプレミアが付いていて、だいたい中古相場は三万くらいする。そのゲームは、とても完成度が高いのにも関わらず、当時は全然売れなかったらしい。そのため、出回っている数が少ない。

 テレビから流れる音楽。古いゲームでも、ゲーム性は古くない。そういえば、むかしのシューティングゲームのように、画面が横にスクロールするゲームは、無くなってしまったように思う。

 思い出した。メタルファイターμというゲームだった。これも、今ではプレミアが付いている。というのも、このゲームは、対応するゲームハード会社から、発売のライセンスを得ずに販売されていたものだった。そういった非ライセンス品は、成人向けの卑猥なゲームだったり、他社の有名作品がたくさんプレイ出来るゲームだったりするが、これは正当なシューティングゲームだった。

 それを買った場所も覚えている。

 

   20

 買った場所を出ると、黒いタートルネックを着た、たばこを吸っている女性が見えた。思わず話しかけたくなるほど、美しかった。女は、女が持つ頬をなでるような雰囲気を持たず、まるで生きていないように見えた。店外の喫煙所には女しかいなかったが、とてつもなく異質な人間に見えた。

 不思議と、探していたゲームを手に入れたときの感覚は失せ、ゲームを買ってしまったからこそ、女に話しかけられなかった、と後悔すらしたものだった。

 たばこは持っていた。でもその女の近くで吸う気にはなれなかった。女に近づくと、話しかけられる場所にいるのに、話しかけることができない、そんなもどかしさを味わうことが分かっていたからだ。

 

   21

 家に帰り、二万くらいで買ってきたゲームをプレイしている間、ずっと女のことを考えていた。

 

   22

 ゲーム自体に没入することができずに、音楽を聴いている状態だったからこそ、ゲームを失くした今でも、その音楽が残っているのだろう。ああ、音楽が良かったのではなく、あのときに考えていたことが良かったのだ。

 

   23

 女のことが頭から離れなかった。でも、会いたい気持ちにはならなかった。本でも読もうか、あることが集中を伴わないでたちこめている状態はつらい。読みかけの哲学書がある。難しいと呼ばれる本は、文章を言葉の単位まで咀嚼しながら読み進めることを要求するから、それには集中が必要だ。集中すると、女のことを忘れることが出来るだろう。あるいは、全く集中できなくて、文字が滑ってしまう。詩集を読むこととは、わけが違うのだ。ここで詩集を読むことはできない、女がさらに際立って感じるようになる。そうか、思い立って、ボールペンを持つ。課題のために開かれていたノートに何かを書こうとする。小説を書く。小説の中で、女と会話しよう。小説なんて、書いたことはない。でも書くべきだと思った。脳がはじけ、手が湿ってくる。紙を抑えている部分が、ふやふやになってきた。それでも書いた。書くべき、書くべき事柄が現れた。

 意外なことに、小説を書いているあいだは、あの女のことを全く考えなかった。というか、なにも考えられなかった。しかも、出来上がった小説は、体験したかったこととは全く異なっていたのだ。小説を書こう、と思い立って、小説を書いたことが、間違いだったのかもしれない。「まあ、挨拶でも」とはじめに題名を書いてしまったことが問題だったように感じた。小説の書き方が分からない。あの女に話しかける術も、分からなかった。

 

   24

 

まあ、挨拶でも

 

 

 僕は吸血鬼だ……確かに吸血鬼だ。血が美味しいのだ。血がないと生きていけない。

試しに血を吸わないで過ごしてみた時期がある。僕は血のことで頭がいっぱいになり、死にかけた。

 そして僕はいま血を求めて喬木林をうろついている。ここは穴場で、この時間ではよく気を病んだ人間が茂みに腰を下ろして唸るようにひとりごとを言う。

 同じ人間なのかどうかは分からない。気にすることもない。血が吸えるのならばそんなことどうでもいい。処女か童貞か。処女だろう。とっても美味いから。これは想像。

 鬱蒼としている。朽ちかけている木造の物置の周囲に繁茂する踏み鳴らされた雑草は濡れている。木々の梢が冷たく幽かに揺らめいている。他人行儀な風が吹いた。広い空は惨死体のように見え、仄かに灰色めいた雲間から漏れる月光を浴びないよう木立が空を隠すさらに暗い場所へ向かう。

 僕が吸血鬼だと自覚したのはここ最近だった。それまでは確かに人間であるようにふるまっていたと思い出せる。生活というやつだ。それはあまりにも面白みに欠ける。人間の興味深い部分は人間関係の網目に沿って消去され変化に富んだ何かは好奇心を背後に否定され続ける日々を、窓から何かを眺めるように過ごしている傍らでそれらを忌み嫌っている姿が窓の中に浮かび上がってきたのだ。合わない。僕はそう思った。同時に何かを強く渇いているように感じた。ある日(忘れもしない、雨の日だ)昼食を食べていると歯が折れた。歯のことなんかこれまで一度も気に留めたこともなかったが、一つ一つ触ってみた。すると犬歯が異常に発達していることが分かったのだ。僕は吸血鬼なんじゃないか。咄嗟の思い付きは僕を覆い隠した。僕は吸血鬼だ。僕は吸血鬼だ。僕は吸血鬼だ。聞いたこともない声が聞こえた。そう、僕は吸血鬼だ。

 事実として血は美味しく感じた(疑うこともない、僕は吸血鬼だ)。

 ひときわ闇が深い茂みに身をひそめている。ここに来るやつらは月光が届くところよりも、暗いところへ向かうのだ。

 死臭がする……人間が来た。

 一本の大樹を隔てた木立の根元に人影は見えた。ひとりごとは聞こえない。ヴァンパイアの僕はひとりごとが途切れて少しした頃に茂みから飛び出して人間を襲う。吸われている最中の記憶はないらしく犬歯を抜き取ってぐったりしている背中を軽く押すと人間はふらふらと歩きだす。こちらを振り向いたりはしない。吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼になると誤解されているがじっさいはそんなことはありえない。僕がこうして同一人物のような人影を週に一回くらいの頻度で襲っているからだ。

 地面が窪んでいて木々の生え方の角度が多少斜めになっている箇所はさっき見上げた雲間のように灰色の風景が広がり、現れた人間らしき人影は風が吹くたびにその姿を顕わにした。

 黒いワンピースを着た少女だった。やはり、当たっていた!

 姿が見えたにしてもすぐ黒い影になって相変わらず座り込んでいるから歪な丸みを帯びていた。ひとりごとはいつの間にかはじまっていた。この世の全てを呪うようなひとりごとが空しく響いて消えていく……女だとしっかり分かってしまうと襲うことにためらいが生まれてきた。本当に血をいただいて良いのだろうか……もしかすると狂って逆に襲い掛かってくるのではないだろうか……そのあいだも少女の呪詛が聞こえてくる(耳を澄ませてみれば確かに少女の声だ)……恐ろしく寒気がしてくる……少女のほうが吸血鬼だったとしたら……僕はもしかしたら吸血鬼じゃないのかもしれない……僕は正真正銘の人間だとしたら……職業を自ら捨てた狂っている人間なのか……苦しい……苦しい……考えてみれば吸血鬼は不死じゃないか……苦しい……そうだ、また試してみればいいじゃないか……つまり僕はこれから少女のもとへ向かってこう話しかけるんだ……「やあ、僕は見ての通り吸血鬼なんだ。中世ヨーロッパにふさわしいね。そこであなたに提案があるよ。僕にちょこっと血をくれないかい。ほら、ここに大きな木があるじゃないか、それに少し手首を擦りつけてくれるだけでいいんだ。幹は尖っているから簡単に皮膚を剥がせるよ」……ああなんでこんなことを考えているんだろうか……ほらひとりごとがとぎれたじゃないか……いまこの茂みから勢いをつけてとびだせばいい……そうして僕は美味い血を吸う……まさしく吸血鬼じゃないか、それが……

「やあ、僕は見ての通り吸血鬼なんだ。中世ヨーロッパにふさわしいね。そこであなたに提案があるよ。僕にちょこっと血をくれないかい。ほら、ここに大きな木があるじゃないか、それに少し手首を擦りつけてくれるだけでいいんだ。幹は尖っているから簡単に皮膚を剥がせるよ」

 風が吹いて木々がその身を躍らせて月光がくぼ地に差し込んでくると少女が振り返ったが、僕は久しく人間と会話したことがないし襲わず咄嗟に考えていたことを実行してしまったことに気づいて、目線は少女の顔よりもやや下を泳いだ。少女が振り向き終わるまでにワンピースの裾から伸びる白皙の腕に薄っすらと何本もの線が浮き上がっている姿が見えた。

 

   25

 こんな小説を書くつもりはなかった。書き終えたとはいえ、こんな終わり方になったのは、これ以上先を考えることができなかったから。ペンを置いて、書いた紙を眺めている。自然と、女のことは頭からさっぱりなくなっていた。ゲームに集中できた。でも、代わりに書いた小説のことを考えるようになっていた。少女の名前は、μだろう。吸血鬼らしき人間は、どんな名前だろう。いや、名前なんてどうでもいいような気がする。テレビから電子音が聞こえる。空気の端を夢想する。空気の端とは何だろう?

 

   26

 シャワーを浴びてきた。すでに一八時を迎えている。髪を洗い終え、視線が足元に落ちて、水が薄っすらと茶色に濁っているのが見えた。茶色の湯が減っていき、頭をしめていた言葉が減っていく。

 改めて部屋に入って、その汚さが強く感じる。まるで他人の部屋のように感じる。過剰摂取した薬が、抜け切れていないのか、喉に大きな空白を感じる。

 

   27

 脱ぎ捨てられた服たち、暖房器具、ゲーム類、ドライヤー、ヘアアイロン、かみそり、爪切り、かりてきた本たち、書いた小説、ゴミ箱、洗濯物、鏡、本棚、ベッド、テーブル。

 

   28

 現実の断片に誘われた光線。なにかに身体を動かされているような感覚がしていた。部屋が綺麗になっても、雨戸は開けなかった。部屋に干してある洗濯物は、畳まずに干してある。疲れを感じ、ベッドで体を横にしていると、ひどい吐き気に襲われる。念のためにゴミ箱を持ち上げて、ベッドの隣に置く。ベッド下から乾いた音が聞こえた。あまりの吐き気でよく見えなかったが、小説を書いた紙が、掃除のあいだにそこへ流れてしまっていたことを理解した。

 

   29

 二十時五分くらい、部屋に干してある服から、最後に買った服を取って、着る。身体に余韻はあるも、吐き気は無くなっている。お腹は空いていない。家を出る。

 

   30

風が慣れない服のでかでかとひらいた袖口を揺らし、滑らかな愛撫を感じる。伸びてきた髪が視界に入りこんで、風鈴のように目の前で揺らめいている。シャンプーのにおいがする。

排気ガスや雨などで、朽ちていくひさしの下に、斜めを向いた自転車が、どこまでも並んでいる。まばらに置かれた自転車たちの後ろに、出来たばかりのようなファストフード店、居酒屋が見えた。

 

   31

 あらゆる方角に人間がいる。草木が身体をなびかせ、囁き合っている。田圃で二匹のアメンボが足と足を合わせて踊っている。地鳴りのような音がする。頭蓋の奥にしまわれている、柔らかい何かが、かすかに、しかし、ほとんど確実に歪んでいく。その度に、こめかみが波を打ち、鼻が裏返り、頭上を通り過ぎて、首の後ろに突き刺さる感覚がする。

 

   32

 風が勢いをつけて、視界を汚していく。ひさしの下の自転車や、飲食店は、大きな音と強すぎる風に葬られる。片手で座席を掴み、片手でこめかみを抑える。こめかみを抑えるつもりが腕がない。頭を抱えて地面にへたり込んでいる自分が見える。彼の顔は、苦痛に歪んでいながら、どこか穏やかで、楽しそうに見える。彼は、狂気になりきれていない全身をもって、何かを全てここにかき集めているようだ。爪が削れて、指の先から血が流れている。彼は無言でいた。身体になにか突風のようなものを感じる。音も無く、風も無く、特性も無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   33

 

二角形

 

 

 ポストのつとめは「ずっと同じ場所にいる」これに尽きる。空白と郵便物を抱えて、ずっと同じ場所にいる。郵便物より、空白のほうが重要だ。ポストは、空白の景色を眺めることや、郵便物の文字は読むことが出来る。でも、文字は読めても、文字が書いてある物を見ることはできない。おれが見つけ出したことだ。おれはポストとして、ずっと同じ景色を眺め続けている。

 

   34

 おれは、毎日投函される文字を、おれに蓄積させていたらしい。そのせいで、こうしてしゃべることが出来るようになった。

 

   35

 言葉は、郵便物にしか通じない。郵便物よりも空白が重要なのは、郵便物というのは絶え間なくおしゃべりを続けるからだ。おれはそのおしゃべりが嫌いだし、あいつらとは話すこともできない。ずっと空白のままでいたい。空白の状態は、人間にとっての眠る状態に近いらしい。人間の言葉を読むことができたおれは、あたかも人間のように考えることが出来る。人間のような生活をすることはできないが、眠る状態の外に何かが広がっているのだから、まあ、人間の生活をしているようなものだ。

 

   36

 少し違うのが、休日の方がよく起きていることくらいだろう。平日には四回、休日には二回集荷があり、他のポストよりは長いあいだ眠っていられる。

 

   37

 おおかた人間のように考えられているらしい。でも人間のように会話する相手はいない。会話を聞いていても退屈で、腹が立つくらいだから、会話というのはよほどつまらないものなのだろう。

 

   38

 とりあえずおれに分かるのは、いま見える風景以外の風景があるということくらいだ。わかるというか、興味があることで、その他のことは、いまは興味がない。

 

   39

 そういえば恐ろしく人間に興味を持ったことがあった。その頃も会話はつまらないものだと考えていたが、投函しに来る人間ひとりひとりにやたらと話しかけていた。

 

   40

 もちろん人間とは話ができない。おれのなかであんまり読んだことがない、人に呼び掛ける言葉がこだまするだけだ。

 

   41

「郵便ポストさん!」あるときそんな声が聞こえ、おれがポストらしいことを知った。次に「郵便ポストさん!」と呼びかけられたときは、思わず「やあ! おれの声が聞こえるのかい?」と話しかけたが、全く聞こえていないようで、母親らしき人間に手を引かれて見えなくなってしまった。

 

   42

 眠る状態の外に何かが広がっているということは、もしかするとおれは今でも眠っているのかもしれないな。ものすごくありきたりな考えをして、おれはうんざりした。郵便物が投函された。さらにうんざりした。じゃあ、眠りを包むおれを包む世界の外にはなにがあるんだ。世界の外ってなんだ?

 

   43

「おい、ダバークバー起きろ」

 人間らしく目を擦ったつもりで、視界が開かれる。

「早く起きろ!」

 目の前にはへんてこな絵が描かれたキャンバスがいた。絵だって? こんなもの絵じゃない。右上から左下に向かって一筆で円を描き、その出発点と到達点は円の外にあり、その一本の線が交わるところは一点しかない、ただの落書きで、しかもキャンバス自体が破れていた。おれが目を覚ますとキャンバスは安堵したようすで、心持ち線の出発点を下に向けた。

「なんだってお前はおれを起こすんだ!」

 おれは声を荒げて叫んだ。「郵便ポストさん!」の少女でもない(しかも人間ですらない!)やつに眠りを妨げられたことが不服だった。

「ダバークバー、起きたじゃないか! なんで眠ってなんかいるんだ!」

「お前、もしかしておれに話しているのか?」

「とんまのポスト野郎! お前以外に、いったい、誰がいるんだ」

 驚いた。こいつはおれの声が聞こえるらしい。

 

   44

 キャンバスの話で、おれはキャンバスの持ち主のアトリエに案内された。キャンバスの意図はわからないし、まさか自分の身体が動くだなんて! 少しの感動が終わった。おれは不安な気持ちがした。不安をそのままキャンバスに話す気持ちにはなれなかった。「なあ、なんでおれのことを『ダバークバー』って呼ぶんだ? おれはポストなんだぞ」

「どうしてもこうしてもない。わたしは君を見たときにその言葉が浮かんだんだ。君はもうポストじゃないからな、わたしが新しい名前を付けたんだ」

「ポストじゃない? おれはどこからどう見たってポストじゃないか」

 不可解なことばかりだった。気が付くとおれはキャンバスに向かって滝のような質問を浴びせていた。キャンバスに向かって話すというか、おれを包む世界というものに抗議していたようにも感じた。

 

   45

 キャンバスはおかしなことを話しはじめた。それは全く信じられないような話だったが、考えられるすべての疑問は、キャンバスの話で解決してしまった。キャンバスの話はこうだ。人間は全て死んだ。それだけだった。

 

   46

「そんな話、信じられるかよ」

「違うんだ、君、信じてくれ。神が現れたんだよ……」

「人間絶滅の次は神か!」

「信じてくれ! 信じてくれ!」

 アトリエはひっそりとした森の中にあり、おれのいた場所から遠くなかった。ここまで来る途中に、一人も人間を見かけなかったのは、そういうことだからなのか?

「人間は全て死んだんだ。そしてわたしは、この意識があることを、数か月前から知っていた……わたしは画材店にずっといて、客から、自分はキャンバスであって、絵を描くものなのだと知った……それなのにわたしはずっと店にいた! わたしは意識を持ってからしばらくはその店にいたのだ、実に、昨日まで! 今日、ある女に買われたんだ……そしてここに来た。」

「神というのは?」

「この森に平たい石があるのだが、その上で横になっていると現れたんだ。思った通り、形なんてなかったよ」

「形がなかったのに、どうして神だってわかったんだ?」

 キャンバスはかたかたと震えだし、感動に包まれているようだった。

「いけばわかるさ」

 

   47

 ダバークバーにはこれといった意味はない、とキャンバスは森の中を歩きながら言った。神を感じてから、彼は意味を喪失した言葉を好むようになった。おれは釈然としなかった。だが釈然としない気持ちは、彼が言った「意識」を持つ前に感じたことはあったのだろうか? おれはなにがなんだか分からなくなってきた。おれがポストではなくなったのは、人間が絶滅したから、という理由だったが、全くもって正しいことのように感じた。正しいことだというのに、信じることができなかったのは、やはりどこかありきたりな考えだったからだろうか?

 

   48

 はじめて来る森なのに、どこか見覚えがあった。大きな木が広がる景色に面白みを感じなかった。木々を鳴らして通り過ぎていく風のひとつひとつにも、どこか懐かしいものを感じた。

「見覚えのある森だ。はじめて来たはずなのに」

「わたしもそうなんだ」

 しかし、神の見覚えはなかった。彼は急いで付け足すように言った。彼の足取りが早くなった。おれは騙されている。これは確信だった。彼は何かを企んでいて、おれに何か悪いことをしようとしている。神の話になると彼は怪しいそぶりを見せる。それが不安に繋がり、不安は猜疑心に変わった。おれは逃げ出した。来た道から見ていた木の幹色合いを目印にしていた時点で、おれは完全に彼を疑っていることに気づいた。彼はおれを追ってこようとはしないで、身体の向きを変えて覚えておけよ、君はダバークバーだ! と叫んだだけだった。駆けている最中、おれは明らかに恐怖していた。何が神だって? 何が人間は全て死んだだって? あいつ、薬でもやってんじゃないのか……

 

   49

 森を抜け出してから、血眼になって人間を探し回った。彼の言い分が絶対に間違っていることを証明したかったのだ。だが街には、少なくともおれが元々たっていた地域には、人間は誰もいなかった。信じられない話!

