happycat/永遠性

創作物置き場 小説や詩が置いてあるよ

曖昧な流れ

ニコライ・カプースチン『24の前奏曲』より「第八番 嬰ヘ短調」に乗せて 

 

 せわしなく自動車が走るそばを、紺色のリュックを背負った男が、自転車で通り過ぎる。

 六時ころの家路を急ぐ自動車の群れ。男は道路の右側を滑走している。運転手の目線は男に向けられているが、ライトから自転車の姿が浮かび上がっても、運転手が捉えるのは過ぎていく影でしかない。

 小さな道路で、たくさんの自動車が通っている。向こう側からやってくる自転車を運転する人間。気持ち右側の塀に身体を寄せて、その人間を自動車と触れるぎりぎりのところを走らせる。

 運転手は、男を見る。既に男を通り過ぎた。男は走っていく。やがて影になる。

 家に着いて、男は玄関にあるごみたちに視線を落とした。手袋を取り、洗濯機の上に置く。男の動作はややぎこちなかった。なにか考え事をしていたのだ。さっきまでいた喫茶店で、男はある女と話していた。女は何度も「今日はこれから暇なんだ」と言い、男はそれに空返事をしてごまかしていた。女が不満そうな空気になると、男はコーヒーをのみ、女は小説を開いた。

 女は、言葉通りの意味しか伝えていなかった。男に対する好意も、望むこともなかった。勘違いして、わざとらしい返事をしている男が滑稽に思えて、女は繰り返しそう言っていたのだ。

 男にも、女にも交際している人間はいる。一緒に喫茶店に行ったのは、ただ男と話がしたかっただけなのに、男はどこか間違えていた。男は、これら全てをわかっていた。それどころか、女とのんだコーヒーの味も覚えていた。それでも、女への返事は芝居めいたものだったのだ。

「あの人がいないと寂しい」

 と言うのは、男の交際相手であるRなのだが、その言葉を聞いたのは女だった。この言葉は、女の部屋で反響しながら、シーリングファンの回転に巻き込まれて消えた。

「あなたが?」

「そう」

「でも、一緒にいるじゃない」

「いまはいないでしょう」

 テーブルに置かれた皿には、お菓子が乗っている。

 Rに出したハーブティーも、お菓子も、Rは手をつけていない。

 二人は無言になった。部屋では男に教えてもらったジャズが流れていた。いまはベース・ソロで、沈黙に拍車をかけた。

「いますぐ会いに行けば?」

 女は言った。

 部屋に入ってはじめにしたことと言えば、服を脱ぐことだった。考えごとは悩んでいることではなかったから、ずっと体内を循環することもなかったのだ。

 Rはただの友人で、特段おもうことはなにもない。男の趣味はわからないし、それより前からRと仲良くしていた身としても、Rはつまらない陰気な女性だという認識が変わることはなかった。「つまらない陰気な女性というのは、少し言い過ぎかもしれないが」と考えたところで、あの男とRの関係は変わるものではない。

 男はRを愛しているのだろうか? いや違う。男は愛しているのだろうか?

 ある日、Rと男は旅行に行った。そこは海沿いの、二人が住むところから電車で二十分程度の場所だった。

 女は海に対してなんの期待もしていなかったが、男に誘われるや否や、むかし嗅いだ磯の香りが懐かしく感じられた。「そこで日が沈むさまを見るのもいいものではないか」と思った。Rは男に旅行を誘われたというだけで喜んだ。

「結局どうだったの」

「喜んでた」

「じゃあ私は喜んでたと思う?」

「知らない。どうだったの? 海は」

「むかし読んだ小説を思いだしたよ」

「そう」

 森の中にいた。道は見えるが、ひとけはなさそうだった。いちばん近くの木に身体をあずけ、へたり込んでいる少女がいる。白いワンピースを着ていた。少し肌寒かったが、少女は鳥肌ひとつ立てないで、じっと空を仰いでいる。風が吹くと、さらに寒く感じた。木々がそよぎ、音を立てた。音の中で落ち葉が舞い、それがまとわりついてくるものだから、必死に落ち葉をかきわけた。それなのに、一向に落ち葉から抜け出せないでいた。乾燥した葉っぱたちが鋭い。半袖だったせいで、切れてしまった。血が出ているのだろう。傷だらけだ。痛い。