 

   50

 考えられる限りにおいてだが、おれはなにかについて考えることだけを考えることが出来る。

 

   51

 神について考えるようになったのは、彼のせいに違いない。それまでは、まともに神のことなんて考えたことがなかった。

 

葡萄酒の番人が

彼の小屋をもって見張りするように

主よ 私はあなたの両手の中の小屋

おお 主よ あなたの夜の夜です

 

 これはリルケの詩の一部だ。老人が、恋文じみた郵便物を投函した中にあった文章で、老人の文は続いて「これはリルケという詩人の、詩です。」と書いてあった。

 

   52

 リルケという人物について、他になにも知らない。リルケがダバークバーについて何も知らないように。いや、リルケが神ではない確証がない以上、ダバークバーのことをしらないとは断言できない……

 

   53

 ………………

 

   54

 結局、人間がいようがいまいが、元々いた場所に戻った。人間を探して眠らずに街を徘徊していたけれど、そこまでして彼の言い分を覆す理由がよく分からなくなったのだ。元居た場所に戻っても、やはり眠ることはできなかった。おれは、なにも投函されていない状態だと眠ることになっているから、彼に起こされてから今までずっと眠り続けているのかもしれない。そうするとおれは、なにから起きたのだろう。おれの常識が激しく音を立てて崩れていった。だがそれは不思議なことが集まっているのに、全く面白くなくて、もはや関心さえも湧かない……不眠のポストが考えられる限り、この景色は動いていく。その全てには、既視感がある。言葉がある。それらにあてがわれるものには、きちんと歴史があるのだが、歴史を信用しているかどうかは別の話なのだ。原理的に不可能な事は、たしかにある。おれはここまで考えて、悲しくなった。

 

   55

 おれはなぜ言葉を使えるのだろうか。それは、原理的に不可能だったはずなのだ。おれは人間が生み出した道具として、あるときが来れば人間たちに葬られているはずだったのだ。

 思いつくのは、確実にいまは眠っていないということだった。眠っているあいだ、おれは夢を見たことは一度もなかった。おれの夢は無いのだ。無い状態は、いまでは確かに、具体的なかたちを持って、感じることが出来る。おれのなかに、郵便物はひとつも入っていない。空白感は確かだ。常に感じられるものだ。おれには、信じられることがあまりに少ない。これは彼から学んだことだ。彼からパズルの最後のピースをもらい受けた。完成した絵は、彼に描かれた絵そのものだった。信じられるものを探せば良いのだろうと思った。パズルのピースの隙間に砂を流し込もうと、そんな考えが浮かんだ。

 

   56

「だからおれはさあ、わからないんだってば。わからないということは信じられるんだ、でもこれも最近はおかしいような気がしてきた……だってこれはよく聞く言説じゃないか……でも信じられるんだから仕方ない。信じられるってことは、信じられないことと同じように、どうしようもないことなんだ。そうだろう? 信じられない人間を、信じさせるには、ショックをあたえてやらなければならない……ショックはさまざまさ。そいつの気質によりけりだからな。つまり、不確定だってこと……まただ! またこれだ! どういうことなんだ、まったく! じゃあおれは聞くぞ、おれはいったいどうしてここにいるんだ。答えられるか? そう、記憶だ。じゃあ記憶って? ふざけるんじゃない、この大ボケ野郎が!」

 ポストは、カウンターに投函口を打ち付けた。痛みは感じなかった。カウンターが少しへこんだ。

「また酔っちゃって」

 このパブのママの手伝いをしている、猫のぬいぐるみは、あきれて大きなため息をついた後に、

「そんなにつらいことがあるのなら、私にそうだんしてもいいのよ」

 心配げに前かがみになった。ただでさえ猫目である瞳の切れ筋が、色っぽく艶めいていた。ここでポストが加齢臭を気分が悪くなるほど湛えた、品性にかけらもない言葉を放つことはできた。しかし、ポストは大声で自分が考えられたことを言うことを選んだ。酔っぱらったポストには、色気のことが投函口をかすめるのみで、酒で満たされた空間とは相性が悪く、選択肢なんてそもそも無かった。

「つらいことと来た! おかしなことを言う娘だ……こうして悩みを打ち明けているというのに、それが悩みだなんて、考えられないようだね。これがおれの悩みなんだよ、子猫ちゃん! じゃあここで、さっきごっすんとテーブルに投函口を打ち付けて閃いたことを話してあげよう。なに、難しい話じゃない……なあ猫さん、あなたは、わたしという言葉を使って、何を指しているんだい?」

「子猫のぬいぐるみ、ミューちゃん」

「ミューちゃんは何をしている?」

「ダバークバーさんの話を聞いてるの」

「話はどこにある?」

「話に場所なんてあるの?」

「じゃあ、ミューちゃんの場所はどこ?」

 ポストはとどめにそう言い放った。この発言にたいそう力を込めていたのか、言い終わると、投函口の蓋が翻った。

「わからない……でも、わたしなりに、ダバークバーさんのひねくれた性格から、答えを考えてみたよ」

 

   57

「ミューちゃんが、そこ、って決めたところが場所なの」

「あるいは正解だよ、でも、不正解だ」

「どっちなの」

「半々だよ」

「そんなのってあるの」

「むしろそんなのばかりばかりだよ」

「あなたの考える答えは?」

「おれが解答を求めているあいだに、身体を大きく動かす」

「それって、何を示すの?」

「濾過さ」

「濾過?」

「身体を攪拌することで、意識を際立たせる」

「結局、何が言いたいの?」

「痛みはおれじゃないってことさ」

 

   58

 またあの酒場で下らないことをした……馬鹿げている。酔狂のたわごとに付き合わされるなんて、かわいそうに……かわいそうなのは、このおれだろう。酔っぱらったのにもかかわらず、その時の言動を忘れることができていない。はっきりと覚えている。お手伝いさんに言おうとしていたことは、おれの発明品だ。痛みは、おれが感じるものではない……おれの身体が感じるものだ……おれとおれの身体は、繋がっているようで、繋がっていない……

 

   59

 ポストは酒場を出て、建物の間の細い道をヘロヘロになりながら歩いた。建物は大通りに開かれた場所に面しているが、酒場は正面から入れない。ポストは大通りを歩いた。人間がいないことが、かえって好都合のように感じるようになったのは、この「イリヤ」というパブに入り浸り、酒を煽る日々のうちに見いだされたものだった。だが、酔いが回ってくると、人恋しく感じた。人恋しくなる、というのは、人間のそれと違っている。ポストにとっての人恋しさは、同じ言葉を使うのに、コミュニケーションを取れず、身体が固まる現象のことだ。遠いむかしに眠れなくなった原因のキャンバス……彼のことを考えながら、ポストは歩き続ける。

 

   60

 あれから、一度だけ彼と再会したことがある。キャンバスの穴は塞がれて、一筆書きの線も消えていた。その代わりに、いちめん薄いセピア色が広がっていた。彼は陰気な人間ではない。その証拠に、彼は、街の中心にある、広場に現れたのだった。ひとりだったが……

 それにしても、ひとりでいることが、もはや運命付けられているように、噴水のへりに立っている彼を見るのは、苦しかった。同じ彼でも、穴があり、一筆書きが描かれていたら、話はまた別だっただろう。彼に描かれているものが問題だった。一色で、しかも、縫い目が見えているのは、痛々しいものを呼び起こしたし、痛々しさが、彼との関係のみならず、意識を持つらしい物たちが、それぞれ好きなように振舞っている、陽当たりの良い広場に、全くもって場違いな書き割りを持ち込み、穏やかな調和を狂わせている姿に(おそらく彼はそのことに気づいていない)、彼の変化を感じずにはいられなかった。

 

   61

 穏やかな夜の詩人の目を覚ますように、水がたどり着いた石橋の下を流れている。とめどない流れは波を生み、その先端には星々の煌めきが浮かぶ。

 

   62

 気持ち悪くなってきた。これは悪い酔い方だ、ちくしょう。意識ははっきりとしているのに、このつらさに囲われていて、逃げ道がない。くそ、酒なんて飲むんじゃなかったよ! 酒を飲んだところで、出てくるのはいったいなんだろう? 取り止めのなさ、それだけだ! お手伝いさんに話したことが、何よりの証拠で、おれのくだらない、他人を想定した行動をしている。ああいう風に、想念をひけらかすのは、「想念をひけらかす」やつに見られたいから……とは言うものの、そんなことさえ、信じられない! ああ! 彼のことが、川の流れから想い起こされた。くそ、おれはあいつになりたいんだ……この言葉は信じられないが、信じる信じないを考えていては話にならない……おれはああなりたい、ああいう風に、景色に風穴を開けたい……いや、違うな……違う……

 

   63

 ポストは石橋の欄干に佇んで、何かをぶつぶつ呟きながら、投函口を開けたり閉めたりしている。川べりに木々が並んでいた。土手には、枯れ落ちた葉が敷き詰められている。欄干にぴったりくっついたポストが突然、耳をつんざく叫び声を上げて、欄干二つ分くらいの高さまで跳びあがった。最高点で身体を水平に保ち、そのまま欄干まで落下していく。投函口から、たくさんの液体が流れ出た。切手のようなものが液体に混じっていた。

 

   64

「大丈夫ですか!」

 とミシンが慌てて、川に落ちかけるポストを抱え起こした。ポストは投函口を幽かに動かした。すると、投函口から声が聞こえてきて、一安心した。

 

   65

 ああ、もういっそのこと、吐いてしまえばいいんだ。人間たちだって、そうして酔いを醒ましている……それに、おれにとって吐くことは、日常のことだったじゃないか……おれは人間じゃない! 張り切って吐いてみたらいい……そう、そのつもりで……しかし、どうしたら、吐くことが出来るのだろう……

 

   66

 

 旅の帰りは同じ道。

 行けども行けども歌はなく、

 病める心に翳り見え、

 身を躍らす大烏。

 ハァー ヨイ ヨイ

 

   67

 投函口から聞こえてきたのは、ポストの声ではなく、ミシンにとって聞き覚えのある声だった。小気味いいリズムが、ミシンを刺激する。ミシンはひとりでに動き出した。ポストはミシンに抱えられ、感覚が敏感になっていることに気が付き、身体が軽くなっていった。機械的なリズムが、空洞の身体に響く。細い糸が張り巡らされ、出来事と想念が出会う場所。あらゆる音が届かない。まるで、ポストの底のようだ。

 

   68

 夜空を、灰色の腸絨毛が広がる球面の内側から眺める。固定されている荒波の一部がある。荒波の流れは、穏やかに感じる。空漠とした夜空の肩が見えた。

灰色の腸絨毛は渺として動かない。あの荒波は静寂をひらき、ひとつの溜め池になる。夜空は地球の表面積を遥かに上回っている。重要なプラスチックがかけてしまった目覚し時計のような夜空は、反転して地面になった。地面は、地球の表面積になる。これは内的な話だ。

雷が聞こえているというのに、いつまで経っても、雨脚が近づいてくることがない広場に、幽かに差し込む月光を浴びて、敷石に落ちる影がある。影は元々、二つの影だったようだ。

 

   69

 おれは起き上がった。

「ああ! 酔ったついでに、眠りこけてしまった!」

 おかしな様子だ。ミシンがベッド傍の椅子に座っている。

「よかった、目が覚めた!」

 おれの横でミシンが飛び跳ねた。椅子から落ちた。

 

   70

 おれはどうやら、助けられたらしい。気を失うまでの出来事はすべて覚えていたのに、助けられたことについては、ミシンと共に、あの夜を確認していくうちに理解した。

「すごい、ゲーゲー吐いてましたよ!」

 ミシンは楽しそうにそう言った。おれはミシンに助けられた?

 

   71

 おれは彼のことを疑ったように、ミシンのことも疑う。

 

   72

「もしもし、ポストさん」

「なんだよ」

「神って、死んだらしいですよ」

「そうか」

 

   73

「もしもし、ポストさん」

「なに」

「このまま、横になっていたいですか?」

「できればそうしたい」

「じゃあ、横になってください」

「そうするよ」

 

 

「ポストさん。自分、ある時に、言葉が降ってきたんですよ。あ、自分は、普通の家庭にいたので、子供の成長を見計らって買われて、そこで言葉を覚えた。子供が運動会だったんですね、ジュカという子でした。自分は、スジャータと呼ばれました。ジュカにだけでしたが。それで、綱引きにジュカが参加しました。ジュカはひ弱で、綱引きがいやそうでした。ジュカは自分によく話しかけました。『スジャータ、私、いやだ』。運動会には行きませんでした。ジュカは本当に風邪をひきます。その夜に、ジュカは自分の前に立ちました。ただでさえ表情の読めない顔です。ジュカは本当に顔がありませんでした。自分は分かります。両親は分からないようでした。ジュカは自分で、『大変なことをした!』と叫ぶなり、自分に軽くチョップします。自分はなにも分からない。二角形って知ってますか?」

「知ってるよ」

「ああよかった、ここからは二角形です。綱引きは、失敗でした。ジュカが、綱引きの綱を切る、すると綱は切れ、赤白の帽子を被る彼らは倒れた。そういうこと」

「それって、どういうことなんだ?」

「ジュカが、綱引きの綱を切る、すると綱は切れ、赤白の帽子を被る彼らは倒れた。そういうこと。詳しく言うと、ジュカは、神だったということになります。神の神でした。ジュカは神です。詳しく言います、二角形はご存じですから、次です。次は、ジュカは綱を切った日、あ、切ったといっても本当に切ります、でも運動会には不参加。そういうこと。だからまあ、これは、もうわかりますよね。二角形です。二角形の面積を求めよ。二角形の面積は、求められます。あたりまえ。じゃあさ、二角形の長さって求められるのかな。すごい、ジュカは答えを出します。『時と場合による』。」

「『時と場合による』?」

「まあね。次。ジュカは続けて『でも破裂するよ。それも時と場合によるんだけど』と言います。ジュカは黙りました。『スジャータ、ごめん、間違えてたよ。二角形の長さは一定で、数字は(ここで中指を薬指に絡ませ、それ以外の指を折りたたむ)。近似値じゃない』と言いました。」

「さっぱりわからない」

「そうだろうと思った。きっとジュカにも分かってないよ。自分は分かった」

 

 

 スジャータは、おれが寝そべっているあいだ、延々とジュカについて話した。どれも信じられない話ばかりで、おれは寝たふりをして、話が終わるのを待っていた。でもスジャータは壊れかけの機械のように、絶え間なく針を動かしていた。

 

   74

「きっぽこきっぽこ。ポストさん、ああ。順番間違えた。きっぽこきっぽこ。やめて。ああ。次ぎぎぎ。ジュカは『時:さながら星』と言ったのを聞いた自分がいるのをいますよ。つつつ次。ジュカは『蛇:世界』と言いました。ジュカは」

 

「すごい。自自自自自(ここで海指を森指に絡ませ、それ以外の指を折りたたむ)。ようこそ。ジュカが言わなかった言葉で、コール、コール、ソーパチだ!」

 

「空に接続されたジュカが遡って布を被ったからといって印刷機は止まらぬ。困ったジュカは、さあさあ、こんにちは! 明日は曇りで:しかし忘れてはいけない。ジュカは忘れてはいけない:した。/『時列車曰く』」

 

   75

 なにも疑うことが無かった。スジャータが吐き出す言葉の羅列は、疑う余地がなかった。スジャータの話を聞いていると、たびたび気持ちが悪くなって、部屋を飛び出した。するとスジャータは、

「3。探しましょう」

 と言って、「二角形」と書かれた紙を投函した。

 

   76

 スジャータが、

「するよ。ジュカは『時→:直(/)線の樽:』。終:ンー:り」

 と言うと、静かになった。スジャータがジュカを語りはじめてから、このことを言い終わるまで、一度も止まったことはなかった。

 

   77

 部屋に静寂が訪れ、足を持つ夜が、空気のそれぞれにこびり付いている。布団をかぶったダバークバーの頭にあったのは、このままじっとしていた方がいい、ということだった。目がさえて、あらゆる想念が夢想の中を駆け巡った。身体が痺れてもダバークバーは動かなかった。むしろ、身体が痺れていることが自分にとって良いことに思えた。ダバークバーは、自分からベッドで痺れながら過ごすことを期待していた。

 

   78

 森の中に光が溢れるのは、朝に包まれたことを意味した。ヘルトメニメスは起床した。朝に、小枝を拾い集めた。

 枝は毛玉の塊のように一か所に集められた。

 川は一番大きい木の茂みから近いところにある。ヘルトメニメスは、そこに枝を流そうと考えている。

 

   79

 コーヒーのにおいがした。身体はいまだに痺れていて、うまく動かせなかった。台所から声がする。

「コーヒーとパン」

 あたふたとした素振りで、テーブルの上にコーヒーとパンが置かれた。

 

 僕はコーヒーとパンを置いた腕を掴んだ。

 腕は石灰になって、コーヒーに沈んだ。コーヒーから、何かが出てくるように感じた。三年経っても出てこなかった。僕の周りには何もかもなくなっていた。

 

 水たまりが出来ているのは、昨日の夜にたくさん雨が降ったからだ。地面にある程度の窪みがあったから、水はあるものの形に合わせて姿を変え、沿うようにして伝っていく。時には途切れ、水の姿も零れ落ちてしまい、分離することもある。

 

 水たまりは分離すること無く、留まるようにある。

 

 しばしば鏡に喩えられるように、水たまりは面としてある。陽は最も遠い高度に達し、花が密生している様に光っていた。水たまりの中心に陽があり、陽の花弁は咲き乱れること無く、光彩をほとばしらせること無く、中心に陣取りながら象をあらわにして留まっている。水たまりの中で、遥か過去に遡及しながら、水と陽をあらわしている。同じように此処には水と陽が在り、留まっている。

 

 ある影がよぎる。とらえようもなくよぎって行った。影は水たまりに飛んでいき、水たまりの中の陽を掻き乱していた。影は水を辺りにばら撒き、間断なく姿を変えていく。水の中で影は戯れるよう。揺れる鏡面の中で影は水を纏い、ひとしきり力を蓄えたところで。また影がよぎる。

 

 影は、大きな烏だった。

 

 窓は、まだ大きく淵を伸ばしていた。

 

 淵が伸びるにつれて、窓が付く壁は広がっていく。壁は世界にそそり立つ薄い窓になっていた。窓からすべてを覗くことが出来るように果てしなく広がり、やがて、これが世界になり得るほどの淵が生まれている。深い淵、深淵のことだ。

 

 窓を深淵と表すようになった。当然のことだった。

 

 

 

 力なく身体を傾けた。椅子に座っているのは彼だった。再会はいつぶりだろうか、すっかり忘れてしまった。

 

 世界に光が満ちている。静かに座る彼が、必死に喋っている。言葉の一つ一つが、温かみを持っていた。

「ということなんだ」

 彼は喋り終えた。

 ひどく悲しい気持ちになった。彼に関係することが、凄惨な彩りをしていた。

 彼を励ました。

 彼は少し笑って、部屋を出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 彼を待った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は部屋に入ってきた。ベッドで横になる人を目に留め、不審な気持ちに満ちた。ベッドの傍にゴミ箱が置いてある。どういうことなのか、逆さまに置いてある。横になる人は彼の方を向いて、悪態をついた。彼は、どうしてこの久々の再会で、罵詈雑言を浴びせられなければならないのか、腹が立った。ベッドに向かってゴミ箱を投げた。吸い殻がたくさん盛られている灰皿を、横になる人の枕にかけた。灰皿自体は、横になる人の頭に投げた。本棚を倒した。ミシンを投げた。横になる人は布団にうずくまって息をひそめている。怒りが収まらず、自立する鏡にテレビをぶつけた。服を投げた。隣人がさすがの騒ぎに痺れを切らして、部屋に入ってきた。彼は事情を説明した。隣人も怒った。隣人は火を提案した。彼はとめた。隣人は車に乗り込んだ。横になる人の部屋に向かって一直線に突っ込んだ。横になる人の頭が転がった。彼と隣人は誠実に生きた。そういうことだ。結局は……

すべて

 運がなかっただけで階段から落ちていくことが、どんな解釈を持ってしても、階段から落ちてはいなかったと考えられるほかに、思考の余地はどこにもない。
 弓なりの道の、うねりを描く線を見ればいい。君の望むものが、そこにしかないってことは、さんざ、あらゆる書物に書かれてきたことではなかったか。緊張している震えのなか、使い道のない、伸びっぱなしの坂を思い浮かべてみればいい。すべるには急すぎ、整備するにはあまりにも手間がかかる上に、そこに時間をかけるのは無駄だって言いたくなるような坂の丘。剪定された灌木のきらめきに、どんな雫を見るだろうか。
 君の家は高台に位置している。そこで暮らしている、そう言われているが、君の生活は暮らしと呼べるものではない。じゃあ、なんと呼ぼうか。
 幸福なことに、君はそれにあたる言葉を見出せない。それは君の聡明さの証になる、と君は考えていた、陽は何度も暮れていった。
 橙色の日差しに伸びる陰に寝そべった。
 昨日の雨で土は濡れている。お気に入りの服を着る君は、転がって楽しんだ。君の事実は象徴だ。あっても、なくても、つまりはそういうことだ。
 寝る前にすることがあってもいいって思っただろう。日記が四日も続かないように(君に読み書きが出来ることは、そもそもおかしいことなんだ)、あらゆる癖は君が、君が決めた、変身の掛け声だった。不眠は君が決めている。
 深く滞っている夜に、どこからか聴こえてきたなにかに合わせて踊る君。想像の余地はある。不眠は君の解釈を拡大するための手段なのだから。異常のように、君は不眠のなかで君を見る。それをかたどるシンボルは、あの泥しか君を知らない。
 ただでさえ空気が薄い。その上に登っていく、大丈夫、意識は冴えている。
 狭い道と大きな木を、遠くから君は見ていた。
 苔の生えたガードレールなら、等間隔で曲がっている。
 山のような森で星が育つ想像をする。寝そべる君の眠りは近い。寝台の上ではない眠りが全能をもっている、と言う声が、戸口に立っていた。
「君のような存在は計り知れない。ついぞ見たことが無い。考えたことはあったのだが、まさかここにいただなんて。きっと孤独で苦しんでいるでしょう。少しでいいのです、話をしませんか」
 真鍮のドアノブを持つ腕が震えている人は、こう話し終わるまでドアノブから手を離さなかった。そのドアノブは、気づいていないのだろうが、人が作ったものだ。
 暗がりで熾火を見るなか、先日会った概念と戯れている君は、この来客に驚くはずもない。薄ら寒い部屋にほんのり火の香りが漂っているが、君がそれに気づくこともない。ドアノブを握る人を点検する前に、まずは瞳を開けることが必要だ。あまりにも無防備である君の姿を眺める人、君の言葉を待っているようにドアノブから手を放し、緊張状態を感じたのか、妙に砕けた調子で声を出した。
「まったく、寒いですね。知っていますが、あえてお伺いしますと、おひとりでここに? いいえ、質問が悪い。私が悪いのです。本当に、何と言ったらいいか」
 扉が締められたが、どうというわけではない。
「失礼。やはりこうした方が暖かい」
 まだ君は寝そべっている。
 半分の瞳で、その声が入ってくるのをある程度だけだが、阻止することができた。
「繋がらないの」
「え?」
「繋がらないの」
「……そうですか。そうです、もう、私は死ぬしかないのですよね。わかっています」
 君に触れようとした気持ちを引っ込めて、ドアノブに手を掛けた。人が君の家を出る前、つぶやいた言葉があった。君は聞き取れなかったが、知っていましたよ、と伝えていたことはわかる。
 そして君の不眠は再び訪れる。だが問題はない。どうでもいい事柄である、もう一度、扉が開き
「君は、いくら呼んでも、いくら書いても、いくら見ても、まったく君とは無関係のものだ。私は死ぬ。このことに気づいたからだ。君はどうだろう、悪いが、これは真実で、君は死ぬことが出来ない。私はいつでも死ねる。だが、君にとっても、君以外、私以外、君の言う君以外、私は君の死をある終りになぞらえることをよしとしていない。が、これは間違いで、君はあるだけだ。しかし……君は、済まない。これは本当に分からないんだ。君は生きているのか? だが君はそう、君が在るのはどこでもない。……ここまでの言葉は、そうだな、言う必要も無かった。実を言うと、私もそれを知っていた。私は死ぬだけだ。そうだろう」
「繋がらないの」
「そうだったね。君はそれでいい、また、それ以外が考えられない」
 この言葉が生まれると、君は消えてしまった。もういないのだ。
 
<うまれなかったものに、最大の称賛を送りたい>
 

‪vaporwave‬を感じる戯言集

これらの文は、僕が一人暮らしをし、大学を毎日サボっていた頃に、薬と本の強さをかりて書いていた文章だ。

ひどく稚拙な表現が散見されるが、これは意図されたもの、またはただ僕がバカだっただけである。

再公開は再後悔に繋がるかもしれないが、ちょうど今、強く関心を持っている事柄の要素が、文中に散りばめられている。だから再公開に至った。

僕の思考は、出来るだけ僕の思考だけにしておきたいけど、文にするということは、そこから「僕の」は無くなってしまう。それを承知で、僕の思考の、壊れかけの、ポンコツな文章を読んでいただける方々には、このどこかが衝撃になってくれることを、僕は望んでいる。

 

また、順番は時系列順ではない。

ただの思いつき、福笑いみたいな文章群の並びだ。僕の顔は福笑いのように歪んでいるが、フランシス・プーランクの人間の顔に感銘を受けられる諸君には、福笑いの感動が、きっと伝わってくれるだろう。信じてはいない。これは期待と、とても個人的な予感、兆候だ。

 

もくじ

聖なる少女への幻想(美少女アニメアイコンについて/非接続の「ただかわいい」)

音楽と心象 思考と他人

他人に無関心・自分に誠実について

他人から汚れる・性交について

即興的小説『聖(じりじり)』

9/7

おもうことなど/過去に書いた小説

 ◦八月のおんなのこ

 ◦Re八月のおんなのこ

考えごとをする

哲学について

人生について

日記(スペクトラルウィザードとか)

大もりそばの太陽の念仏

 

 

 

聖なる少女への幻想(美少女アニメアイコンについて/非接続の「ただかわいい」)

最近 いや、もう最近ではないのかもしれないが……
セーラームーンや、らんま1/2などの
いわゆる、むかしのアニメの美少女を
Twitterのアイコンにしているアカウントが増えている、感覚的に
しかもそれは穿ちすぎのオタクが、ということでもなく
10代の女性がしていたりすることが多い
考えてもみよう、彼女たちは、セーラームーンやらんま1/2を観たことがあるだろうか
僕は小学の頃
周りの友達はみんなドラゴンボールを観ているというのに、
僕は観たことがなく、まったく話についていけない、ということがあった(いまもだ)
女性のコミュニティはわからないが、こういう事情で
既にセーラームーンやらんま1/2を観ていたということも考えられる
がしかし、それでも、アイコンにセーラームーンやらんま1/2を
使う理由にはならない(ドラゴンボールアイコンが少ないから、というか、これは感覚だけども、ドラゴンボールアイコンの人間はたいてい”ヤバい”やつだ……)
また、メンヘラという言葉がネットを席巻しているが
メンヘラたちはよく、このアニメアイコンをしている
話はずれるが、スマートフォンの写真撮影能力は向上し続けている
今や、下手な一眼レフを買うよりもスマホで十分だと言われるほどだ
けれども面白いことに、
スマートフォンを使用する層は、
その高画質の写真にフィルター(加工)を施し
雰囲気を調整する しかもこの加工は、ほとんどの場合画像の劣化に繋がる
撮った写真をわざわざ劣化させて、完成させるのだ
なぜだろう?
実をいうと、このアニメアイコンと、フィルターの親和性は高い
ゆめかわいいに代表されるように、
ファンシーな雰囲気を醸しだすのには、フィルターがものすごく合っているのだ
とはいえ、それは劣化であり、対象物を曖昧にさせる作用がある
書いていて思ったが、これは、
20世紀のはじめに印象派美術・印象主義音楽が隆盛をおさめたことに似ている気がする
パステルが流行る裏ではビビッドが流行るような、
つまりビビッドはフォーヴィズム(野獣派、と書くと誤解されそうだが……)
あるいは、ビビッドはブラッドかもしれない……
ここから見えてくることは、幽玄さだろう
見えなさ、わからなさが、それを掻き立てている
また傍らでは、肉と血にまみれた、輪郭のはっきりした
それからでも掻き立てている
メンヘラの場合だが、これは憧れの要素が強いと思う
現実の少女にある血、経血のような生々しさが消去された、
「ただかわいい」だけを指す、「かわいい存在」への憧れ、幻想
だろう(もちろんそれの裏で、経血への憧れ、幻想もあるだろう……)
ファンシーさ、パステル、ゆめかわいいに潜む狂気の本来は
それになることが、絶対にできない
それに近づくことが、絶対にできない ことに由来する
他方の、生々しさも、追及すれば、できないことになる
が、可能性はある ゆえに、もしかしたら、もうなっているのかもしれない
そう、パステルにも、もしかしたら、もうなっているかもしれない
こともある いわばそれはネットだ
定立するインターフェース、視点が反転しているだけなのだ
客体基準か、主体基準か である
総じてこの幻想は、たしかにむかしからある
が、結局は芸術の領域に過ぎない(記録がない)
日本では耽美主義、海外ではとくにフランス文学によくあった娼婦ものが
そうだろうと思えるのだが、どうだろう
これらはやはり、定立するインターフェースは客体であるだろう
娼婦という、稀有な、客体に生きる人体は、幻想に恰好の道具なのだ
しかし、文学という場において、記述の観点ならば
これは、主体と客体の比重はたやすく反転する(読者がいるから)
その上に、娼婦という、基本、客体に生きる人体を前に出すと
このインターフェースが主体になることもしばしばだ
日本のそれは、死に近いものとしてある
これは代えがたい、絶対的な他者であり、死神だ
そしてそれは幻想の中であり得、接続不可である
その幻想は、多くの場合、定立するインターフェースに惹かれるわけではなく
幻想に憧れるのだ、幻想への幻想なのだ
それは無意識裡に、自分が確かにある、血がある熱がある生きている生きていかなければならない生きつづけなければならない病に苦しみ意識に苦しみ他人に苦しみ社会に苦しみ生活に苦しみ身体をどこまでも引きずって生き続けるだろう「わたし」
が想定されているだろう
ああ、ここまで書いた 疲れた

 

 

音楽と心象 思考と他人

コンビニに行って、ムール貝の蒸し焼き(こんな名前だったと思う)と、
適当なお菓子を買おうと家を出た
実際に買ったのは、
・スペクトラルウィザードの新刊
山川方夫の夏の葬列
新潮文庫リルケ詩集
・だしがうまい! 手塩屋 ミニ 生姜(しょうが)香り立つ旨だし味
・かむほど旨いあたりめ
であり、そもそもムール貝が売ってるセブンイレブンにすら行かなかった
帰り道、なんとなく、公園に寄った
暗い公園は意外にも明るい そこで僕はたばこに火を付けた
ツイッターで流れてきたある漫画に
「煙草って 瞑想みたい」という一説があったことを思い出す
これはとてもよい言葉だ 大好きだ
そこで僕は瞑想した
夜の僕の夜の公園の夜の瞑想だ
ここから先は、ぜひともこの曲を聴いて読んでいただきたい
というのも、ここで僕はあることを閃くのだが、それの手掛かりになったのがこの曲だからだ インストであり、ゲーム音楽なのだが、素晴らしい曲だ ストリングスが豪華であることがその要因であると端的に言ってしまうのも憚れるほど、シンフォニーのようで、高揚感がある ちょうど、ショスタコーヴィチレーニングラードのような曲なのだ 僕はこの曲が好きだ ぜひ聞いてもらいたい
www.youtube.com
この曲を聴いて初めに思い付いたのは、この曲には高揚感があるという端的な事実だ
高揚感がある、それはすなわち、兵隊が隊列を成し、ザッザザッザと野を進んでいくイメージが煽られるからだった そして、行進曲のようなリズム これらがこの印象を喚起した
では、「行進曲的リズム」と「行進」は接続されているのだろうか?
これに腹が立った
音楽と心象が固定されていること、これはとんでもなく許しがたいことだ 音楽はプロパガンダに利用される水準を満たしている!
というのも、これは先ほどの端的な事実と同じくして、僕のなかでは端的な事実だった
端的な事実だから腹が立ったのだ!
lo-fi hip hopが流行っている
これは物凄くわかりやすく、リラックスする要素がこのジャンルにあるからだ
短いパッセージを反復するこれは、ラヴェルボレロに近い が、ボレロは高揚感だ
反復はすなわち生命を意味するのではないだろうか? にわかに許しがたい!
高揚感が普遍の心象であること それは端的な事実
では心象はいったい、「だれ」なのか
それは言うまでもなく「僕」だ
そう、普遍的である心象作用を胚胎する心象は「僕」でしかありえない
僕はここで、誰か無口な人間(唖であればなおのこと良い)が傍に居てくれたら良いと思った
生涯添い遂げてくれても、添い遂げてくれなくても良い、その時(たばこを吸っているとき)に思ったことだ
そして次のことを考えた
「複数人の思考がある場で行われるとしたらどうなるだろう」
どうなるだろう
この時の前提は、テレパシーではないというところにある
テレパシーのように言語的なものを介して思考するのではなく、
思考そのものが浮遊する場なのだ
我々は言語で思考していると思いがちだが、そうではない
言語が追いかけてくる、言語が僕らの思考に纏わりついて離れなくなる
それが僕らの思考だ そうでないものは一般的に、感動と呼ばれる
この思考実験では、面白いことが考えられた
一つは、思考のレスポンスが相対的時間になるということだ
思考は主体の時間にて行われる
しかし主体内時間が成り立つのは、あくまで主体のみが思考しているときだ
ここである他人の思考がそれに介入(あるいは邪魔)をしてくると、
主体内時間は相対化され、面白いことに絶対的客体内時間の思考になる
相対化されて絶対的時間になるのだ
そしてレスポンスは早い 信じられないほどの速度である
二つは、「痛み」が現れることだ
たとえば、この思考の場にいる君が僕に攻撃的な事を思ったとする(一般に、「傷つく事」とも言える)
簡単な話、「僕」は傷つく 絶対に傷つく
同期された思考空間から、僕らは仲が悪くなる
もうひとつ、君が僕にとって好ましくないことを思ったとする(一般に、「空気をよまない事」とも言える)
これも簡単な話だ、「僕」は君を軽蔑する
ここから最も面白い考えが生まれた
「思考は、痛みを伴わない」
そう、思考は<痛み>を伴わないのだ
あの仮想状況では、必ず<痛み>が生まれる
それは他人が存在するからだ
しかし面白い事に、現実世界(「現実世界で思考すること」ではない)では、
他人ではなく、他者に<痛み>を与えられる
ここが核心だ! では、それはいったい、なぜか!
それは、「思考が自己」だから「思考が<僕>」だからだ!!
思考は何を隠そう<僕>自身であり、「君」に意識があると仮定すれば「君」も<僕>である
「僕」-<僕>と「君」-<僕>は違う なぜなら、「僕」は「君」ではないし、「君」は「僕」ではないからだ
しかし独我論になりやすい……これは<僕>の存在が明らかになったということだ
同時にこれは「君」-<僕>も否定することになってしまうが……
だがまあ、普遍的なものとして扱いたい一心から、こう要約することもできる
「痛みを感じるものは、自分ではない」
自分の心は傷つかない!
同時に村上春樹のことも思いついた
たぶん、彼も同様の思考実験をしたのだろうと思う
それは『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』に顕著だった
ねじまき鳥クロニクル』では、主人公が井戸に潜り、思考が混濁して、他人の思考に接続される これは河合隼雄との対談本にもある通り、井戸が集合的無意識の場として選ばれているということになる(僕が言った、「思考の場」は「集合的無意識の場」ではないような気はするが…… ここで肯定すると、「無意識が<僕>」であるということになる……)
海辺のカフカ』には、主人公が「想像することも悪である」というようなことを考える 象徴的なシーンとして、女性が寝そべるベッドに入り込んで「さくらさんの裸を想像していいですか?」と断りを入れる(なにしろ主人公は15歳なのだ……)
そののちに主人公は山奥に入るのだが、ここも集合的無意識の場となっている が、変化しているのは、ここが死者の場であるということだ
村上春樹の文学におけるディスコミュニケーション性は反復され、幾度となく姿を変えている そして『海辺のカフカ』にて萌芽したのは陰謀論のようなものだった
これは、集合的無意識の場の肥大化、構造化における疾患だ
肥大化する集合的無意識の場は、なにを隠そう『ねじまき鳥クロニクル』では、「運動し続け、主体的行動によって変化させることが出来る」ものだった
しかし『海辺のカフカ』においては、運動は一つの想像となり、形が確定されてしまった
枠組みがあるからこその陰謀論なのだ
「僕たちが普段使っている検索エンジンから移動できるインターネット」以外がダークウェブなのではない、全集合Uは陰謀論を確定し得ないのだ
超越は、沈潜以外にあり得ないということだ <僕>を研ぎ澄ましていくほかない

 

 

他人に無関心・自分に誠実について

ああ、今日はなんだかいっぱい考える
そう、今日読んだ(まだ読み終わってない)、阿部和重と女性作家数名との対談で、角田光代との対談で、角田光代が「そんなに論理的に冷静に指摘してくれるのは、きっと阿部さんが、他人に無関心だからですよね」という旨を指摘していたのが、あまりにも面白くて、心の中でクスクスと笑っていたら、いつの間にか自分にも跳ね返ってきた!
たしかに! 自分はきっと物凄く自分に無関心なような気がする
僕は、いろんな人間から相談を持ち掛けられる いや、知らないうちに相談話になっているから、もしかすると自分が相談しろー相談しろーと言ってるめんどくさいやつなのかもしれないが
実際、相談にのって、「ああ、相談してよかった」と言ってくれる人はたくさんいるし、これまでで一番高い賛辞は「わたしの一番大切なものを思い出させてくれた(なんで忘れていたんだろう…)」であった
すくなくとも相談に乗るのが下手ではない自分が、阿部和重に向けた角田光代の言葉を通して、内省に至ることになった
そう! 面白いことに、僕自身は「相談で解決することは何もない」と考えている
心療内科に行った節・カウンセリングを受けた節・仲良くしてくれる(賢いであろう)異性に悩みを打ち明けた節、どれも解決の糸口にもならず、そう、心療内科では医者が相手しやすいだろうと思う症状の羅列(虚偽交じり)、カウンセリングでは直接病名を与えられるわけではないだろうからとりあえず自分の失態を羅列、(賢いであろう)異性ではいわゆる弱い/弱ってる男の演出に尽力してきた
こうすると、自分がいったい何なのかわからなくなる
と、思いがちである
自分は哲学に沈思黙考することはあれど、〈じぶん〉というもの
アイデンティティについて考えたことはほとんどなく、自己同一性という言葉を使い、中身は分裂症について語っているということがしばしばであったりする
そう、自分は一般や普遍を毛嫌いしつつも、自分以外を一般・普遍の枠に閉じ込め、ユング風に類型を定めていたりするという実態
たまに自分を喪失したいときは思考の最中に、自分も人間であるから・言葉を使うから、と抽象し、自分さえも、自我を持つ自分さえも一般・普遍・国民の一人として、要素として扱い、悦に浸ることもある
そんな中で自分は、いったい人道主義者であり、博愛主義者であるなどと言えるはずはないのである
つまり自分を覆っているのは限りないこの世に対する無力感、無関心、無意味、それなのだろう
いやしかし、そう、Twitterで長らく付き合ってくださっている方、いや、長くなくても、もうここで実ハンドルネームを上げてしまいたいくらいの、僕のお気に入りの方々、その方々に対してはほとんど自我分裂的になっているともいっていい
しかし僕は嫌われる
長らく繋がっていた人、いや、現実世界の友達であっても、いともたやすく縁を切られてしまう
それはきっと「自分に誠実」であるからだろう そう、例えば性欲が湧いてきたら女性とどうにかして会話する、といったような、つまり分別のない行為 そしてTwitterに書き綴る、裏の裏まで読まれかねないその行為において、彼らには様々の感情を宿してしまったに違いはない それが「自分に誠実」ということになるのだろうが、僕自身は、現実世界では、自我をなくしてまで、他人と仲良くしようとする人間なのだ 前述のとおり
この差異というのはなかなかに面白いと思う
そして、僕は生来から人に嫌われ、貶され、殴られていたような人間であり、その部分のメンタルというのは異様に強いことが最近分かってきた、悲しい、けども…仕方ない、そう、仕方ないそれで人生が一つの円環を築いている
例えば、祖父は僕が中学生の時に死んだ その時僕はほとんど何も思わず、泣きもしなかった……とすると中二病じみているので、これまでの文脈にあった事実を語ると、
死の間際で、親族に名前を呼ばれ「(もう名前も覚えていない)!」、なぜだか僕や弟が名前を呼ぶと心拍が回復するという状況が、可笑しくてしょうがなかった、まるでこんなもの、ドラマのワンシーンじゃないか! なんでお前らはこのまま死体と化し、生きている者に燃やされる運命にあるこの生きた死体に声を浴びせかけているのか、無駄じゃないか? という風に可笑しかった ついでに言うと、祖父が死んだあと「ご臨終です」の声を聴き、病室からはじき出された時には、「とぼとぼと歩き」「両親から距離をとって」、「あるときに背筋が伸びて」「感慨深く後ろ(病室)を向く」。「父親に名前を呼ばれる」。という最強のお涙頂戴ドラマ/アニメセットをこなしたのだった
そのあと、祖母家には死体が来たが、眠っているそれと一切変わりがないように見えて、ただ、このまま放置していたら腐って大変なんだろうなあ、とその心配だけしていた
そんなもんで、自分は本当にもしかすると他人に無関心であり、自分に誠実である、ただそれだけであると、この文を読んでくれた方に紛糾されても、まったくお門違いのものではないのである
自分は、僕はそのところ「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」という、村上春樹風返答しかできない悲しさがある

 

 

他人から汚れる・性交について

僕は中学3年の冬に、深夜の自宅のトイレで初めて膣を舐めた
彼女とは付き合っていなかった 僕には他に付き合っている女性がいた
彼女とは、なんとなくのふざけで 深夜に呼び出したらあっさりと来てくれて
セックスはしていないけど、いたずらに身体で遊んだ
というか、自分はその女はまず好きじゃなかった
その日は僕はなんだか「自分が汚れたい」と思い、
彼女に連絡し、舐めたい旨を伝え、
ひと通りその理由を伝えると、なんだかんだで家に来た
暗闇で彼女が入ってくると、その先に僕は座っていたが、
ため息をついて、疲れたよ、というと、
お疲れ様、と抱きしめてくれたことを、なんだか鮮明に覚えている
そのあと彼女の膣を舐めたのだが、
舐めた瞬間、柔らかくも温かく、そして湿っている、
よくわからない感覚、ひときわ固く、舌を動かすとざらざらと音を感じる、
その陰毛の不可思議さに、僕はすっかりすくみ上ってしまった
急いでトイレから出ると、僕は洗面所で口をゆすいだ 3回くらいはゆすいだ
「病気になったらどうしよう」そんな恐れから、ゆすいだような覚えがあるが、
今の自分にとって、これにはもっと深い意味があるような気がしてならない
ときおり自分が汚れたくなる気持ちがある
男性であるからして、異性との性交で汚れることは難しく、
確かに女性自体が不浄なものとすれば、汚れていることになるのだろうが、
その価値観よりも、ピストン運動の繰り返しから生まれる、
洗練のような、ある意味の研磨作用のようなもので、
その男性性は磨かれているようにも感じる
やすりがけをしたところで、つるつるになるのは、
やすりがけられたほうで、
やすり自体は汚れ、
ぽいっと捨てられてしまう運命にあるように
男性は性の意味では、本質的に両性具有的であるから、
男性である僕は、男性である他人とセックスすれば、その意味では、
自分は女になり、汚れることが出来るだろうと、高校時代から
考えていて、ハッテン場として使われる匿名掲示板に入り浸っていた、
そんな時期もあった とはいえ、
素人相手に、まともに開発もしていないとなると、恐れ多く、
おっさんと相手するのもなんだかいやだった
これは汚れたい気持ちに反する、聖なる女へのあこがれだろう
『女帝』という漫画をそのむかし読んだ、
夜の世界で成り上がっていくストーリーなのだが
主人公の女は、純潔を守っていて、その純潔をあろうことか、
おっさんに捧げる というのも、そのおっさんは権力者だったから、
自分の身体を上手に利用したということになる
『パプリカ』にも同様に、
ある男の権力者に、男が身体を預け、それなりの地位を得る登場人物がいる
このようにみると、自分のこのいまだ開かれぬ穴はいつ何時
開くべきなのだろうかと思ってしまう
いや、自分はただ、地位のために女になりたいのではなく、
そのものとして汚れ、女として愛されたいのかもしれない
しかし、自分が女であるということは、愛してくれる対象は男である、
僕はこの人生で一度きりでもいいから、まともな異性間恋愛へのアンチテーゼという意味合いを抜いた次元で、自分を含めた男性を熱烈に愛したことはあったか?
きっとないはずだ
自分が見ているのは、娼婦としての聖性、男娼としての聖性だろうが
それも考えれば考えるほど怪しいものに思えてくる
いわば、汚れたいのか、聖なる女になりたいのか、好奇心で犯されたいのか
この考えがぐるぐると回っていて、
そんな考え以前に、単純な恐れの感覚がある
いったい犯されるとはどんな気持ちなのだろうか
男性としての自分は性交中、自分が望むからこれをしている
わけでなく、その女にマリオネットのように動かされ、
否応なく腰を振らなければならないような感覚に幾度となく襲われ、
それもあってか、正常に勃起し続けるのはまれであり、
性的逸脱は難しい 能動的な面が、身体的に悲鳴を上げている
では女性は受動的である、ただ男と唇を合わせ、陰部や乳房を触られると
準備は整い、ほとんどそれで終わる 濡れている時点で性交は約束されている
時間を先取りしているという意味では、性交は女性の胎内に設置された装置だともいえる
そして、荒れ狂う男根の猛攻に、ひたすら快楽を伴って耐え、喘ぎ悦んでいればよい
と、男性的視点からではここまでしか考えられない
実際、男根がファルスの雄たけびを上げ、射精とともに、性交は終わるから、
ほとんどの場合、男性はエクスタシーという満足を得るが、
女性はそうでもないらしい けれども、エクスタシー以外の満足感
それは一般に、許されている、包まれている、といった
安心のようなものらしいが、これが女性の子宮という泉から湧き
その男根を通じて男性への愛情に通じるらしく、
その愛情のベクトルは同じくらい自分の、女性性に向かい、
遺伝子を欲するようになるらしい もちろん、例外もある
こうすると、女性と男性には性交において大きな断絶があり、
その溝は、人類が埋められるようなものではなさそうだ
いったい、性交とはなんなのか
なにが起きているのか エクスタシーがもたらす精神運動について、自分は多く語ることはできなさそうだが、仮に自分が女として使用される場合を考えると、それを理解することが出来る端緒を掴めそうな気がしてならない
このくだらない人間の営為の真相は、ある種カフカ的な見えない権力機関によって統率され、僕たちはその中で、辛酸をなめて生きることとなっているのかもしれない
その根源に性があるとは、もはや信じがたいことではあるが、明らかに性がどうも理解しがたく、人間間、つまり性別間の深い断絶を生み出しているのは、否定しがたい事実であるように感じる
だからなんやねん って話だけど