 白い腕に引かれて、歩いている。「ああっ、血が出てる。深いね」と言って、少女が傷口を舐めると、裂けていた部分が繋がった。物憂げな雰囲気の森。少女は「怖い?」と言うだけで、その他になにか教えてはくれなかった。ただ、どこかに連れて行こうとしている。

 女の交際相手であるKが、女が淹れてくれたコーヒーをひとくちすする。その音がやけに大きく、女は不快な気持ちになった。夕暮れの時だった。大きな窓から、橙色の明かりが差し込んでいた。楕円形のテーブルにはKの私物が並んでいる。哲学書、携帯電話にライターと煙草。どれも女が嫌いなものだ。

 哲学書といっても、女でも知っている哲学者の入門書の類で、その上には携帯電話が置かれている。コーヒーを四回すすったあとに、角が欠けているパックを右手で持ち、コーヒーカップを持っていた左手で煙草を一本取った。

 その動きを後ろから見ていた。なぜだろうか、とてもおもしろく感じた。部屋は生暖かい。Kの動作は、どれもけだるげに見えた。

 女は小説を置いておもむろに動き出し、Kの隣に座った。

「ねえ、一本ちょうだいよ」

「いいけど」目は女に向けられていなかった。「ちょっときついかもしれない」

「別にいいよ。ふかすだけ」

 煙草を口に咥えて、女は哲学書を手に取った。携帯電話がテーブルに当たった。

「やめてよ」

 ライターを差し出しながらそう言うKも、どこか滑稽に見えた。Kは女を訝しげにみつめていた。

「いいじゃない」

 片手で哲学書を持ち、もう片手で煙草に火をつける女を見た。慣れているかのように煙草をふかす女は「特に難しいこと、かいてないね」とKのコーヒーをひとくちのみ、「これだったら、私の読んでる本の方が難しい」。

「君が読んでるのは小説でしょ?」

 女はKにくっついて、哲学書を持つ手をKの股座に置いている。

「そうだけど」

「それじゃあ難しいよ。そっちのほうが」

 ふかした。煙は混じりあって、天井に消えていった。煙草を吸い終わってからしばらくして、Kは家を出ていった。女は「私はこの人と付き合うことになるかもしれない」と思った。

「この小説はおもしろいの」

「読んだことあるよ」

「そうなの? 本なんて読まないと思ってた」

「たまに読むんだ。変な本を」

「そうなの」女は小説を閉じて、カフェラテを少しのんだ。

 男と女は喫茶店を出た。外はすっかり暗くなっていて寒々しかった。

 Rの眠りは、呼吸していることを除けば、完全に孤独だった。心臓の音が聞こえた。規則正しくなく、早くなったり遅くなったりする心音を、Rはただ聞いていることしかできないまま、眠りについた。

 次の日は、とても憂鬱な気分で目を覚ました。孤独というものを言葉でしか知らなかったRは、唯一の楽しみである眠りから、あらゆるさみしさをかき集めたような、孤独というものを教えられたことに対して、どのような反応をすればいいのかわからなかった。

 あくまでも憂鬱な気分を抱いていただけであって、あの孤独さからは全く遠いところにいるような気がした。憂鬱な気分になることはよくあったし、いまの気分に問題があるようには思えなかったのだ。

 秋が深まってきて、公園には人の姿が見当たらず、風が一段と寒さを煽ってくる。

 憂鬱を払拭するために家を出てきたというのに、ところどころ剥げ落ちた遊具しか慰めになるものはなかった。空を覆う灰色の雲に交じって、煤のような色合いの雲が見えた。烏が数羽、電柱から飛びたって行った。Rは地面を蹴ってブランコで少し揺れてみた。