 

 

即興的小説『聖(じりじり)』
 例えばあるものがここにある。否定することが出来ないさまをそれが発しているということにおいてそれが存在し、みて或いは触ることが出来るということで私の家になぜか横たわっているこの女体を、私はゆっくりと触ることにした。
 戸惑いはなかったというか、あるはずがない、あってはいけない、というのも私からしてみれば(女からしてみてもないのかもしれない)ここに全くの歴史的必然性はなく、ただいつものように帰宅するとベッドに裸の女体があったという、奇跡のような漫画のようなそんな流れだったからで、決してその女体に熟れの一要素もなくみずみずしくも張り詰めた幼年の風景しか知らぬような、いわば未成年の女の裸であったからというような理由ではないことはそれが犯罪であり、私は決して犯罪を安易に犯せるようなたちではないということがいい証拠になってくれる。
 つまり、これは幸運だ。ありがとう。神様。
 そんなわけで布団に腕を伸ばすと(確認のために一度布団を開いたが、その神聖さに私は目をつぶされてしまい、こうしていくつか自分の胸中で整理をしてから再度、私の汗が毎晩毎晩しみこむことになっているシーツ・布団の中へ侵入することになったというわけだ。少女が起きてしまった時の対処として、ベッドから70㎝先のテーブルの上には包丁が置いてあるのだが、これはれっきとした日本男児としての死を飾るためのものであって、聖なる幼女を惨殺せしめるために拵えたものではない。私が聖なるものの前で自害したと知れば、聖なるものはもはや慈悲などなくいや慈悲心から、それは私にとっての慈悲心から、首を切ってくれると思う。多少刃こぼれしているような気がしなくもないが、聖なるものたるもの包丁など調度品に頼らず私を暗黒へと葬ってくれるだろう。いや。そうでなくては聖なるものとは呼べない、あらゆる聖なるものは常軌を逸してい、私たち生きる業を背負った俗なる民の上に君臨するものなのであり歴史を正しく動かす力もあるだろうから、私はこれから幼女を犯すという禁忌に触れようと、触れるまでもなく企図しているのだから、それを聖なる女神は甘んじて看過しうることなく私を抹殺してくれるに違いはない。私はもはやこの時点で生きる価値などない犯罪者なのである。とはいえその罪はこの国において定められた法を侵犯することではない。人間の根源たる道徳を犯す罪びととして私は、頭上に置かれているキリストの左手さえ見えないほどの下からミケランジェロの皮で窒息死する運命にある。とはいえ私はキリスト教に疎く、無神論者ではあるのだが……)少女の裸体によって暖められた布団の風景を感じ、ほとんど開いていないにも関わらず、甘酸っぱく淫靡な(淫靡?)香りが鼻腔をくすぐり、私は勢いよく勃起してしまった(聖なるものを前にして勃起するようなことは、私の身体自体が間違ったものであるというわけだ。これではっきりしたように私はこれから、あの汚らわしい老人のように緩慢たる生をすごすことは拒否されているのだ。ああ、はっきりした。私は生きるような価値などない。とはいえ、すべての人間に生きる価値があるとは、まったく思えないのだが……)。
 私の陰茎は、裸の少女を貫いた。少女は女として、男を迎える準備は既に整って(いや、それはおろか少女の股付近のシーツは不自然にも湿ってい、なかでも半固形な物質が置かれていたのを私は、聖なる魂の涙の結晶のようなものだと早合点するや否や、二本の指、というのもその指で股座をもてあそんでいた訳で丁度よかったため、掬いながら全く揺らぎのない心で聖なる魂を享受するために、この私の不浄の口元へ運んでいく間に私はいっとき不思議な感覚に襲われたが、そんなものはこの百合のような香りの前では特に意味をなさず、適当な時間の隙間で戸惑いはその香りに吹かれ飛んで行ってしまったので、私は聖なる魂を口に含む結果になったのだが、どうだろう。ほかの女のラヴ・ジュースと特に変わった味はしないことに、どこか不満を覚える結果になった。といってもイエスはわざわざ人間の御身に変身し、下界に降りなさったのでイエスが小便や大便、自涜に耽るようなことがあってもおかしくはなく、なんというか私はそちらのほうが興奮するのであって、私がさっき信じられないほどの勃起をしたのは聖と俗の違和に反応したように思えて仕方がないのであった。とはいえ私はキリスト教に疎く、無神論者ではあるのだが……)たのだから私はそれに一つ十字を切って(とはいえ私はキリスト教に疎く、無神論者ではあるのだが……)少女を貫いたのだった(なぜだか自分はこのように整理していながら、あの≪原因と結果≫を逆に解釈しているような気がする。というのも私は科学者ではないからそこまで≪原因と結果≫に則す意義はなく、思考において道徳的禁忌に触れることがなければ自由に思考することが出来るはずなのだ。とはいえ私はキリスト教に疎く、無神論者ではあるのだが……)。
 少女は私のベッドで血まみれになって死んでいた。私(の陰茎、すなわち包丁)はそこではじめて勃起し、少女のブラッド・ジュースや腸液でぬらぬらとしている少女の大腸から大便や宿便を風神のごとき肺活量をもって吹き出し、丹念に血液でその中をコーティングすると包丁を挿し込み、射精しようとしたのだがすんでのところでインターフォンが鳴り、私は「なんだろう」と小声でつぶやくなり玄関へと向かう右手には陰茎を携えていたのだろう、というのも玄関先では大絶叫に見舞われるのだから、私はただそのさなかで陰茎を素早く扱うすべをさっき知ったので若い女の首元を切り、子宮を摘出するのに時間はそこまで必要なかったし、その次に包丁で私は快楽を知る。私はそのようにして生きているのだが、右手も左手も血まみれだ。今はマーク・トゥエイン全集を読んでいる。葉巻はいかが?

 

 

9/7
思うに僕は常識を持った人間のはずだ 少なくとも自分は自分の常識の中で生きていて、どこか常識から外れたい気持ちがあれば、苦心しながら外れようとする 結局どれもこれも常識内の出来事のような気がするのだけれど
昨日、親友と遊んだ 彼とは小学からの仲で帰省するときも「遊ぼう」といわれていて「呼んで」とも言われていたのだけれど、全然呼んでいなかった 遊びたくないわけではないし、家にいて何かやるべきことが大量にあるわけでもない いや、読書はしなければならないのだけれど、この頃はあまり捗っていない
そんな中で、やはり彼の持ちかけにより昨日は遊ぶに至ったのだが、彼は僕に「呼べって言ってんのに呼ばないし、俺嫌われてんのかと思った」と漏らしていて、はた、と思ってしまった
自分は彼のことを親友だと呼び、またそう思っているし、これはきっと一方的なものではない けれども自分は、そう、自分と彼が≪親友≫という文法関係にあるのなら、僕たちは≪親友≫という文法を成立されられる関係を築く必要があり、それは最小単位としての共通理解でも構わない
と考えると、自分は≪親友≫のような関係を(イマージュとしての)彼と構築していたかというと、閾値ギリギリだったような気がしないでもない いや、人間関係なんてものをこう考えること自体おかしいことなのかもしれないが、実際のところ僕はある意味ほとんど一方的に思いを寄せていて、実のところ実際的なものをしていなかったことに気づいた
なぜか?
めんどくさいからだと思う 自分はなんだか、毎日に退屈し辟易暗澹虚無生活を送っていて「あーなんかおもしろいことねーかなー」とリビングで叫んでは、親に「じゃあ風呂掃除して」と頼まれる生き方が実家での僕の生であり、そんでもこっちの誰かと会いたい気持ちには全然ならなかったのだ つまり生活を変えるような(気をつかってしまうような)ことはしたくないのだろうと思う
しかし親友と遊んだのは楽しかった 令和ですけど、国内外90年代ヒットソングを親友の車で流しながら僕はファミコンソフト(ドアドア:小学から欲しかった)を買ったり、たばこ屋に行って一緒にわかばシガーを買ったり、スマブラとかをした 充実という言葉が似合うなあと思ったけど 悩む結果になった
自分はその≪親友≫をあまり考えることはないのだが、これと同じく≪恋愛≫を考えていた つまり、半分外れ半分正解・手垢まみれの言葉で言うならば「理想的な」がつく恋愛を追い求めていたと説明できるらしいが、そんな簡単なものではない というのも、≪恋愛斯ク在ルベキ≫をずっと考えていて、そうすると〈心中〉〈情交〉〈CM風〉と分けけられ、これまでの多くは〈CM風〉を志し形はそれを保ちながら、僕はメイン(楽しみ)として〈情交〉を選んできた 〈心中〉は最大の愛なので、自分は今だ達成できていないし漸近も、するかどうか微妙なところなのである
こんなめんどくさいことを考えないほうがよろしい とこの頃やっと気づけたので、考えないようにはしているが
ついさっき≪親友≫と〈恋愛〉をすり替えたように、ことばはこうしてすり替えてしまうことが出来て、それは多くの場合突飛な意味にとられない(日常会話レベルならば) これは、日常会話というものは根本的に意味を喪失している裏付けになる ということは「(日常)会話」は「交感」なのだろうと考えられた 無意味な言葉を触媒に、相手になんだかわからない感情を植え付ける、種付けの行為なのだろう
僕はこうして考えているのだがなんなんだかよくわかんなくなってくる 自分が正しく賢く考えているようにも考えられるが うーむ・・・ つまり、謙虚さというやつが足りないらしい しったことかこのたわけ
知らんし知らん知らんらん知らんらんらんらんらんら、それわか卵子

 

 

おもうことなど/過去に書いた小説
さっきコンビニに行って
・ラーク マイルド
・ダース ビター
・カフェモカ
を買ってきた ら、くじが引けたので、手元にくじを二三枚引きよせ、当たり以外を箱の中に捨てて、当たりくじを引き当てると、缶コーヒーが貰え、無糖と微糖が選べたので、微糖にし、店員さんが、もぞもぞと「ほ、ホットで……?」と言ったので、意味はよくわからなかったが、とりあえず、自分がいるレジの傍にあった、その缶コーヒーの微糖、ホットを手にし、当たりくじと交換してもらい、店内にある、ゴミ箱に、たばこのフィルムと、たばこを開けてすぐに出てくる、白い紙を、手前は引き抜いて千切り、僕は、そのあとに、後ろ側の紙も取らないと、気が済まないので、それを、ちょうど矩形になるように千切って、店内を後にし、店内の、もう無くなってしまった、成人向け雑誌コーナーに位置する、店の外の喫煙所にて、缶コーヒーの温もりを感じながら、ひとしきり煙と戯れてきた
ああ、生きている
秋になってきた寒さが身体にあたるのを感じた
秋といえば、ナット・キング・コール
僕は秋になるといつもナット・キング・コールを聴く
僕がナット・キング・コールと出会ったのは、中学二年生の秋で、中学二年生の秋と言えば、初めてセックスを経験した季節でもあった
あれから、さあ、5年は経っただろう
僕は毎年、秋になるとナット・キング・コールを聴いた
当時はもう一つ大きなことがあった、母親の不倫だった
家に帰ると、なぜか、早く父親が帰宅しており、母親も父親もどこかよそよそしく、弟は、その空間に調和せずに、こたつに入ってゲームをしていた
あきらかな違和感から、僕は母親になにか言葉をかけられたのも無視して、母親に「どうしたの?」というと、母親はなにかがこみあげてくる表情を必死に隠して、僕を外へと連れ出し、一緒に近所のコンビニへと向かった
母親に「何でも買ってあげる」と言われ、たぶん、なにかしらのチキンと、なにかしらのアイスを買ってもらい、その、なにかしらのチキンと、なにかしらのアイスが入っている、ふたつの袋を手に、僕は助手席で、泣きじゃくる母親の、姿をなんとなく眺めていた
家に帰ると、父親から、冷静な、とはいえいささか狼狽を隠しきれていない、事情の説明をされ、たぶん泣いた ここは、泣いた方がいい場面だと思ったからだった 僕は小学校低学年の時にいじめられていて、そのときに身に着けた、嘘泣きで涙を流す特技を身に着けていたから、いつでも、自分が泣くべきだと思ったところでは自由に泣くことが出来たのだ 今はもうできない
凍てつくような夕飯を終え、昨日と同じ温度の湯舟に浸かったあと、僕は父親に、慰めの気持ちを込めて、ナット・キング・コールの枯葉のURLを送った
~~~~~
まったくつまらない話だ、この数日後に、母親と父親が茶の間で大喧嘩していて、僕は二階にいたから、うるさいなと思って、トイレで、足をダンダンと床に打ち付け、無言の抗議をすると、すこししてから静かになった
さらに数日後、父親と母親が僕の部屋に、二人そろって土下座しに来た
僕はちくしょう! と思った なんで離婚しねえんだ! 僕の筋書きでは、ここで僕の家族は離婚し、弟は母親に引き取られ、僕は父親に引き取られるだろう、そして、数か月に一回だけ母親に会い、苦々しい顔を抑え、ささやかな喜びと同じくらい、過去の自分への悔恨を味わう表情から、おいしいごはんをご馳走してもらうのだろうと、そう夢想していたのが、台無しになってしまった!
僕は、なにも起こらず、日和ってやがる両親への怒りのようなものからか、夜にはマイルス、ロリンズ、サッチモ、ナット、そしてクリムゾンを聴き、ついに深夜、玄関から女の家に向かい、女は十分濡れていたから、前戯などせず、避妊具を付けずに挿入し、好きでもない女の耳元で愛(失笑!)を囁き、女の黒いパジャマに射精し、逃げるようにして、自転車を漕ぎ、上り坂でパンツに手を突っ込んで、愛液を舐め、月を見て、つい先日別れた女が、そろそろ誕生日だったな、と思いながら、自宅までくると、風呂の小窓から侵入し(湯舟に落ちるようなヘマはしなかった!)、再び湯を浴びて、また寝た、ということを経験し、その女とは、一年後に付き合うことになるが、それはまた別の話だ
 
母親は今でも父親の悪口を言い、父親には愛人がいる
つまらない家庭は、このようにしてゆるい、気休めの安息のなか生きている
母親と父親は、実に1年程度の交際期間を経て結婚したらしい、母親が言うに、父親は結婚してから思いっきり変わってしまったらしく「私としてみりゃ、だまされた! って感じだよ!」と嘆いていた これは最近聞いた話なのだが、ずっとむかし、そう、僕がちょうどいじめられていたころに、母親に「どうしてママはパパとけっこんしたの? そのときはどんなかんじだったの?」と質問し、母親と父親が付き合う前に、母親には交際していた男がいたらしい事を告白した 父親から交際を迫られ、その男とは別れたらしい 僕は相当ショッキングだったのか、そのことを今でも覚えている しかも母親は、父親が働く会社で、お茶出しをしていたとか、気に入らないやつには雑巾の絞り汁を入れたお茶を出していたとか、いろいろ聞いた
父親は高校の時、初めてセックスしたらしい 母親は知らないが、たぶん、高校か、社会人だろう 高校時代に初めてセックスをしたやつもいたけど……と、あまり好ましくない声色で言っていたから、たぶん、社会人になってからじゃないかな
父親も母親も、つまらないセックスをして、つまらない僕を生み出した
母親は、父親が避妊具を付けずに性交し、膣外に出すも「ちょっとでちゃったかもしれない」と、言っていた事を、今でも腹立たしく思っているようで、いつか、それを聞いた
弟は、実は、3人目の弟だ その前に二人、流産している
僕はその二人をうらやましく思う
彼らの名前を、僕は死後に知るのだろうか
彼らに会えるのだろうか 彼らはどんな人間だろうか、いや、人間以外だろうか
僕はいつまで生きるつもりで、いつまでこんなつまらないことを考え続けるつもりなのだろうか
セックスがもたらすものは、人災だろう 人間は人間を生み出すべきではないのだろう
あの、JAMとかいう曲には、どんな人間もみんなむかしこどもだった、とかいう歌詞があるが、こどもだったからなんなのだろう こどもは無力だから無垢だとでもいうのであれば、なにも生み出さない、その可能性にだけ無垢さが保証されてしかるべきではないのだろうか
そういえば、僕が前に交際していた女とは、自分たちに子供が出来たら、という場合を想定して、いちおう「ヒロナ」という名前を付けたが(いやいやだが、僕も人間世界で生きる、彼女と生きるのであれば、ステータスとして子供を設けることに反対はしなかった なぜなら、僕と彼女は最高にそりが合わなかったから!)、彼/彼女は、その可能性の中で、無垢なまま、である 僕は彼女に、最高に嫌ってもらった なぜだか僕は交際した女には、別れの際は最高に嫌ってもらわないと気が済まないようで
 
人間はみんな、においと熱を持つ
これは、僕らの、罪そのものだ
ほったらかしにしておくだけで忌避されるのに、神は清潔な風呂を用意してくれなかった
僕らはいかにして、クソ人間どもの社会という、クソの土台の上で生きなければ、追放される
クソが、クソ人間ども死んじまえ 俺が好む人間は、幸福に死ね
 
今もナット・キング・コールを聴いている、彼の声は、暖かい 彼はもう死んでいるからだ
 
八月のおんなのこ
 八月の死の臭いというのは、身を震わせる。こんなにアスファルトに熱がこもっているというのに。どこまで続く道なのかな、あの駅からはどこへ行けるのかな。夏、わたしはいつものように覚束ない足取りで、くだらない街を歩いていた。
 つまらない畑に伸びる電柱は、雲を割いてくれないし、なにも面白くない。らくがきはないけど、デリヘル募集の文字と電話番号が書いてある紙が貼ってある。半分だけ剥がされている。
 今日も沈む。きっと明日も沈む夕陽は、きっと誰も見ていない。こんなに親しんでいて、夏になると殺したくなっちゃうけど、やっぱりキミは誰も知らない。
 さあおいで、真夏の夜。蝉の音を汚水の川の波にして、翠がきらめくどぶ池のほとりに流れて、ゆらめく月の姿を見せて。鏡の先はきっとすてきな世界。
 犬が吠えた。手綱を離れた犬が行く先、誰も見ない風景、犬の目線だ、わたしにはわからない、きっとわからない、それでもすてきな風景だろう。こんなに暑い、なにもない、つまらない、おもしろくない、こんなところで一匹、つまらない主人の腕から離れて叫ぶ、声高にワンと。もう一回、もう一回。
 わたしの脚の臭いを嗅いで、飛んでいった。夕陽の方角へ。夕陽の沈む方角へ、手綱を垂らした一匹のしば犬が、碁盤の目みたいな畑の合間を縫って、わたしの脚に撫でつけた唾液をそこらじゅうにばら撒いて、さあ行け。おまえは自由の身、夕陽が傾いて山の輪郭が見えてくる、あぶないぞ、名も知らぬおまえ。
 急ブレーキの音。この音はどこで鳴った? わたしの心のなか? それともわたしの心のなか以外?
 この駅で死にたい。田舎の駅に照らされてわたしは思う。もっとずっと遠くに行きたい、キミの手によって、名前は知らないけどキミのパンタグラフは魅力的だから、わたしほれぼれしちゃった。どこにもなにもない、こんな無人駅でわたし、一生を遂げるのかもしれない。駅員さんおいで、わたしとおはなししましょうよ。楽しいおはなしをしましょうよ。
 閑古鳥が鳴く声。もう暗い空に飛ぶこうもりと閑古鳥の鳴き声、わたしの泣く声。
 無人駅の待合室でわたしは、夕方死んだ犬を想って泣いている。あのクソにんげんの主人に殴られた頬はもう痛んでいない。乱暴もされてない。わたしはきれい、そうそうきれいなまま。
 キミはこの待合室にいないの? わたしの前にもう現れてくることはない? 悲しい、かも。どうだろ。
 窓さえ軋んだ待合室、わたしはすっくと立ち上がってみた。足元でありんこが月光に光っている。ごきぶりもカサカサやっている。まだ暑い。今日はとびきり暑い日だ。
 電車が来ない。
 夜空には星が見えた。星のほかにたくさんのゴミが見えた。クソにんげんが宇宙を引っかき回したせいで、今夜の宙はゴミだらけです。
 ねえつまんない。今日もつまんない。明日もつまんない。明後日もつまんない。夏休みが終わってもつまんないよ。ぜったいつまんないよ。だってわたし、生きてて楽しいことなかったもん。ぜんぶつまんない。みんなもそう思ってるでしょ。でもわすれてるんでしょ。もっとみんなつまんないっていいなよ。こんな世界、なんもなくてつまんないだよって。
 線路に寝ると、ひやりと冷たかった。湖の上で寝ているみたいな感覚だった。でも居心地は悪くて、背中が痛くなって、近くにどぶがあるからぼうふらが気持ち悪くて、ちょっと逃げた。どこにもないわたしの居場所。
 きっとわたしは今夜死ななきゃいけないんだ。ぼうふらが教えてくれたんだ。
 平日の昼間の台所みたいな虚無感を抱えて、わたしは死に場所を求めていざ行かん。犬が死んだ時にばらまいた色とりどりの汚い臓器をわたしも撒き散らして、お父さんお母さん生まれてごめんなさいって宇宙の耳元で囁くんだ。きっと腹を切った侍たちもそうしてきた。
 無人駅でわたしは蝉を見た。すこしだけ死んでいた。半分は生きてたけど、半分は死んでいた。それってわたしみたいかも。わたしは夏だけ生きてるかも。わかんないけど。
 ああ歩く。歩くと遠くなるあの無人駅。線路を見るとわくわくした。いつでもわくわくした。あの銀色のレールの先にはなにがあるのかな。宇宙かな、きっと地球の外側まで繋がってる。つまんないねこんなはなしは。
 駅を離れ、首吊り死体のような柳の木を左に曲がると、カレーの匂いがした。人目を避けたいがために道を引き返して、首吊り死体をまっすぐに進む。その方角には満月が輝いている。まっすぐ続く道にわたし以外だれもいない。こんな田舎。
 二つ目の交差点を曲がって、くねくねした道をいろんな枝分かれた小道の誘惑を無視して進むと寺がある。寺にはちょっとした遊具と、たまに固くて丸まった大きなティッシュがある。行く場所がないわたしは無人駅に背中を向けて、ゆっくりと歩いた。
 水が流れ着く先はどこ。地形に沿って堕落すればそこは大海原、でも海になにがあるんだろう、海って広いだけで孤独で寂しくなるよ、水はここで留まらない。循環する。このたぶん広い地球を、たぶん狭い範囲で循環する。クソにんげんの手垢をせっせと洗い流して。わたしのこの垢も水に流させて、もうわたしは汚れすぎて月の光で洗い流せない。
 わたしは嫌なことがあるとすぐに夜空に飛び出した。蝉が鳴く夏、いつもわたしは嫌なことがあった。わたしはなににも執着しないで生きているのに、どうしてだろう、こんなにいやになるのは。
 花粉が飛ぶ、淫らな春という季節、わたしは失恋した。つまらない恋愛だった。もちろんわたしは恋をしていた、何回も満開の桜の木の下で愛を囁き合ったり、わたしのアパートの空き部屋で泥のように抱き合った。
 潰れたカタツムリの涙が降り止まない梅雨の夜に、彼と行った場所に行くことはなかった。
 わたしはきっと夏の夜が好きなだけなんだ。
 遠くから見る寺には深い青色の光が桜の木を照らしていた。青色の光が照らした桃色が、またひとつ宇宙の裏側に繋がっていた。
 民家からはみ出した常緑広葉樹の花。寺に咲く灯篭の灯火は儚いひとつの生命そのものだった。清潔きわまりないにんげん世界は、ひとつの生命の灯火が真夏の夜に浮かび上がっただけで瓦解していく。音を立ててわたしの内側から剥がれ落ちて、水に流れ海の底でクズと仲良く暮らしていく。
 寺の石段に座って、垢まみれの節くれだった手すりを見ていると、思わず畏敬した。黒ずんだそのからだはもうそろそろ休まなきゃいけないんじゃないかな。きっともうそろそろ休めるよ。わたしはその前に休むけどね。
 さらに更ける夜に繰り返しこだまする蝉の鳴き声と、わたしの泣き声。片手に刃物を持って練り歩くまちは、あんがいひっそりガラス細工のように見える。わたしは目が悪いから、じつはいつもガラスの世界に生きてるかもしれない。火の玉が行き交うガラス越しの水玉の世界。にんげんの表情を失う代わりに、毎秒切り替わる絵画の世界を手に入れた。
 谷間の、入り組んだ道のからまったにんげん模様は、ごきぶりの音が鳴る寺の向こうの山にも続いているのかもしれない。
 放埓なわたしの性は、放埓なにんげんの性。石段の冷たさは、去年の秋に落ちたきつね色の葉っぱの温度なのかもしれない。だれもいない寺にわたしはひっそりと、蝉の音を聞いて、落ち葉で涙を拭いてみた。
 脱力してスニーカーの底から砂が軋む音がして、小学生の頃を思い出す。わたしは小学生時代、友達がいなかったかもしれない。わからないけど、つまらなかった。昼間の台所がわたしの小学校の校門だったと思う。お母さん、ねえお母さん。ねえねえ。
 ため息をつくには、その分息を吸わなきゃならない、わたしはそのくらい息を吸うことすらできない。夏に線香花火をする人がわたしの他にだれがいるのかな。きっと線香花火をする人はみんな孤独で、線香花火が落ちるたびに世界がひっくり返って死んでいる。
 熱風が吹くと、木々がそよいだ。山の方から声が聞こえた。蝉が今日死んだ犬を弔っている。
 わたしが今日死んだら、蝉は今日弔うのだろうか。明日弔うのだろうか。
 表情を変えない月の目の前では、いくらでも自分の身体を傷つけられる。アサガオの目の前ではわたしはいつでも正直になれる。青いその目にわたしは惚れていた。
 わたしは寺に四円を置いて、真夏の夜の部屋へ向かう。わたしの道しるべが途絶える前に急がないと、この真っ赤な道しるべはクソにんげんのためじゃないのに、わたしのためなのに。
 民家が立ち並ぶ石壁の溝ひとつひとつに、わたしの軽やかでだんだんと濁ってきた足音が繰り返し響いて、夏の熱気が蓋をする。わたしは服を脱ぎ捨てて、交番の裏に捨てた。まだ生暖かいはずの衣服の隣で、白い花弁の中心でほんのりと紅らんだ、はじめておめかしをする少女を見た。わたしは微笑んで、わたしから噴き出す道しるべをかけてあげた。少女は笑って、わたしから離れてしまった。きっとキミも、こうやって消えていくんだ、最後はこえだめだよ。
 腕の感覚がなくなってきた。月! 見ているなら何か言って欲しい。やっぱり悲しいかも。どうかな。鉄骨にわたしは手をついて、だれも照らしていない外灯をみて悲しくなった。月! おまえもいつか悲しくなるんだ、わたしがいなくって悲しむんだ。
 走った。なによりも早く走った。わたしの心の中で管楽器が最高音を鳴らして、熱烈なドラムロールが心臓を締め上げた。雨が降ってきた。おい月!
 寺から出て右に曲がると、立派な廃墟がある。それを最近できたらしい小綺麗なアパートの方へ曲がると、交番が見える。わたしはもうどこにいるのか。えっと、あの、交番の前はまずいから、きつねが見える方向へ向かってみると、交番のうらだった。交番の手前には交差点があるから、そこをまっすぐ行けばよくて、ちょうどよかったから、わたしは、最後だから、もう、最後だから、全部脱いだ。血が、あ、あ、血が血が。ちょっと、もうちょっと、走らないと。
 もうすぐ着く。いや、もうついた。わたしはそこで寝ていて、月を見ている。
 ひまわりがきれいだ。つまらないけど、ひまわりが夜の空に映っている。夜の宇宙は鏡なんだ。
 おそらはまあるいかな。曲がった鏡に映るわたしのこっけいなこの姿、泥まみれのわたしの内側。
 人工衛星、時計回りに回って、今夜わたしのお願い聞いてくれる?
 お願いなんてなにもなかったかも。
 つまらないんだもん。
 最後に来たこの場所も、もっときれいかとおもった。
 全然きれいじゃない。だってもう立てなくて、ひまわりが見えないから。わたし、きつねに導かれてたけど、もうなにもわからないかも。
 わたしを騙した? クソにんげんが騙した?
 雪でも降らないかな。
 でももういいかな
 おやすみなさい
 いい夢を
 最後までつまらなかった
 雪がわたしの鼻の頭にくっついて、解けた。
 バイバイ。わたしの夏。
2018/11/05
 
Re八月のおんなのこ
 水面が揺れ水位が上昇するなかで、雨雲が山を覆い尽くしてわたしはそれに近い田舎町の公園で、ブランコに座りながら眺めていた。ますます動くそれらは、わたしの心のなかで泳いでいるよう。空は黒くて重たそうに流れていった。今でも黒いがそのひだは一秒前に見た雨雲のひだとは違う。それ自体がもうすでに違う。
 網から出てしまった魚のようなわたしを夢想する、が失敗する。わたしは網の中にいる。ブランコにすわりながら、眼を開いて見、感じながらわたしは勇気のようなものを感じる。行動のための、動機が湧き上がってくるのを感じた。空の重たさにわたしは空を浮かべる。縦横無尽に歩き回る、わたしは、空、の上を、ブランコ、にすわりながら、体内、の幽かな音、さえ逃さないで、耳、に入り込む波、の隙間に、入り込む。
 わたしは。
 一続きのわたしは、一秒前の雲のひだの上を浮かぶ、幼い少女になる。わたしは、一続きのわたしを、三秒前に殴る。五秒前に、二秒後に殴る痛みを、慰める。そうした破壊の流れは、わたしの遡行。
 わたしの遡行は動機の写像だろう。ブランコから離れたからだと、からだから離れたわたしの。
 草の音色が木から響くように、わたしの音色はブランコの鎖から響きくるように、公園の外側ではゆっくりと時間が流れ、田畑と農夫の影が水面に映る。公園では時間は早く流れ、わたしの脚が揺れる。またそのようになっていく。幾度となく時間が公園に集まり、わたしはそれを知っている。
 君も。知っているのだ。知ってくれるだろう?
 わたしは八月のおんなのこ。その枠組みの中で、火の淡い陰を知る、なかで輪郭が燃えているように、わたしは。
 八月は八の八乗回くる、この公園に。
 わたしはブランコで揺れる、その時間のなかを泳ぐように、からださえも漂って。ふと、
 夜が訪れる、足のない夜がここに。ここは公園から見えるほどの距離にある駅。そこでわたしは終電を乗り過ごした。ここは知らない村。わたしはこの村のことを、時間の経過の公園以外は知らない。また、この駅。
 わたしは死んでいくのではない。わたしは死んでいた、そして死に訪れる者。計画されたその死に抗うためのもの。わたしは。
 君は知らないだろうけれど、人が死なない場所というのが実はある。そこでは人は死なない。これからもこれまでも人はそこで死なない、絶対に死ぬことはない。自然に見えて自然じゃないその場所では、死ぬことができない。だからわたしはそこで死ぬ。そうしようと決めたのはこの駅で、列車がわたしの目の前を通り過ぎていく風のなかで、ゆっくりと心に入ってきた言葉のピースのおかげだ

2019/7/19

 

 

考えごとをする
今日の数時間前に、小説を書き終えた


サイコキラー - happycat/永遠性


これである
小説を書くのは久々だった
帰省もあり、書く気が湧かなかった
でも せいぜい文章は書いていたし、
本もそれなりには読んでいた


小説を、書く気が無くなっていたのだ
新人賞用の小説を途中まで書いて、
ほったらかしたまんまだ


この、今回書いた小説は、
ツイートしたように、以前から考えていたこと、存分に書いた


考えていたこと、とは簡単に言えば
小説は、書かれていることがどれだけ突飛でありえなくても、小説内では事実として扱える
というものだ
あたりまえなのだけど、これに気がついたときはものすごく驚いた
これのおかげで、ファンタジーが生まれるのだ


例えば安部公房の壁なんかは、ありえないことがたくさん起きるのに、全てが事実だ
山下澄人の緑のさるでは、人間が死んで、何事もなかったように生き返る
聖書だって、そのほかのたくさんの神話だってそうなのだ


だからすごいのだ


僕は、この小説の小説内事実=記述に惹かれて、簡単に、単純で素朴な違和感と記述のパラドックスを試したかった


小説の時間は一定に流れている
三人称では回想したり未来に飛んだりは自由だ
一人称は回想のみ移動できる
今回の小説は、一人称に近いが、
一人称を表す言葉は一つも出てこない
三人称としての名前も出てこない
本人を指す名前は、
猫の名前なのだが、
その猫も幻想上の猫で、
しかもその名前は、生んで、すぐに捨てたものだった
符牒の不在だ


それに加えて、文章の構造がおかしい
ところどころに意識の流れ風の太字が現れるのはいいとして、打ち間違いのような文字が時折顔を出す
これはまあいいとして


時間の構造がおかしい
芝生に寝転んだ。というような文の後には、芝生に寝転ぶのをためらった。という文が来たりする
そんなことを執拗に書いた小説だった
書いていると、パラレルワールドが文中に生まれているような気がした


それと、考えごと、だが
ドストエフスキー安部公房に惹かれた身として、
小説を書きはじめた頃には、
独白の一人称のものをたくさん書いた
けれど、独白には限界があることに気づいた
面白みに限界がある
というのも、独白は小説におけるスパイスのようなものだったからだ
ドストエフスキー安部公房も、
まずストーリーがおもしろく、それにあった独白を作っている
しかし特徴的すぎる独白を前にして、ストーリーと独白の位置関係が、自分の中で反転していたということだったのだ
僕が特徴的な独白を作ったところで、つまらない、似てるようで似ていない独白体が生まれてしまう


はなしはかわるが、ジャン=フィリップ・トゥーサンという作家がいる
彼の小説はまだ2冊しか読んでいないが、
僕は彼の小説がとても好きだ


奇妙さがすごいのだ
文体は乾いた、海外文学なものだけど
言動が異常なのだ
ドストエフスキーの異常さではない
まるで人形劇を見ているような
異常さなのだ
僕はこれに心を打たれた
浴室には感動した、こんな小説があるのかと
ムッシューでは笑った、円城塔みたいに、
気障で衒学的なものを持ち出さずに
ありそうなシュールさを書いていると


この行動面の変さを
今回の小説ではやりたかった


考えごと、それはすなわち一本道か、
自分で自分の脚に絡みつくタコかイカ
みたいなものなのだ
大抵は、無駄なことだ
おもしろいけどね

 

 

哲学について
完全な哲学は、我々の生活を保障しない。
ショーペンハウアーは言った