 家に帰ることにした。

「それにしても、あの孤独というのはなんだったのだろう」と玄関の鍵を閉めた途端に思い浮かんだ。

 家から公園までの距離はそれほど遠くないが、近くもない。Rはその道のりをひたすら歩くことに徹していて、なにも考えていなかった。憂鬱もどこかへ行っていた。Rは、そのことに対して憂鬱な気分になった。

 部屋は暗い。今日はあまり日が照っていないからというのもあるだろうが、部屋の雨戸を閉めっぱなしにしているから、ふつうの夜なんかよりもずっと暗い。

 ベッドの上にあるライトスタンドに、少し埃が見えた。Rは眠りたかった。あの孤独とは無関係に、ただひたすら眠っていたかった。

 Kと知り合い、できるだけ前向きに生きようと決めた日から、むかしに経験したように鮮明で、どこかぼやけている夢をはっきりと見るようになった。もうすっかり忘れていて、その夢たちの具体的な話はできない。

 覚えていることは、鮮明かつぼやけた夢を見続けていること、それがとてつもなくRを嫌な気分にさせたこと、これらだけだ。

 女と一緒にいる男を見たRは、男に対してなにを思ったのだろう?

「せっかくだから喫茶店にでも行こう」と男は言った。動揺している様子はなかった。

 海の香りがする喫茶店で、四人はやさぐれた人間に出会った。

 日中からビールをのみ、ばかでかい声で店員と話をしている。話し相手は彼の調子によってそれぞれ変わっていく。だから、彼の話をまともに聞いている店員はひとりもいなかった。

「すごい人だね」

 伸びっぱなしの髪が、脂で束になっている。四人はやさぐれた人間からいちばん遠い席に座った。彼のなんとも言えないにおいが、海の香りに混じって漂っている。

 客は彼と四人しかいなかった。四人の席に店員が水を出しにくる。

「あの人は常連の人なの。ごめんなさいね」

 と言って、あからさまに嫌そうな顔をした。

 男の提案で喫茶店にやってきたのだが、特に話すこともなかった。「誰かに向かって怒りをぶつけるようなことはない」と四人は思っていた。だから、話すこともなかったのだ。やさぐれた人間の声量が、いよいよ怒鳴り声のように響いている。Rが頬に張りついていた髪を払って、なにか話し出そうとしたとき、

「やあ、ごめんね」と、やさぐれた人間は四人に話しかけた。Kが彼に話しかけた。

 夜も更けてきた。秋が過ぎて、冬になろうとしている。煙草がうまい。「換気扇もない部屋で煙草を吸うのはどうなんだろう」と思っていた時期もあった。部屋の隅に置いてある絵も、すっかり煙草のにおいがついてしまった。絵の横には、これから読むだろう本が積まれている。「いちばん下から三冊までは文庫本で、それから二冊はハードカバー」というような加減だから、ものすごくバランスが悪い。隣の絵はただの風景絵だ。空は暗い。

 誰がかいたのだろう?

 鋏を持って自分と女が映っている写真を切ると、ふと思い出すことがあった。その恋愛とは全く関係のないことだ。恋愛関係を結び、そのさまを写真におさめ、恋愛関係が切れた日には必ず写真を切り刻んだ。データ化した写真は残してあるが、それは消していないだけだった。なにかの拍子で女との写真が画面に映ると、男は機械的に写真を消していた。写真を消す行為と同様に、思い出すことがあった。やはり、その恋愛とは全く関係のないことだったが。

 鋏をテーブルに置いて、男は長座布団に倒れ込んだ。天井で光るライトが眩しかった。

 インターフォンが鳴り「郵便です」の声が聞こえる。「なにも買っていないのに」とあやしんだ。でも、親かもしれない。

 小さな段ボールが届けられた。立方体の段ボール。いくら記憶を探っても身に覚えのない場所、名前から送られてきたものだった。開けてしまうか悩みながら、この段ボールを眺めてみた。切り刻んだ写真の上に段ボールを置いて、煙草に火をつけた。灰皿には十五本の吸い殻があった。鉄くずのようになっている灰もあれば、形を残しているものもある。部屋は寒く、空気は淀んでいるが、煙草のにおいはしない。テーブルの上に本があった。どれも知らない本だった。真ん中あたりの本を取った女を見て「これは小説なんだな」と思った。煙が消えていく。