うそ、言ってない ごめん
僕は、まぁまぁそれなりに哲学に興味がある 高校1年に量子力学の、興味をそそられるようなところに触発され、哲学に行きついた
はじめはハイデガーが気になった
次はたぶん、ニーチェだった
内実は、僕は哲学に興味を持っていたのではなく、学術のヴェールを纏った絶望的な考えをそれがしの口から聞きたかっただけなのだと思う だから、実存主義だったのだと思う
それから、どうなったんだっけ?
僕の友達はみな賢い
ある分野の才をもっている
なかでも僕と同じく哲学に興味をもって、哲学科に在籍している、親友がいる
彼とは小学からの中で、いつも遊ぶ4人の面子の中では、もっとも勉強ができた
公文をやっていた 
そして、僕はもっとも勉強ができなかった
彼はいじられキャラだった
ある時期に引っ越してしまった そしてそのいじられキャラは僕が受け持った
両極の反転現象のようなものだ
僕らは、それぞれ高校に進学した 僕はもっとも偏差値が低い高校にいった
彼は県一位くらいの高校にいった
そしていまは、お互い浪人を経て大学に通っている
彼は僕のように怠惰に文学に耽るわけでなく、ストイックに哲学と数学をやっているように、僕には見える
僕は怠惰ゆえに哲学書を読み、数学もトポロジーを少しかじって読み進めていない
彼はヘーゲルの『精神現象学』を精読しているらしい、僕といえば、最近読んだ哲学書は『木田元の最終講義』だが、これは哲学書なのか? その前には永井均の『〈子ども〉のための哲学』がある、その前にはマルタンの『ドゥルーズ』が…
バタイユに興味がある
というか、僕はバタイユにしか興味がないかもしれない
彼も僕の勧めでバタイユに興味を持ってくれたようだ
このあいだ、僕は酔っぱらって、彼にラブドールの写真を送り付けた後、
短く哲学について語り合った
僕は「俺の性欲を消してカントにしてくれ」といった
彼は素朴なもの(心象など)がつっかかって、精読そのものに疑問を持ち始めているようだった
わかる
だから数学(彼の言葉ではこれは事実の写像である)、というのもわかる
けれども分析哲学の素朴さではない、というのもわかる
僕は思う
違うのだ、と思う
そう、すべてのことに「違うのだ」と言うことなのだ
n次元のカタ抜きを〈僕は〉哲学でやっているつもりなのだ
近代理性主義はやはり、優等生だった 優等生でしかなかったのだ
僕は、有罪者として、青二才の哲学をしている
きっと、彼もだろう
たとえば、哲学は真理を目指しているように見えるが、そんなことは考えられない
真理とは消失点であって、遠近法の優秀なところは、消失点ではなく、消失点を生み出す遠近感が肝心であるように、真理はカタ抜きのかたちだ
深淵が私の囲いだ。
「わたし」という存在は測ることが出来ない。
フェルナンド・ぺソアはそう言っている
消失点の「点」は、「1」としての存在を顕している
カタ抜きのかたちは、トポロジー的に閉曲面の位相だ
真理は、僕は、あると思っている
相対主義を超えた真理がないと、相対主義は実証されえないのだ
ただしかし、真理はn本の線・線分の集合で、集合がそれぞれ面を成し、果てには着色されてしまうように、僕たちにはそれらが輻輳するところを探すのは容易ではない
そんななかでも、簡単に消失点を見つけることが出来る
それは狂うこと、または死ぬことだ
人間のもっとも愚かな発明品は、悟性だ
悟性は面に着色をした
聖なるもの、それは消失点だが、僕は生きている
つまりは哲学は、哲学するたびに消えるということだ
だから「違うのだ」
冒頭のにせショーペンハウアーの名言は、まるで生活を保障する哲学があるように言っているが、生活を保障する哲学はまずありえない
ちょっと前に思いついた思考実験がある
Aは歩きました。BはCを殺しました。AとBの違いはなんでしょう。
この思考実験は、考えの基盤を明確にする
言語ゲームを破壊する手立てはここにあると思う
素朴さはここで愚かなものになる 素朴さ、それは僕たちの原罪に等しいもの
だが、素朴さをもって、僕らは、哲学をしている
いや、これは哲学ではないのかもしれない
文学なのかもしれない
追記
これを書き上げたあと、セブンスターの10ミリを吸って、体がボワボワするから布団に潜り込んだ
その間ずっと閉曲面の位相という言葉が頭の中をぐるぐるしていた
こんなかっこいい言葉を使えた!
という思いでぐるぐるしているのはすぐにわかった
そう、この類いの素朴さなのだ
言いかえれば、アホだ

 

 

人生について
人生というと、
厳密さに欠けていて、まるで説法のようになる
そこで、「人生」というものを、
「私が、時間を感じて、そこ存在する。また、その記憶や記憶の断片、因果的に事物のそれらが存在する」
と定義する
曖昧に人生を持ち出して
いわゆる名言とするのは、僕は嫌いだからだ
またここで、「私は」と書かれているが、
筆者以外が「私」と感じられるのであれば
適宜、それに従っても良い
しかしあくまでも、僕は、私にとっての、それを話しているのだ


人生というものは、あらゆる可能性を捨てていくことだ
逆説的なのかもしれないが、これは、ある面では事実だ
僕は、いろいろなことを考え
つまりいろいろなことを夢想し、未来的にそれが実現するように
論理立てて、したいこと、またはすべきことを考える
けれども、もしそれに機嫌が設けられている場合
体験として、果たされたことは、まず無い


想定として、果たされた場合も、ほかに考えていたことは、もうすでに果たされない
なぜなら、それには期限があるから
期限というのは「そのとき、これになっていろ」
というものであるため、
その未来に「これになっていろ」が果たされていても、果たされるものではない
「人生」は時間を伴っているのであるから、当たり前である


では、時間とは何かといえば、それは体験の回収である
なぜ「回収」なのかといえば、その体験は
想定可能であるからだ
つまり、僕は、考えられるのであれば
世界の全てを、すでに体験している
また、ここでの「可能」は「不可能」ではない、つまり「可能」という消極的な理由であり、論理学の恥のような二項対立によるものだ


それでも体験と想定は違うというのであれば、
言葉を超えたものがある
ということになる
しかしそれは僕の生誕が不明瞭、また
生誕以前の記憶がないところがあるというところで、
類似のものとして扱うことにしたい
生誕、生誕以前の、
つまり、経験したはずなのに、記憶がないそれらとの類似として、言語を超えていると言える
それは語ることができない 徴を感じるのみである


徴とは「かもしれない」が掬いきれなかった部分である


「かもしれない」とは、僕が考えられたことである


時間を伴って存在していくと、
時には時間を遡る
それは、記憶となって、事実よりも感情が入ったものになるが、
感情とは徴、または徴の方を向いている矢印であるから、語れない
ここでの問題は、因果的な事実である
事実とはそのものとして、判定もなくそこにある、そこにあったのではなく、そこにあるのだ
とすると、そこにある事実は、一通りしかないということになり、僕がそれを内包している
つまり、事実の全てには、無意味にも
「僕の」がつく
ということは、記憶も「僕の記憶」、徴も「僕の徴」などなどと変化していくが、ここではいちいち書くのがめんどくさいから「僕の」は省略する


そこにある事実と、そこにあった事実の違いは、
言い方の問題であり、大差はない
ついさっき、「そこにあったのではなく」と書いたのは、「あった」ものとして扱うと、僕との距離が生まれるからである
それらの距離は、本来的には存在しない
なぜなら、事実は動作の集積であり、
動作というのはいつでも事後的に理解されるものだからだ
つまり、「あった」事実などは当時にはなく、「ある」事実が現在にあるのだ
「あった」ものはなく、「ある」ものとしての過去、つまり事実が現在にある


このようにしたとき、一通りの事実の集積を人生と呼ぶことができる


事実に対して、考えつまり夢想を空想と呼ぶのであれば、
空想とは∞通り、そこにあるのだ


しかし僕はこれまで、人生は一通りでしかない
ということは、その一通り以外の空想
それを可能性と呼ぶと、
それらの可能性は全て捨てていることになる


また、派生していくと
なぜ可能性を捨てるのか、可能性を捨てる理由として、〈消極的な〉大きな理由として
安定がある


安定とは、そこから動かないことである


想定として
安定を求めて生きた場合、
それはまるで城を築くようにしている
そして僕はいつしか城の周りに掘を作り、
自分をそこに閉じ込める


これは間違いではない、安定とは自分の可能性を捨てて、拘束することなのだから


間違いである場合は、その城から出たくなったときである
城から出たくなったときは、僕は
無理矢理にでもでるのだ
それは常に反社会的な行動である


僕は生きていき、可能性を減らしてきた
これからも生きていくのであれば、僕はさらに可能性を減らしていく


生誕以前、また母親の子宮にいた頃には、
「僕の可能性」は、僕は気づかなくとも、たしかにあった ∞通りにあったのだ
しかし、僕は僕になる前のことを語ることはできない
したがってこれは想定であり、漸近する対象だ


僕は、僕という人型を、他人に晒してしまった頃から、あらゆる可能性を減らしてきている


なぜなら、
私は、僕になったころから、他人であるからである

 

 

日記(スペクトラルウィザードとか)
一昨日買ったスペクトラルウィザードの新刊が昨日届いて今日読んだ
素晴らしかった ツイッターでも話したけど、ストーリーが重厚だった
スペクトラの孤独と懊悩は「どうだ!これでもか!」というほどまで突き詰められ、
その描写はスペクトラの周辺人物や、行動によって間接的に表現される
たぶん意識的に使っているのだろうが、クリシェが多い
このストーリー自体がクリシェであるようには思えないけど(というか僕がストーリー重視の文芸にほとんど触れていない)
登場人物の言葉のクリシェは多い気がした
しかし、クリシェに囲まれながらも特異な状況下で、
しかも行動をともにする仲間も増えたというのに、
さらに深まる孤独を描く手腕にただただ僕はページを捲り続けるほかなかった
スペクトラの孤独はもはや宿命なのだろう、彼女の魔法自体に刻印されている
今作ではその孤独な魔法によるスペクトラの孤独さがよく表現されている
週刊漫画ならスペクトラの過去が語られていてもおかしくはないだろうが、
それはクリスタルウィザードに負けたという対決に仄めかされ、
描きおろしのサラダウィザードでも言及され、
クリスタルウィザードも過去の自分から変わろうとしていることから、
この対決が双方なにかのターニングポイントになったと考えてもいいかもしれない(というか、過去の引っかかることというのがこれくらいしかない……)
 
今日は、とりあえず一日を過ごした
スペクトラルウィザードが読めて、感動して、素晴らしい日だった
たばこ、ピアニッシモのアイシーン5ミリを買ってきた
正直、クリスタルウィザードっぽいなと思って買った
メンソールはあんまり好みではないけど、
これはたばこのおいしさを消さない強いメンソールで、
買っていた赤のマルボロを吸ったけど、正直アイシーンのほうが美味しかった はまるかも
あとは、特にない 変なご飯を作ったくらいで
変なご飯、その名も「謎カレー」
・なんかの肉(なんか四角かったけどサイコロステーキではない、鶏肉でもない)
・もやし
をごま油をひいたフライパンで
ブラックペッパーと味の素を少々
ごはんは……親が用意してくれていた一食ぶんくらいの冷凍白米を二袋解凍
その上にさっき炒めたやつを入れ、
カレールーをいれ、レンジでチン
まあ、おいしいよね
 
 
そうだ、シャワー中に考えていたことを
 
自分は来週の木曜日に心療内科へ行く
ODのし過ぎではない、というかODの原因でもあった希死念慮がさらに強くなってきて、今はだいぶ安定しているが、ここ最近物凄く酷い精神状況だった
そこで自分のことを考えると、自分は躁鬱の傾向があるんじゃないかと思えてきた
行動を思い返していると、そんな気がする
さっき17TYPE診断をしたら、1回目:ヤンデレタイプ 2回目:依存タイプ だった
自分の恋愛は、たぶんに、付き合うまでは積極的?だけど
付き合ってからは消極的 でも相手がなにもしないと自分が見繕ってどうにかイベントを起こす
そうしてずっとやってきてずっと疲れてきたのだ(だから今はかなり気楽なのだ)
そしてあの積極的なものはたぶん性欲なのだ
一般論として男は一回セックスしたら終わりだの、態度が変わるだの言われるが、そうしたものとは少し違うと思う
セックスをして、もういいや、となるわけではないのだから
ただ狂ったように求めてしまうというか、熱に浮かされているみたいな言動 しかもクリシェ武装していってしまう
実際のところ、これはたいてい途中で終わる 疲れるというのではなく、オナニーして後悔する、というのではなくて、単純に飽きるのだ
これによって性欲が恨めしく感じることもある
しかし性欲は全てではないと思う
性欲はたぶん

こんな感じで写像によるものだと思う
だから、自分の中に必ずあるものではない気がする
また、このように、
全ての事柄はある集合による写像であるのではないだろうか
社会的政治的に集合による基本的要素は拡大される
古くは身体と他人と狩り、農耕についての要素だったのだろうが、
今は基礎的要素が増えているし、これが人間関係に密接にかかわっている 世代論はこの基礎的要素によって画定されるのだろう
この知識集合説を思いついたときは、この間自分が考え付いた自己=意識論の延長にあると思って感動した
そしてスペクトラルウィザードにも、そう、帯にもある通り
 
人間とは知識のしもべである——
 
と書いてある
これはクリスタルウィザードの言葉を要約したものだ
また、クリスタルウィザードはこう言っている
 
人類は肉体的には
1万年前からほとんど
変化していないのに
言葉と文字を発明し
社会は高度に発達し
魔術も
見違えるほど
進化した…
我々と彼女で
異なるのは知識だけだ
知識という
実態を何も持たない
形而上の概念が
進化しているんだ
つまり…
知識こそ人類を
人類たらしめて
いるのだと
世界をおおう
知識という
巨大なデータベース
それこそが
我々の主人であり
我々はそのしもべ
なのでは
思わんか?
 
クリスタルウィザードは、人を操る魔法を追及していたというところが感慨深い
つまり、人を支配しているのは知識だというのである(主人であると)
僕の知識集合説にも通ずるものがある、内的にだが……
しかし要素が集合がなることはないし、空集合も集合なのだ
はじめにスペクトラルウィザードの帯を見たとき、
「いや、『知識のしもべ』なんじゃなくて、『言葉のしもべ』なんじゃないのかな」
と思ったけど、やはり違うような気がした
 
そんなこんなで、スペクトラルウィザードは面白いから
買って読もう!
 
 
 
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これが新刊で、2巻
 
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これが1巻です、読もう! スペクトラルウィザードの作者、模造クリスタルは、金魚王国の崩壊を書いた人だぞ! 金魚王国の崩壊はこれだ!
 

グエー
 

 

大もりそばの太陽の念仏

これから綴る言葉が意味する出来事、それらは読者諸君にとっては大もりそばの太陽の念仏信じがたい出来事であるのは確かだし、この文章はこれから綴られる言葉に先立って書かれたものではなく、一度書き終えてから書いたという、すなわちまえがきのようなものであり、先立ってというのであればこれから綴られる言葉の数々のはじめての読者はわたしなのである。だが書いたわたしでさえもそれらは信じがたく、もとよりわたしが体験した出来事ではないからであるような気がしないでもないが、ここでわたしが筆者であることを自称している以上わたしは筆者であり、話者であるのは事実であり、諸君にはそれを覆せる事実は持ち合わせていないのだから、つまり受け入れなければならない。ある日、それは彼にとって空を見上げてみると厚い雲が広がっていて、あかりというのが、つまり太陽のことだが、それの気配が全くなくならば俺が今こうして空を見る、つまりたくさんの色彩が交差するという、ただそれだけなのだが、そういった現象に疑問を浮かべひとしきり冷たい風を浴びたところで、思い直しをしたという言葉は俺にとって適していないけれど、彼を見ていた人たちはなぜそうも大振りに体の向きを変えて歩き出すのだろうと、そのことが疑問であったと思う。彼は体の向きをことさら大仰に変えたということで世界的な意見は合致する方向に向かっているし、その規模や価値はあまり大きくないために彼についての説明において、水戸駅ペデストリアンデッキで大仰に体を反転させた人、という文句が用いられることはないが、事実というものを事実あらしめるためには少数であれ情報が必要であり、目撃情報としての彼らの意見はこうして役に立っているし、役に立つというのはやはり道理から伸びた人間の感情がそれによって嬉しさを煽るものであるが、彼が振り向いた先に昔の恋人のような女が控えていたのは俺にとって嬉しいものでもなく、金輪際役に立つような出来事でもなければ、かえってコンマ数秒の反応で動悸のようなものに悩まされ、彼女に対して行っていた非道な仕打ちに胸を痛める傍ら、女の寂れた風采に対して無関心無関係を装わなければいけない気がしてしまうのであった。ところでわたしは脱線を恐れないし脱線をして良いのであればいくらでも脱線してやろうとなぜだかそちらの方にまで手腕を振るってしまうたちであるのだが、水戸という土地は何もないように見せかけておいて結構楽しめる土地であるし、福島なんかよりもずっともっと栄えていてというより福島のほとんど中心である郡山という土地は盆地で、そしてこの盆地という言葉を思い出すにはかなり時間ががかかっていて、それわたし自身の知識不足というかいろいろだめな点なのであり、それはいいとしてわたしは郡山を谷間と呼んでいたらいやらしい気持ちなどはないのだが、週刊誌的な気分の悪さを覚えていた俺はやはり汗を毛穴という毛穴から流して、特に生え際からは滝のように流していたし、滝のような潮吹きをしている女を想起させる成人向け雑誌の文句が俺とどうも合致しているようだと思うと、女そして女、聞こえてくる店員の甲高い声、耳元で囁かれるような「いらっしゃいませ」の声が聞こえてくる感じはただの自意識過剰で実際は俺の後ろで品出しをしながら時給780円のねじまきで機械にされた女の厚化粧な掛け声が背中合わせで響いてくるだけなのだし、いくら童顔とはいえ成人向け雑誌の前で佇む19歳に性的な好奇心を抱く女はいないだろう、そんな女は、と言葉が詰まり息がつまり、つまり詰まりというのは耳元で囁かれたのは「いらっしゃいませ」の声ではなくてあの女の寂れた雰囲気が細く口を開けて「(本名)」と舐めずったようなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ怖い!

 


走った。水戸のペデストリアンデッキの階段を登り、左のほうへ。川又書店を通り過ぎ。いや川又書店に居たいなと思ったし、というのも俺は本が好きだし村上春樹騎士団長殺しの文庫版の3と4が出ていて、それに惹かれたのもあったけれど、他には上田岳弘の私の恋人が気になっていて、なんというか、マジックリアリズム風で惹かれていて、磯崎憲一郎もそういった作風で最近は世紀の発見を読んであのゴツゴツとしているのにすんなりと身体に馴染む文体に虜になってしまい、肝心の子供/太陽の目も積んでいるから読みたいのだけれど、マジックリアリズムの大元の大元のマルケスエレンディラしか読んでいない叱責を感じて予告された殺人の記録を積んでいたことを思い出したのだが、彼らのマジックリアリズムは族長の秋っぽいのかな、などとゆらゆら考えて癒されていたのはわたしではなくて俺なのでわたしはそんな本は知らないし、そもそもわたしは本を読まないし、本などというのは大嫌いなのだ。わたしは水戸に住んでいないし、実を言うと俺も水戸に住んでいない。そんなことはどうでもよろしい。さてわたしはいま車に揺られていて、どこに連れて行かれるのかはよくわからないし、きっと俺もそんなことはわからなかったと思う。俺はあるところで誘拐された。あるところというのは逆川の橋から身を乗り出して緩やかな川の流れを眺めていたら、30センチくらいの小人に背中を押されそのまま川に頭から落ちてしまった。というのはわたしの考えであり、俺にはそんなこと分からなかったと思う。なぜなら背中を押されたのだ。俺は振り向かなかったし、俺のことを見ていた人は小人の他に誰もいなかった。そして俺はさざなみ立った鏡面の川に映る小人を見ることなく、驚きと恐ろしさからメ一杯目を瞑り、小人のおツムの3回りくらいの大きいくらいの俺の頭は川に落ちていった。目を覚ますとセダンの中で、セダンは国道118号線を走っていた。文京二丁目の橋に隣接している大学に見覚えはなく、いやあるのかもしれないがなにもわからず、唯一わかることと言えば左折すれば偕楽園に辿り着けて、運転席にはあの女があの風采で座っているという、ただそれだけだった。

そう、それだけだったのだ。道という道があらゆる道に続いていて、原因と結果、因果などというものが通らない、いやもしかしたら通るのかもしれないが、それは学問で、学問というのは永遠の言い訳でしかなく、なぜ言い訳なのかと言えば、学問には定義があり、定理があり、その中でしかそれらが効果をなさないのであれば、この大きな謎に包まれた世界というそれを解き明かしたくとも、世界が人差し指で少し押してやるだけでドミノがパタパタと、いや、ジェンガのようなものが建った地面に揺さぶりをかけたようにバラバラと、崩れてしまい、雑然とした瓦礫の散らばりがそこに見えるだけで、崩れる前と崩れた後の連関を繋ぐのは一体なんなのだろう、そう思うのは女にわたしは身ごもっていると言われたその瞬間であったことをちょうどいま思い出したし、それは本当にわたしの子なのか、ちゃんと避妊をしていたじゃないかと俺は言ってやったと記憶しているのだが、もしかしたら言っていないのかもしれない、それでも君があなたの子ですときっぱり言い放ったことは覚えているし、そのあと即座に君の腹を蹴りまくったことも記憶には新しく、言ってしまえばそれはいまなのであり、いま、君の足を柱に縛り付けて腹を一心不乱に蹴りつけていて はその間何も感じない は何も思わない は思い出したということになるのかもしれないけれど何を思い出したのかについてはわからずとりあえず出来事の前後がわからなくなっている身ごもったらしい女の腹を蹴りつけるまるで機械のようなただのそれになっていた。甲高い音が鳴った。それはご飯が炊けた合図なのだった。 はごはんのことを思い出した。そしてわたしは疲れを感じてきた。30センチ程度の小人がいま目の前に3人いる。それぞれこんなことを話していた「この間3800円もした美容室に行ったんだけど、あんまり質が良くなかった」「お前に髪なんてもともとなかっただろう」「いや、お前に見えていないだけなんだよ」小人ABCは丸メガネ、ウェリントンのメガネ、コンタクト姿だった。小人Cがコンタクトであることを見抜いたわたしはそれぞれの小人が流れてしまった赤子であることを悟った。わたしは線路の向こう側から西日を浴びて、小人Cの名前を思い出そうとした。

曖昧な流れ

ニコライ・カプースチン『24の前奏曲』より「第八番 嬰ヘ短調」に乗せて 

 

 せわしなく自動車が走るそばを、紺色のリュックを背負った男が、自転車で通り過ぎる。

 六時ころの家路を急ぐ自動車の群れ。男は道路の右側を滑走している。運転手の目線は男に向けられているが、ライトから自転車の姿が浮かび上がっても、運転手が捉えるのは過ぎていく影でしかない。

 小さな道路で、たくさんの自動車が通っている。向こう側からやってくる自転車を運転する人間。気持ち右側の塀に身体を寄せて、その人間を自動車と触れるぎりぎりのところを走らせる。

 運転手は、男を見る。既に男を通り過ぎた。男は走っていく。やがて影になる。

 家に着いて、男は玄関にあるごみたちに視線を落とした。手袋を取り、洗濯機の上に置く。男の動作はややぎこちなかった。なにか考え事をしていたのだ。さっきまでいた喫茶店で、男はある女と話していた。女は何度も「今日はこれから暇なんだ」と言い、男はそれに空返事をしてごまかしていた。女が不満そうな空気になると、男はコーヒーをのみ、女は小説を開いた。

 女は、言葉通りの意味しか伝えていなかった。男に対する好意も、望むこともなかった。勘違いして、わざとらしい返事をしている男が滑稽に思えて、女は繰り返しそう言っていたのだ。

 男にも、女にも交際している人間はいる。一緒に喫茶店に行ったのは、ただ男と話がしたかっただけなのに、男はどこか間違えていた。男は、これら全てをわかっていた。それどころか、女とのんだコーヒーの味も覚えていた。それでも、女への返事は芝居めいたものだったのだ。

「あの人がいないと寂しい」

 と言うのは、男の交際相手であるRなのだが、その言葉を聞いたのは女だった。この言葉は、女の部屋で反響しながら、シーリングファンの回転に巻き込まれて消えた。

「あなたが?」

「そう」

「でも、一緒にいるじゃない」

「いまはいないでしょう」

 テーブルに置かれた皿には、お菓子が乗っている。

 Rに出したハーブティーも、お菓子も、Rは手をつけていない。

 二人は無言になった。部屋では男に教えてもらったジャズが流れていた。いまはベース・ソロで、沈黙に拍車をかけた。

「いますぐ会いに行けば?」

 女は言った。

 部屋に入ってはじめにしたことと言えば、服を脱ぐことだった。考えごとは悩んでいることではなかったから、ずっと体内を循環することもなかったのだ。

 Rはただの友人で、特段おもうことはなにもない。男の趣味はわからないし、それより前からRと仲良くしていた身としても、Rはつまらない陰気な女性だという認識が変わることはなかった。「つまらない陰気な女性というのは、少し言い過ぎかもしれないが」と考えたところで、あの男とRの関係は変わるものではない。

 男はRを愛しているのだろうか? いや違う。男は愛しているのだろうか?

 ある日、Rと男は旅行に行った。そこは海沿いの、二人が住むところから電車で二十分程度の場所だった。

 女は海に対してなんの期待もしていなかったが、男に誘われるや否や、むかし嗅いだ磯の香りが懐かしく感じられた。「そこで日が沈むさまを見るのもいいものではないか」と思った。Rは男に旅行を誘われたというだけで喜んだ。

「結局どうだったの」

「喜んでた」

「じゃあ私は喜んでたと思う?」

「知らない。どうだったの? 海は」

「むかし読んだ小説を思いだしたよ」

「そう」

 森の中にいた。道は見えるが、ひとけはなさそうだった。いちばん近くの木に身体をあずけ、へたり込んでいる少女がいる。白いワンピースを着ていた。少し肌寒かったが、少女は鳥肌ひとつ立てないで、じっと空を仰いでいる。風が吹くと、さらに寒く感じた。木々がそよぎ、音を立てた。音の中で落ち葉が舞い、それがまとわりついてくるものだから、必死に落ち葉をかきわけた。それなのに、一向に落ち葉から抜け出せないでいた。乾燥した葉っぱたちが鋭い。半袖だったせいで、切れてしまった。血が出ているのだろう。傷だらけだ。痛い。

 白い腕に引かれて、歩いている。「ああっ、血が出てる。深いね」と言って、少女が傷口を舐めると、裂けていた部分が繋がった。物憂げな雰囲気の森。少女は「怖い?」と言うだけで、その他になにか教えてはくれなかった。ただ、どこかに連れて行こうとしている。

 女の交際相手であるKが、女が淹れてくれたコーヒーをひとくちすする。その音がやけに大きく、女は不快な気持ちになった。夕暮れの時だった。大きな窓から、橙色の明かりが差し込んでいた。楕円形のテーブルにはKの私物が並んでいる。哲学書、携帯電話にライターと煙草。どれも女が嫌いなものだ。

 哲学書といっても、女でも知っている哲学者の入門書の類で、その上には携帯電話が置かれている。コーヒーを四回すすったあとに、角が欠けているパックを右手で持ち、コーヒーカップを持っていた左手で煙草を一本取った。

 その動きを後ろから見ていた。なぜだろうか、とてもおもしろく感じた。部屋は生暖かい。Kの動作は、どれもけだるげに見えた。

 女は小説を置いておもむろに動き出し、Kの隣に座った。

「ねえ、一本ちょうだいよ」

「いいけど」目は女に向けられていなかった。「ちょっときついかもしれない」

「別にいいよ。ふかすだけ」

 煙草を口に咥えて、女は哲学書を手に取った。携帯電話がテーブルに当たった。

「やめてよ」

 ライターを差し出しながらそう言うKも、どこか滑稽に見えた。Kは女を訝しげにみつめていた。

「いいじゃない」

 片手で哲学書を持ち、もう片手で煙草に火をつける女を見た。慣れているかのように煙草をふかす女は「特に難しいこと、かいてないね」とKのコーヒーをひとくちのみ、「これだったら、私の読んでる本の方が難しい」。

「君が読んでるのは小説でしょ?」

 女はKにくっついて、哲学書を持つ手をKの股座に置いている。

「そうだけど」

「それじゃあ難しいよ。そっちのほうが」

 ふかした。煙は混じりあって、天井に消えていった。煙草を吸い終わってからしばらくして、Kは家を出ていった。女は「私はこの人と付き合うことになるかもしれない」と思った。

「この小説はおもしろいの」

「読んだことあるよ」

「そうなの? 本なんて読まないと思ってた」

「たまに読むんだ。変な本を」

「そうなの」女は小説を閉じて、カフェラテを少しのんだ。

 男と女は喫茶店を出た。外はすっかり暗くなっていて寒々しかった。

 Rの眠りは、呼吸していることを除けば、完全に孤独だった。心臓の音が聞こえた。規則正しくなく、早くなったり遅くなったりする心音を、Rはただ聞いていることしかできないまま、眠りについた。

 次の日は、とても憂鬱な気分で目を覚ました。孤独というものを言葉でしか知らなかったRは、唯一の楽しみである眠りから、あらゆるさみしさをかき集めたような、孤独というものを教えられたことに対して、どのような反応をすればいいのかわからなかった。

 あくまでも憂鬱な気分を抱いていただけであって、あの孤独さからは全く遠いところにいるような気がした。憂鬱な気分になることはよくあったし、いまの気分に問題があるようには思えなかったのだ。

 秋が深まってきて、公園には人の姿が見当たらず、風が一段と寒さを煽ってくる。

 憂鬱を払拭するために家を出てきたというのに、ところどころ剥げ落ちた遊具しか慰めになるものはなかった。空を覆う灰色の雲に交じって、煤のような色合いの雲が見えた。烏が数羽、電柱から飛びたって行った。Rは地面を蹴ってブランコで少し揺れてみた。

 家に帰ることにした。

「それにしても、あの孤独というのはなんだったのだろう」と玄関の鍵を閉めた途端に思い浮かんだ。

 家から公園までの距離はそれほど遠くないが、近くもない。Rはその道のりをひたすら歩くことに徹していて、なにも考えていなかった。憂鬱もどこかへ行っていた。Rは、そのことに対して憂鬱な気分になった。

 部屋は暗い。今日はあまり日が照っていないからというのもあるだろうが、部屋の雨戸を閉めっぱなしにしているから、ふつうの夜なんかよりもずっと暗い。

 ベッドの上にあるライトスタンドに、少し埃が見えた。Rは眠りたかった。あの孤独とは無関係に、ただひたすら眠っていたかった。

 Kと知り合い、できるだけ前向きに生きようと決めた日から、むかしに経験したように鮮明で、どこかぼやけている夢をはっきりと見るようになった。もうすっかり忘れていて、その夢たちの具体的な話はできない。

 覚えていることは、鮮明かつぼやけた夢を見続けていること、それがとてつもなくRを嫌な気分にさせたこと、これらだけだ。

 女と一緒にいる男を見たRは、男に対してなにを思ったのだろう?

「せっかくだから喫茶店にでも行こう」と男は言った。動揺している様子はなかった。

 海の香りがする喫茶店で、四人はやさぐれた人間に出会った。

 日中からビールをのみ、ばかでかい声で店員と話をしている。話し相手は彼の調子によってそれぞれ変わっていく。だから、彼の話をまともに聞いている店員はひとりもいなかった。

「すごい人だね」

 伸びっぱなしの髪が、脂で束になっている。四人はやさぐれた人間からいちばん遠い席に座った。彼のなんとも言えないにおいが、海の香りに混じって漂っている。

 客は彼と四人しかいなかった。四人の席に店員が水を出しにくる。

「あの人は常連の人なの。ごめんなさいね」

 と言って、あからさまに嫌そうな顔をした。

 男の提案で喫茶店にやってきたのだが、特に話すこともなかった。「誰かに向かって怒りをぶつけるようなことはない」と四人は思っていた。だから、話すこともなかったのだ。やさぐれた人間の声量が、いよいよ怒鳴り声のように響いている。Rが頬に張りついていた髪を払って、なにか話し出そうとしたとき、

「やあ、ごめんね」と、やさぐれた人間は四人に話しかけた。Kが彼に話しかけた。

 夜も更けてきた。秋が過ぎて、冬になろうとしている。煙草がうまい。「換気扇もない部屋で煙草を吸うのはどうなんだろう」と思っていた時期もあった。部屋の隅に置いてある絵も、すっかり煙草のにおいがついてしまった。絵の横には、これから読むだろう本が積まれている。「いちばん下から三冊までは文庫本で、それから二冊はハードカバー」というような加減だから、ものすごくバランスが悪い。隣の絵はただの風景絵だ。空は暗い。

 誰がかいたのだろう?

 鋏を持って自分と女が映っている写真を切ると、ふと思い出すことがあった。その恋愛とは全く関係のないことだ。恋愛関係を結び、そのさまを写真におさめ、恋愛関係が切れた日には必ず写真を切り刻んだ。データ化した写真は残してあるが、それは消していないだけだった。なにかの拍子で女との写真が画面に映ると、男は機械的に写真を消していた。写真を消す行為と同様に、思い出すことがあった。やはり、その恋愛とは全く関係のないことだったが。

 鋏をテーブルに置いて、男は長座布団に倒れ込んだ。天井で光るライトが眩しかった。

 インターフォンが鳴り「郵便です」の声が聞こえる。「なにも買っていないのに」とあやしんだ。でも、親かもしれない。

 小さな段ボールが届けられた。立方体の段ボール。いくら記憶を探っても身に覚えのない場所、名前から送られてきたものだった。開けてしまうか悩みながら、この段ボールを眺めてみた。切り刻んだ写真の上に段ボールを置いて、煙草に火をつけた。灰皿には十五本の吸い殻があった。鉄くずのようになっている灰もあれば、形を残しているものもある。部屋は寒く、空気は淀んでいるが、煙草のにおいはしない。テーブルの上に本があった。どれも知らない本だった。真ん中あたりの本を取った女を見て「これは小説なんだな」と思った。煙が消えていく。

「これ、読んだことある?」

「知らない」

「あなたが好きそうな本だと思ってて」

「そもそも、本なんて読まないから」

「そうなの。読書、好きなのかと思ってた」

「ちいさいころは読んでたよ。でも、そのときに読みつくしたような感じで、もう読まなくなったの」

「私は読まなかったよ。わからないけど、読んでなかったと思う。もう忘れちゃった」

 女は脚を組みなおし、カフェラテをのんだ。手に取った本をぱらぱらめくって「読んだ本なのに、どうしてまた買ったんだろう」と考えていた。

 目を覚ましてもまだ暗いままだ。眠りにつく前も暗かった。あまり眠れずに目を覚ましたのだろう。顔を動かしても、無機質なチューブと緑色の薄明かりが見えるだけだ。身体の中から「ちゃぷん」と波うつ音が聞こえた。他の人間は寝ている。こうやって夜に起きてしまうことは、よくあること。どうということはない。

 Rはお菓子を食べた。女の姿を見ながら、男を思い出していた。男も本を読んでいたはず。身近な人から影響を受けることが多いRだが、こうして女も男も本を読んでいるのに、「あのころのように読書したい」とは思わなかった。

 甘い香りがする。

「香水でもつけてみる?」

「いや、いいよ」

 女はきっと、気をつかっているのだろう。

 申し訳ない気持ちになった。この部屋は、流れている音楽を除いて、Rには居心地が悪かった。Rが気落ちしているのを見て、女は励まそうとしているのだろう。でも、なんのために?

「やめてよ」

 女から顔をそむけて窓を覗くと、山が見えた。これまでは山脈から切り取った山しか見ることができなかったが、読書をやめてずっと窓を見ていると、やがて景色の流れは止まった。家屋が見えた。田畑の中に建っている。玄関から老人と思われる人が出てきて、こちらに向かって歩いている。老人の歩く道は山のふもとまで繋がっていて、そこには鳥居がある。今日は曇り空だ。景色が流れていく。老人がちいさくなっていく。あるところで、老人は人間のように見えなくなった。でも、この界隈に広がっている山は、鳥居のある位置が変わっただけで、それ以外はなにも変化していない。本を読みはじめた。

「あのさ、コーヒーってそんなにおいしい?」

「そんなにのんでおいて言うなよ」

「時々思うんだよ。他ののみものとか、食べ物とかはおいしさがわかりやすいのに、コーヒーだけは、おいしいのに、おいしさがわからないというか、伝えられない」

「別に、好きでのみたいんだったらそれでいいじゃないか」

「そうなんだけど」

「のめばいいんだよ」

 テーマが戻ってくる。スタンダード・ナンバーのテーマだ。

「ねえ、この曲は好き?」

「まあね。でも次の曲の方が好きだよ」

「渋いね」

 女は微笑んだ。テーブルにコーヒーとハーブティーを置いた。ジャズじみた音楽が流れているが、これはジャズではない。男はソファーに手を置き、やや身体をのけ反らせている。シーリングファンが回っている。退屈だったのだ。流れている音楽に対しても、男が考えられる限り、全てのことが退屈だった。暗闇の中で考えていた。この退屈とは? 男はその答えが出せなかった。昼の景色が、まるで遠いむかしの思い出のように感じてしまう。ハーブティーをのんだ。男はため息をついた。さっきの暗闇ではない、そろそろ目が慣れてきそうな場所に浮かび上がった輪郭のそれぞれが懐かしい。空想だと思った。男は、四方が閉じられている場所、つまり自分がいまいる場所とほとんど同じところで、違う光彩を見ている。物音は聞こえず、音楽も、心音も、あらゆるの音が男の耳には届かなかった。男は右腕を上げた。これからなにかがはじまるのだろう。それは、知らないことなのだろう。浮かび上がってきたカーテンのような襞に視線を注ぐまでもなく、身体は落ちていった。風は感じない。ただ落ちていく感覚だけがあった。背中を組織している紐の一部がほころんだ。編まれていた紐は平面の織物になっていく。二つの目玉だけが織物から伸びていた。縫い目の荒い箇所からチューブが伸び、重さが偏っているせいで回転しながら落ちていく。チューブは織物に巻きついた。落下が終わった。目玉は運よく、なににも絡むことなかったようだ。織物から伸びる二つの目玉。それらが映すのはまたしてもあの暗闇だった。輪郭もつかめず、自分とその他の連関は、男の身体がしっかりと縫われていたときと比べ、格段に希薄なものとなっている。男はずっとそこにいた。身動きさえも取れなかった。それに、男は退屈ではなかった。「身体の感覚」というものが、閾値を遥かに下回る微少刺激に終始するのは、輪郭のつかめない暗闇の中でさえも、男にとっては喜びに他ならない。宙ぶらりんの男のまわりでは、黄色の車が走っていた。男には見えなかったが、その黄色の車は海岸に向かっている。

「ところで、なんで海に?」

「なんとなく。なんとなくいきたくなるでしょう?」

「ふうん」

「あやしい? 狙ってないから」

「別に」

「あのさ」

「なに?」

「味がなくなった、ナポリタン・ソースって食べたことある?」

「なにそれ。ないよ」

「もにょってしてるの。もにょって、してるだけなの。すごいおもしろくってさ」

 男は助手席に小さく座っている。

「でも、どうしたらそんなのができるの? まさか味がないソースを作ろうと考えてたわけではないでしょう?」

「このまえ、ナポリタンを食べてたの。それで、使ってたフォークの、持ち手と四本の指のあいだにちょうどソースが残っちゃってて、そんなこと知らずに、そのフォークでコーンポタージュをかき混ぜたり、まあ、使いまわしてたのね。それで、そろそろ洗わなきゃって思って、そのフォークを見たら、ソースが残ってたの。なんでかよくわからないけど、わからないけどね、舐めてみたの。それを。全然。もう全然、味しなくって、おもしろかったの」

 窓から見える風景は、変わり映えのしないものだった。行くあてもわからないのに、女性に運転してもらっているなんて、変な気持ちだった。「免許持ってるのに運転してくれないの?」と言われたことが残っていて、できるだけ彼女を助手席に乗せて運転していた日々だったが、それのどこかには抵抗があったことを覚えている。

 こうして自分を助手席に乗せ、ゆらゆら揺れる車内で自分の好きな音楽を流しながら運転する彼女。なにを思っているのだろう。考えることもできない。ただ運ばれていくだけ。車の窓に頭をつけた。

 だだっ広いだけでなにもない。雲間から夕陽ゆうひが見えた。真ん中だけ盛り上がっている雲だ。でも雲はその真ん中で区切れていて、右側の雲は左側の雲の後ろに入り込んでいる。左側の雲の後ろから伸びる右側の雲は、くすんだ青の姿。そこまで観察してから目を閉じた。夕陽は眩しく、直視できない。それから頭を気持ち傾ける。

「眠いの?」

「それなりに」

「寝ていいよ」

 平たく縦に積まれた本の山。その中から一冊を抜き出すと、たちまち本の山は崩れた。後ろでRが寝返りをうつ。抜き出した本を四十ページまで読んだ。

 栞を挟み、再び横になった。

 琥珀色の本を見るともなく見ている。哲学書だ。さっきまで読んでいた本は小説で、まだ新品のように綺麗なままだった。四十ページまで読んだのに、なに一つ覚えていない。

 雨は止んだ様子だった。

 夜の静かな光が見えた。耳をますと、Rの寝息が聞こえた。「もう寝てしまおう」と思った。でも眠気はなく、Rが横たわるベッドに行くのも億劫だ。四十ページまで読んだ本をまた開いた。並んでいる文字たちが、ページの中を泳ぎだした。文字たちは、そのページから他の本へ流れ込んだ。流れ込んだ先の本を開いた。白紙だった。さらに他の本を手当たり次第に開いてみたが、全てのページが白紙だった。

 散らばった本をかき集めて、もう一回本を積み上げたところで、この本たちのページには、文字がない。

 自分の傍に置いた本を手に取り、六十七ページまで読んだ。そろそろ朝陽あさひが見えてくるころだ。

 テーブルの上から、けたたましい声が聞こえる。とっさに身体を起こした。カーテンから漏れた光を浴びる文字が見えた。文字は笑いながら、六十七ページまで読んだ本に滑り込んだ。本を開いた。全てのページから文字がなくなっていた。ベッドで眠っているRが見えた。

「起きて」

 Rの身体に手を置いた。朝陽のおかげで、Rの身体をはっきりと見ることができた。

いくら揺さぶっても起きない。「朝だよ」と声をかけてみたが、体勢を少しかえただけだった。眠気はまだやってこなかった。横になっても目はえる一方で、目を閉じても穏やかな光が邪魔に感じるだけだった。テーブルの上にあるコーヒーに手を伸ばして、さっきまで読んでいた本を開いた。文字がない。

「文字はなくなった」

 やさぐれた人間の声が聞こえた。三人は彼の言葉の意味がわからなかった。

「さっき帰っちゃった子がいるけど、彼女はきっと、もう文字を読む必要がないんだろうね。幸福なことだよ」

「でもおじさん、それってどういうこと?」とKは言った。Kは身を乗り出して彼に話しかけている。彼の話が気になっているのではない。彼が話しかけてきたことに不服だったのだ。Kの隣に座る女は、男のことを見ていた。男は座っている。

「言った通り、文字はなくなったんだ」

「そのことじゃなくて、文字を読まなくていいことが幸福ってどういうことですか? というか、おじさんが言った通り、文字がなくなっているのなら、どう、人間はどう生活すればいいんですかね? この通り、メニュー表にもちゃんと文字がありますよ」

「小僧。もういい。ねえお嬢ちゃん、どうだい」

 脂でべとついている髪を耳にかけて、やさぐれた人間は女を見た。

「どこかで見たことがある顔」

「そう」

「親戚とかなのかもしれない」

「君にも親戚がいるんだね」

「いるよ。近くにはおばあちゃんしかいないけど、たまに帰ってくるお姉ちゃんがいる」

「あとは?」

「ちいさいころに会った記憶はあるけど、あんまり覚えてない。あの人はたぶん死んでるんだ」

「どういうこと?」

「死んだ人が歩いてるの」

 少女に導かれるまま、森の奥の方まで歩いた。手は小さく、かなり冷たい。なにもわからないままでいたし、少女の言動から、さらにわからなくなってきた。

 どうして少女が傷口を舐めると傷が治るんだろう? どうして死んだ人が歩いてるんだ? 少女が「死んだ人」と言った、親戚かもしれない人は、ゾンビのようには見えなかった。それどころか、猟師の恰好をしていて、ある程度人が通れる道であるとはいえ、落ち葉と枝が広がる湿った地面を、まるで生きているようにしっかりと歩いて行った。

 まるで生きているように? それは違う。彼はちゃんと生きている。ちゃんと呼吸もしていた。「死んでるのよ。知ってるもの」と少女が歩きながら言う。

「でもどうして?」

「知ってるのだもの」

 少女はそれ以上なにも言わなかった。ただ手を引いてどこかに連れて行こうとしているだけ。森の中は静かだった。かまいたちのような落ち葉の流れを生み出した風は、もう吹かなかった。黒々とした空に、木々の枝が伸びている。

 あるところで少女は足を止めた。少女と出会ったところよりもひらけた場所だった。落ち葉や枝の類いは、この場所を囲む木の下にまとめられている。地面は土がむき出しで、これまで歩いてきた道のような湿り気はなく、乾いていた。中央には丸太が二つ置いてある。

「これを見て」

 少女の指の先は二本の丸太の間に向けられ、顔をそちらに向けると、少女は腕を引っ込めた。

 そこは、どうということもなく、焚き火をしていたような跡が見えた。

 ちゃんと消火され、灰になった枝や紙が微風を受けて、その姿を消していったり、また留まり続けている。これが一体なにを意味するのだろうか。わからない。聞いてみたところで、納得のいく答えは与えられないと思う。わからないことだらけだ。頭をかきむしって「どういうこと」と大きや声を放っても、決して悪いことではないはずだ。それでも「灰だね」と目の前の光景と同じような事実だけを口にし、その言葉に些細な棘があることに気づかなかったRには、次に男が嫌そうな口ぶりで「そうだけど?」と言う意味がわからなかった。「煙草がやめられないのではなくて、煙草がないと生活が全くおもしろみのないものになってしまう」。

 そう男が言ったところで、Rは男の言いたいことに気がつき「そんな回りくどく言わなくてもいいのに」と悲しみながら訴えた。男にしてみれば「回りくどく言った覚えはなくて、自分の言葉には、自分がその時考えていることが反映されてしまうだけ」と女の表情を目の当たりにして思ったのだが、久しぶりに会うということで滅多にしない化粧をし、香水までつけてきたRが男に近づいて「孤独って知ってる?」と言ったことには、かなり困惑した。

「孤独?」

「そう」

「孤独なのかもしれないと思ったことはあるよ」

「違う。それじゃなくて、本物の孤独。否定、消極、厭世、虚無の全てを表す孤独」

「わからない」