「これ、読んだことある?」

「知らない」

「あなたが好きそうな本だと思ってて」

「そもそも、本なんて読まないから」

「そうなの。読書、好きなのかと思ってた」

「ちいさいころは読んでたよ。でも、そのときに読みつくしたような感じで、もう読まなくなったの」

「私は読まなかったよ。わからないけど、読んでなかったと思う。もう忘れちゃった」

 女は脚を組みなおし、カフェラテをのんだ。手に取った本をぱらぱらめくって「読んだ本なのに、どうしてまた買ったんだろう」と考えていた。

 目を覚ましてもまだ暗いままだ。眠りにつく前も暗かった。あまり眠れずに目を覚ましたのだろう。顔を動かしても、無機質なチューブと緑色の薄明かりが見えるだけだ。身体の中から「ちゃぷん」と波うつ音が聞こえた。他の人間は寝ている。こうやって夜に起きてしまうことは、よくあること。どうということはない。

 Rはお菓子を食べた。女の姿を見ながら、男を思い出していた。男も本を読んでいたはず。身近な人から影響を受けることが多いRだが、こうして女も男も本を読んでいるのに、「あのころのように読書したい」とは思わなかった。

 甘い香りがする。

「香水でもつけてみる?」

「いや、いいよ」

 女はきっと、気をつかっているのだろう。

 申し訳ない気持ちになった。この部屋は、流れている音楽を除いて、Rには居心地が悪かった。Rが気落ちしているのを見て、女は励まそうとしているのだろう。でも、なんのために?

「やめてよ」

 女から顔をそむけて窓を覗くと、山が見えた。これまでは山脈から切り取った山しか見ることができなかったが、読書をやめてずっと窓を見ていると、やがて景色の流れは止まった。家屋が見えた。田畑の中に建っている。玄関から老人と思われる人が出てきて、こちらに向かって歩いている。老人の歩く道は山のふもとまで繋がっていて、そこには鳥居がある。今日は曇り空だ。景色が流れていく。老人がちいさくなっていく。あるところで、老人は人間のように見えなくなった。でも、この界隈に広がっている山は、鳥居のある位置が変わっただけで、それ以外はなにも変化していない。本を読みはじめた。