「じゃあ、知らないってこと」

「たぶん」

「もういいよ」

 男の手首を力なく握ってから、Rは扉に向かって歩きだした。

「ちょっと待って、どういうこと」

「考えて」

 とRは言い、台所にあったRのマグカップを床に叩きつけた。マグカップは割れた。

「やめてよ」

「そういうところが嫌いなの」と女はKに向かって叫んだ。「帰って」もう終わりなのかもしれない。二人はそれぞれの温もりに飽き、疲れ果ててしまった。見切りをつけて、抜け出そうとしている。そういうこともあるだろう。

 やがて鳥たちが鳴く。夜が明けたのだろう。腕からチューブが伸びていることは、昨日と変わりなかった。部屋全体が活気づいていることが、どうも落ち着かない。眠い。カーテンの向こうから話し声が聞こえる。あれほど眠られない夜を過ごしたのに、いざ起きると眠気が後を引いて現れる。チューブを気にしてしまうせいで、寝返りをうつのも精一杯。布団を頭までかぶって、眠ろうとした。声が聞こえてくる。うるさい。他人の病気なんてどうでもいい。隣の人間は「十二指腸がどうたら」となにかのタイミングで話しかけてきたが、それにも適当に答えた。きっと不思議に思っただろう。自分の病名すら覚えていない。面会にやってくる人もいなければ、携帯電話も本も持ち合わせていないし、常備されている漫画本を読む気力さえもない。眠ること。ただそれだけが楽しみのように感じていた。身体がばらばらにほどけて、ぬるま湯の流れに任せること。暗い。「せめて音楽があればいいのに」と考えた。

 なに一つ思い出せない。歌は嫌いだった。ピアノの音色が聞こえてくればいい。なにも楽しいことなんてない。頭がかゆい。布団の中に頭を埋めてから、ずっと頭がかゆい。

 尿意を感じて身体を起こした。

 入浴は未だ許可されていない。自分の体臭すらもわかるくらいに脂がついている。カーテンを開いた。右前方に面会客と思われる女が真剣そうな顔をして、カーテンの中の人間と話をしていた。その隣で看護師がつまらなさそうに、この場から出るタイミングを見計らいながら、地面につま先を当てて、足をくるくる回している。その傍を通らなければいけないことが苦痛に感じた。看護師の後ろまでくると、ふと看護師は振り返った。わざとらしい動きだ。看護師は、

「点滴、少なくなってる。あとで取り替えますね」と言い、足早に病室をあとにした。

 点滴のおかげか、尿とともに空気が出てくることがある。医師から説明されていたことだった。

 そろそろ裸になるのも寒い。秋を過ぎて、外ではもう雪がちらついている。部屋の中には張り詰めたような空気が漂っていて、その要素の一つ一つが肌を刺激した。

「よくそんなにコーヒーのむね」

「好きなんだ」

「眠れなくなったりしない?」

「しないなあ。カフェインで眠くならないってことがないのかもしれない」

 女はうつむきがちに返事をした。

「人間がどうとか、もういいだろう。生きて死ぬのみだ。生きている間なんて、どれだけ長かろうが、どれだけ短かろうが同じものだよ」

「ふうん」

 Kは座った。

「そう思わないかい?」

「思いませんね」

 会話の合間に注文の品が差し出される。

「どこをどれだけ回っても、地球から出たとしても、見ることができるんだ。もしそんな人がいて、たとえ老人だったとしても会話はできる。同じさ」

「ふうん」

 Kはやさぐれた人間の話に退屈していた。

「でも僕とあなたは違うようですが?」

「抽象的な話はこりごりなんだ。もう文字はないって言ったじゃないか。どんな偉大な発見がこの会話から生まれたところで、それがフランシス・ベーコンどまりなのはわかっているだろう」

「もういいです。行こう」

 Kは女の手を取った。眠ろうとした。女は小説をもって、躓きそうになりながら、Kの後ろを歩いていく。ひとけはなく、湾曲した突堤で鳥たちが戯れ、身体を寄せ合っている。二人のところまで、鳥たちの鳴き声が聞こえた。あの喫茶店から出て、外で煙草を吸おうと考えていた。こんなに寒いというのに。Kはとにかく女と二人になりたかったのだ。きっと女はわかってくれるだろう。いささか乱暴に連れ出したのは、このためだった。あたりは「しん」と静まり、通ってきた道も、ここから見ると閉ざされているように感じる。亡霊たちがそこに浮かび上がった。琥珀色の瞳をして、宴会のようにせわしなく動き回っているが、それらは全く音を立てず、レコード・ディスクも回っているだけで、烏が鳴く声以外に聞こえてくるものはなにもない。やさぐれた人間が出ていった二人を見た。「まあ、いいだろう」と、なにかを諦めた様子で言っている。「ここまで言ってきたことのほとんどは嘘だ。こうして残っているお前にはわかるだろう?」彼は天井を見上げて男に言った。男は「わかるよ」とだけ言った。窓が開いている喫茶店からは、やさぐれた人間の怒鳴り声は聞こえなくなっていた。男は彼に「でも、あなたは詩人なんでしょう?」と言った。やさぐれた人間は男の決然たるまなざしを前にして、たじろいだ。二人の間に沈黙が横たわっていた。やさぐれた人間はビールを流し込もうとしたが、勢い余って口からこぼれてしまい、しずくが頬を伝い、首を流れ、服の中に落ちていった。雫の軌跡は自分と関わりを持っている。関係している。垢だらけの身体をもって安心していた。「なにもかもを捨ててしまった自分に残されている言葉たちも、いつか消えてしまうのだろう」。わかっていた。彼はその、具体的な記号が気に食わなかった。偶然の文字たちは、彼から離れ、森の中へ帰っていく。石に刻まれた文字たち。言葉の流れ。どうしてここに連れてこられたのか。エンジンを切り「ここにきたかったの」と言い、扉を閉めた。Rはコートを抱いて、ポケットから煙草のパックを取り出した。

「一本いる?」

「じゃあ、もらおうか」

 先端に火をつけ、吸った。

「ここ、本当ならくる予定はなかったんだ」

「ここにきたかったんじゃないの?」

「違うよ。ねえ見て」

 右腕を欄干の方に向けた。そこからは街の風景が見えた。陽が落ちかかるころであり「ぽつりぽつり」と明かりが見えた。扇型に広がる風景が綺麗だった。

「素敵でしょ?」

「素敵だね。綺麗だ」

「この場所が好きなんだ。ねえ、コーヒーでものむ?」

「のむ。でもいまは、なんとなくジュースがいいな。カルピスがいい」

「めずらしいね」

「コーヒーじゃ、味気なさすぎる。ねえ、どうしてここにきたの?」

 男は振り返ってRを見た。Rは缶コーヒーとペットボトルのカルピスを持っていた。コートは車に置いてきたようだった。「なんかね、この山がよく気になって、きちゃうんだ。景色は綺麗だし、予約してたホテルも近いから、いいかなって」と言いながらペットボトルを男に渡したRは、よれよれのパックからもう一本煙草を取り出して、火をつけた。男はもう吸い終わっていた。

「なんとなく、なんだけどね」

 揺さぶってRを起こそうとしていた男が、眠れないまま横になっている。

「この山には墓場があるんだ」

「親戚の人の墓があったり? むかしきたことがあったとか」

「違う違う。この場所を見つけたときに、森の中で迷子になっちゃって、その時に歩いてたら見つけたの」

「へえ」

「知らない人たちの墓を知らない場所で見るのって、不思議な気持ちになるんだ。行ってみる?」

「女の子から墓場に誘われるなんて。でもいいよ。行ってみよう。チェックインまでまだ時間はあるだろうし、迷子になってもそれはそれで楽しそうだ」

「迷子にはならないよ。道は覚えてるもん。それに墓場だから、ちゃんと迷子にならないように道が作られてる」

 Rの言うことは確かだったし、欄干のあるところから少し歩くと、そこは墓場だった。森の中にある墓場だったが、男は不思議と恐れや不気味さを感じず、Rと一緒にいることが一層幸福なことに思えた。Rは、ことあるごとに「死んでやる」と言う人だったし、こうして墓場に誘われるのも、おかしなことではない。Rは男の手を放し、枝箒が置いてある倉庫まで歩いていった。そこで「わたしはここで死んだの」と言った。続けて「墓場で死ぬなんて、おもしろいことだと思わない?」と言った。顔にかげりが見えたが、少女は微笑んで「ここで焚き火をしよう」と提案した。

「死んでから、この倉庫に地下室を作ったの。いろんな本が置いてあるんだ」

「全部読んだ本?」

「ううん。全部なにも書いてないの。全部のページが白紙なんだ。もしかしたら、わたしは死んじゃったから、そう見えるだけかもしれない」

 少女は倉庫に入って、本を一冊取り出してきた。

「ねえ、読んでみて」

 なにもかいていなかった。

「ね、かいてないでしょ? もう、燃やしちゃおうと思って。それにあなた、寒そうにしてるから」

 本が燃えている。燃えつきた灰が少女の頬に張りついた。頬を拭おうとして少女に近づく。

「あっ」

 火の粉が右肘に飛んできた。熱い。少女は「くすくす」と笑って、頬をなでた。本をもう一冊炎の中へ投げる。少女はなにを思っているのだろう?

 少女は足をばたばたさせている。そのつま先は炎に触れていた。

少女は痛がらず、微笑みながらこちらを見ている。「そのシャツ、高そうだね」と言った。

「落ち葉に炎に、ついてないね」

「でも、かして」

 少女は腕を取って、火の粉がついたところを舐めた。

「痛くない。痛みがなくなった」

 少女は苦そうな顔をしたが「よかった」と言って、また足を炎に触れさせた。「熱さなんて忘れちゃった」。少女は次々に本を燃やしていった。炎は燃える本の数に従って大きくなり、皮膚がひりひりと傷んだ。

 木々は二人を囲んでいる。

 きっといまも、木たちは伸びているのだろう。少しの風を感知して、枝に繁らせた葉を鳴らす。「この森から出ることはできない」そう思った。この少女と同じく、やがてこの炎の熱さは感じなくなるのだろう。痛みも感じなくなり、死んでしまったことになるのかもしれない。

 ある大きな本を炎の中に入れた。「ぼうっ」と炎が音を立てて、本が燃えていく。炎は深夜の宮殿内で灯る燭台のようにかぼそく光っている。そうして彷徨う女はレッド・カーペットを慣れない足取りで歩いた。レスト・ルームへと向かっている。宮殿に展示されている数々の甲冑や絵画。女はそれらを眺めることなく、宮殿のなかを進んでいった。白い壁紙にところ狭しと飾られているものも、女にとって、特別なものとは思えなかった。飾られてしまったものから受ける感慨。開いている扉から妙な香りが漂ってきた。

「夜は暗いけれど、この宮殿の中よりは暗くない」と女は思った。

 そうなのだ、暗くない。でも女は恐れていた。恐れを紛らわすために、うつむきながら考え事をした。恐れは女の考え事に移し替えられた。

「ぐっすり」と眠ってしまった男は女と同じベッドに寝ている。「私はもうそこいない。でも彼は眠りをやめないのだろう」と考えた。男の眠りは深かった。女と戯れたあとに、全身の力が抜ける瞬間がある。男は言葉にならないことをつぶやき、そのまま眠ってしまうのだ。眠ってしまった男の呼吸がする。男はほとんど動かない。目を閉じた男は、そうして一日が終わる。暗い宮殿の中を歩く女は、目を閉じた男の一日からはみ出ている。

 明日はある人物との会合が控えている。そこで女がなにか特別な事をしなければならないわけではない。でも、彼らの皮相な会話を耳にしてしまうだろう。きっとその会話にうんざりしてしまうだろう。女はそれを呪いたい気持ちになった。宮殿に彼がやってくる日が近づくにつれて、そうした思いは大きくなった。その思いは、こうして宮殿内をひとつの燭台の灯りを頼りに彷徨っている間に生まれた恐れと、どこか似ているような気がする。

 ここで見えるもの。燭台の仄かな灯りで光る、傷一つないの甲冑のサビや、画家によって極度に歪められた現実の形骸、朱色のカーペット、この宮殿の暗さ、これらの全てに女は恐れの気持ちを移した。女は暗闇の中にいた。燭台を手にしながら尿意を我慢する人間。まるで、もがいているかのようだった。恐れを、別のものに移している間、一歩も動いていなかったのだ。女は、身体が大きくなったような気がした。さらに女はあることに気づいた。

 再び歩き出した。見えるものの中を揺蕩たゆたうように歩みを進める。男は私の残り香に包まれて眠っている。「私は歩く、歩くために歩いている」。

 レスト・ルームまで、きた。女はレスト・ルームを通り過ぎ、角を左に曲がった。右手には螺旋階段が見えた。螺旋階段からも、階下からも展望できる大きな絵画を、螺旋階段の手すりに立って眺めた。巨大な絵だ。ただの風景画。ただの絵の具の集まりでもある。北欧の田園風景がえがかれている。なだらかな丘陵きゅうりょうに立ち潜む断崖がえがかれる後景に、羊飼いの少年と羊たちを前景。その二つが対比されている。この絵画には奇妙なところがあった。

 画家は北欧旅行を終えたあと家には帰らずに、そのまま中国の南西部、貴州省の中部に位置する安順市へと足を運んだ。彼から聞いた話だった。画家が見た二つの風景はこの絵に、同時に現れていた。北欧の田園風景がえがかれているというのに、中国風の掘っ建て小屋が見える。絵の具でえがかれているというのに、水墨画のような雰囲気がそこに現れている。

 女は恐怖した。

 玄関は「ひっそり」と閉ざされていた。玄関の上にはステンドグラスが張られている。ステンドグラスは、宮殿を取り囲む森の夜を宮殿の中へ通した。螺旋階段が階下に触れているその平面上には、絵の具が散らばっていた。螺旋階段の手すりを絵の具はよじ登っていき、女の後ろに回る。女は夜の光を浴びていた。大きな田園風景を見た。女はそのような台本の中で、螺旋階段の手すりに立ったまま放尿した。ネグリジェが尿で汚される。レッド・カーペットに尿が滴る。汚されたネグリジェが尿の重さによって女の脚にへばりついた。女はちいさなころに服を着たまま海に入ったことを思い出した。

 突然入ってしまった海の中で、女はもがき苦しんだ。海から出ようと、じたばたした。そのせいで、さらに海の底へ降りていった。藻が揺れて砂や塵のようなものが見えなくなってくると、女は身体を動かすことをやめた。自然にそれをやめていた。海の深くに落ちていく。陽光ようこうが届かないところまで沈んでいった。そこは自由だった。全てのものから自由だった。呼吸する必要がなかった。体育座りをして前転と後転を繰り返した。子供のように遊んでいた。気づけば母親が心配そうな顔をしている姿が目に飛び込んできた。「取り返しのつかないことをしてしまったんだ」。そう思った。そのこと感じて放尿をした。カーペットの上をひたひた歩き、放尿を我慢していたおかげで、長い時間、尿を出していた。女の顔にはさまざまな表情が同時に現れていた。まるで顔のパーツがなくなっているようだった。

 放尿を終えた女は、尿で濡れた螺旋階段の手すりで足を滑らせ、真っ逆さまに落ちていった。女はその流れを待ち望んでいた。思い通りに事が運んだことを喜んだ。流れていく時間の中で、次第に絵画がフェード・アウトしていく。手すりの支柱が見えた。次の瞬間には消えていった。目を閉じた。深い海の底へ沈んでいく。水の中へ沈んでいく。この奥へ沈んでいく。降りていく。

「ぼうっ」と炎が鳴り、女は消えていった。女の恐れも、炎の中に消えていった。女の灰は大気を彷徨さまよった。

 少女はそれを吸い込み、吐き出した。

「ねえ」

「どうしたの?」

「君って、どうして死んじゃったの?」

 少女は神妙な顔つきになった。

 烏が低い鳴き声を上げた。

「ざわざわ」と木々が鳴り、烏の大群が空を飛んでいく。

 少女は人差し指の付け根を上唇の裏に当てた。

「わかんない」

「でも、ここで死んだことは覚えてるんだね」

「死んだのかなあ。それもわかんない」

 あたりは静かになった。針は上げられ、アームが水平に動いた。音楽が終わった。音楽の全てが消えていった。

「新しいの、かけてよ」

 マスターはレコードの棚に立って「ジャズがいいですか?」と、やさぐれた人間に向かって言った。やさぐれた人間はビールをのみほした。

「ピアノ・トリオがいいね。しっとりしたやつがいい」

「ピアノ・ソロは?」

「それもいいね」

「このあいだ、クラシック音楽を調べていたんですが、とてもジャズみたいな曲をかく作曲家をみつけたんですよ」

「ほう」

ウクライナの作曲家で」

キリル文字かあ」

「魅力的ですよね」

キリル文字が踊るジャズって、想像しただけで素敵だね」

「でも、文字はもうないんじゃ?」

「あれは一種の実験だよ」

「そうだったんですか」

「なくならないよ。どれだけ忌まわしくても、文字は消えないね。文字から生まれるものも消えない」

「われわれも?」

「そうさ」

「表裏一体ですね」

「まったくその通り」と、やさぐれた人間は、ジャズのようでどこか構造的な、はじめて聴く音楽に浸っていた。「ジャズも構造的だろう?」「まったくその通り」。煙草を咥え、火をつけた。マスターはやさぐれた人間にコーヒーを出し「どうですか?」と言い、微笑んだ。頭をかいた。やさぐれた人間は「いい詩がかけそうだ」とつぶやいた。煙草をひとくちふかした。

自己分析・恋愛・音楽

◆自己分析

自己分析をすることがもはや趣味ですと胸を張っていいのかもしれない。
 
気がつくと自分のことを考えていて、その最中には、自分のことを考えているわけではなかったという声が繰り返し聞こえてくる。
特別にそれがいいわけだということじゃない。
自分のことを考えるとき、多くは既に起こったことについて考えているだけで、その自分は他人だということだ。「なんであんなことしたんだろう」は、私ではない。
 
難しいことではないと思う、哲学なんて毒を啜る前から考えていることだった。
その意味では自己分析ではない。
よくわからないけどとても近い他人のむかし話を解釈することが大好きなだけだ。
 
どうしてそんなに、彼は近いんだろう?
 
そんな問いもおもしろいと思う。でも、既に逆説のねじれが起こった土台があっての問いだから、なんとなく答えは出るのかもしれない。
答えが出ることが問題なんだと思う。
さらに言うと、その言葉〈言葉たち〉が問題なんだと思っている。
 
その言葉は、問いに対する一つだけの正解で、〈言葉たち〉は、問いに対する複数の声だ。
その言葉は、教科書教育みたいなものだし、〈言葉たち〉も教科書教育の応用みたいなものだろう。
 
でも、この二つは、どうしてそれ(ら)がで「る」かという点が重要だと感じる。
その言葉はいいだろう。問題はもう一つだ。
 
〈言葉たち〉は、の声なんだろう?
 
このは、名前と体で理解されるものではない。(音楽を例にとってあとで説明する)
 
は、どんな生を過ごしてきたのだろう?
は、誰が(どのようなかたちをとって)所有しているのだろう?
 
こんな問いは、無意味かもしれない。
そもそも、何を言っているのか、さっぱりわからないかもしれない。
でも、自分が追われてきたこの問いを表すには、この言葉しか、いまのところは見つからない。
 
この問いは、答えられると思う。いろんな視点から、簡単に答えられるものだ。
見失ってはいけない。この問いは、そもそも「答えられない」問いだということ。
スタンド攻撃みたいに、この問いに答えたものは死んでしまうのだ。
そして、これまで書いてきたことは自己分析だった。
 
 

◆恋愛

恋愛はまずありえないとしか言えない。
平坦な言葉で表したいから、凡庸な意味で捉えられてしまうかもしれないけど、頑張る。
 
こんな話題は卑怯すぎて実体験を語るしかないのだけど、遡るとそれははじめて東京に行った時の感想で終始している。
たぶんはじめて東京に行ったのは幼稚園の時だろうけど、言葉とテレビのイメージでしか東京を知らなかった自分にとって、その天空の城のような場所に訪れてまずはじめに感じたことといえば、失望だったとしか言うことができない。
 
人間がごった返していて、ここの女はみな娼婦だ、というような考えなんて浮かばなくても、自分が育ってきた場所と、この場所が繋がっているということが、ありえなかった。
よく覚えているのだが自分はそこで「東京は住む場所ではなくて、遊びに来るみたいなかんじにした方がいいと思う」と言っていた。
 
けだしこれは親の田舎信仰のような言説を真に受けた言葉だった。自分はずっとそれをしてきたことを踏まえると、そう解釈することも不自然ではない。
なら「ここよりもずっとうちの方がいいね」とどうして言わなかったのだろう。
東京で出来る遊びが楽しいと思った記憶はない。
この言葉は既に、自分の環境外からの意見だったと言える。
 
恋愛に対する態度は、触れてはいけないものは触れなければいつまでも美しいのに、という芸術家の教訓じみた童話に終始しているのかもしれない。
でも、童話がそこに「正解」を設けている以上、相容れないことは確かだ。
 
中心がない吸引力が恋なんだと思う。なにかに恋をしているとしても、それは一体なんなんだろうか。いくらそれにまつわる言葉やイメージを挙げたところで、それはドジョウのように手元から逃れていく。
その体験をゆるやかに継続させていくことが恋愛なんだと言える。
だが、いつまでたってもあのドジョウは消えない!
あのドジョウが幾数の変化を経ていることにすら気づかないのにも関わらず。恋愛はいつでもありえない。同様に、生きることもありえないと言えるだろう。
 
 

◆音楽

問いに対する〈言葉たち〉が、あらゆる問いを無視して、熱狂の最中で自分を失わせることが、音楽の始原であり、現在まで続く音楽の姿だと思っている。
この定義は、リズムもメロディーもない音楽に対しては無効かもしれないが、リズムもメロディーもある音楽で至った「感動」と、そうでない音楽で至った「感動」、程度なんてありえないとすると、やはり同じ感動だろう。
 
偏狭な趣味嗜好から、音楽は孤独であるときにしか聴こえてこない、とか言いたい。
これはもちろん違う。でも言葉の方向としては、そんなに間違っていないことのようにも思える。
 
たとえば、自分はライブに行かないほうがいいと少しだけ思っている節がある。
恋愛の項で書いたように、失望(まあつまり、コレジャナイ感)が待っているだろうからだ。
 
ライブに行くというのは、いろんな芸術を体験する場所において、もっとも規則的で、教科書的で、独善的なことだと思う。
これは否定的なことではない。嫌味だと捉えてくれても結構だが、規則的で、教科書で、独善的な要素が全くない人間は、人間とはいえないからだ。
 
ライブは、「素朴なただ一回限り」を武器にした、「感動」をいやらしく誘うものだ。
24時間テレビのお涙頂戴ノンフィクションドラマで、必ず「感動」が用意されている事態と同じくらい、「感動」のほくそ笑みが見えてしまう。
 
自分の言っていることは、スタジオ録音版演奏とライブ演奏に差がありすぎる、ということではない。
芸術全般に言えるのだが、知っていた作品が、いつのまにか作者を上回っていて、しかも作者はある規則に基づいて「感動」のピースを完成させる一欠片にさせられている(そうなってしまう)ことが、惨く、この上なく悲しい事態だ。
音楽は、その人によって奏でられる。画家や作家以上に作品との距離は密接であり、そのぶん、彼が出した作品からネジが外れていくのも早い。
もはや壊れかかった何かとして、ライブは存在する。
 
自分はそれを見たい気持ちには、ならない。
最後の結論だけのものなら見たいだろうが、この逆説を経て、水を頭からぶっかけられたような気持ちになると、あらゆる気力が失せてしまう。
 
これが「正解」、その言葉であるわけではない。
 
ここは重要で、作者がいうことが「本当」であり「真実」であることなんてない。
文芸に嗜むオタクはここで何かを察知したようだが、それも違う。
作品が作者を離れている状況は、「なんであんなことしたんだろう」が私ではないように、あるものなのだ。
この天秤が面白い。
 
言い換えると、音楽を通して何かを伝えたいミュージシャンは、その「何か」に病的に取り憑かれている。でもリスナーは「何か」に取り憑かれていない(同じように思えても、同じではない)のだから、その二つを楽しむこと。それは愉快じゃないか。ということだ。