「あのさ、コーヒーってそんなにおいしい?」

「そんなにのんでおいて言うなよ」

「時々思うんだよ。他ののみものとか、食べ物とかはおいしさがわかりやすいのに、コーヒーだけは、おいしいのに、おいしさがわからないというか、伝えられない」

「別に、好きでのみたいんだったらそれでいいじゃないか」

「そうなんだけど」

「のめばいいんだよ」

 テーマが戻ってくる。スタンダード・ナンバーのテーマだ。

「ねえ、この曲は好き?」

「まあね。でも次の曲の方が好きだよ」

「渋いね」

 女は微笑んだ。テーブルにコーヒーとハーブティーを置いた。ジャズじみた音楽が流れているが、これはジャズではない。男はソファーに手を置き、やや身体をのけ反らせている。シーリングファンが回っている。退屈だったのだ。流れている音楽に対しても、男が考えられる限り、全てのことが退屈だった。暗闇の中で考えていた。この退屈とは? 男はその答えが出せなかった。昼の景色が、まるで遠いむかしの思い出のように感じてしまう。ハーブティーをのんだ。男はため息をついた。さっきの暗闇ではない、そろそろ目が慣れてきそうな場所に浮かび上がった輪郭のそれぞれが懐かしい。空想だと思った。男は、四方が閉じられている場所、つまり自分がいまいる場所とほとんど同じところで、違う光彩を見ている。物音は聞こえず、音楽も、心音も、あらゆるの音が男の耳には届かなかった。男は右腕を上げた。これからなにかがはじまるのだろう。それは、知らないことなのだろう。浮かび上がってきたカーテンのような襞に視線を注ぐまでもなく、身体は落ちていった。風は感じない。ただ落ちていく感覚だけがあった。背中を組織している紐の一部がほころんだ。編まれていた紐は平面の織物になっていく。二つの目玉だけが織物から伸びていた。縫い目の荒い箇所からチューブが伸び、重さが偏っているせいで回転しながら落ちていく。チューブは織物に巻きついた。落下が終わった。目玉は運よく、なににも絡むことなかったようだ。織物から伸びる二つの目玉。それらが映すのはまたしてもあの暗闇だった。輪郭もつかめず、自分とその他の連関は、男の身体がしっかりと縫われていたときと比べ、格段に希薄なものとなっている。男はずっとそこにいた。身動きさえも取れなかった。それに、男は退屈ではなかった。「身体の感覚」というものが、閾値を遥かに下回る微少刺激に終始するのは、輪郭のつかめない暗闇の中でさえも、男にとっては喜びに他ならない。宙ぶらりんの男のまわりでは、黄色の車が走っていた。男には見えなかったが、その黄色の車は海岸に向かっている。

「ところで、なんで海に?」

「なんとなく。なんとなくいきたくなるでしょう?」

「ふうん」

「あやしい? 狙ってないから」

「別に」

「あのさ」

「なに?」

「味がなくなった、ナポリタン・ソースって食べたことある?」

「なにそれ。ないよ」

「もにょってしてるの。もにょって、してるだけなの。すごいおもしろくってさ」

 男は助手席に小さく座っている。

「でも、どうしたらそんなのができるの? まさか味がないソースを作ろうと考えてたわけではないでしょう?」

「このまえ、ナポリタンを食べてたの。それで、使ってたフォークの、持ち手と四本の指のあいだにちょうどソースが残っちゃってて、そんなこと知らずに、そのフォークでコーンポタージュをかき混ぜたり、まあ、使いまわしてたのね。それで、そろそろ洗わなきゃって思って、そのフォークを見たら、ソースが残ってたの。なんでかよくわからないけど、わからないけどね、舐めてみたの。それを。全然。もう全然、味しなくって、おもしろかったの」

 窓から見える風景は、変わり映えのしないものだった。行くあてもわからないのに、女性に運転してもらっているなんて、変な気持ちだった。「免許持ってるのに運転してくれないの?」と言われたことが残っていて、できるだけ彼女を助手席に乗せて運転していた日々だったが、それのどこかには抵抗があったことを覚えている。

 こうして自分を助手席に乗せ、ゆらゆら揺れる車内で自分の好きな音楽を流しながら運転する彼女。なにを思っているのだろう。考えることもできない。ただ運ばれていくだけ。車の窓に頭をつけた。

 だだっ広いだけでなにもない。雲間から夕陽ゆうひが見えた。真ん中だけ盛り上がっている雲だ。でも雲はその真ん中で区切れていて、右側の雲は左側の雲の後ろに入り込んでいる。左側の雲の後ろから伸びる右側の雲は、くすんだ青の姿。そこまで観察してから目を閉じた。夕陽は眩しく、直視できない。それから頭を気持ち傾ける。

「眠いの?」

「それなりに」

「寝ていいよ」

 平たく縦に積まれた本の山。その中から一冊を抜き出すと、たちまち本の山は崩れた。後ろでRが寝返りをうつ。抜き出した本を四十ページまで読んだ。

 栞を挟み、再び横になった。

 琥珀色の本を見るともなく見ている。哲学書だ。さっきまで読んでいた本は小説で、まだ新品のように綺麗なままだった。四十ページまで読んだのに、なに一つ覚えていない。

 雨は止んだ様子だった。

 夜の静かな光が見えた。耳をますと、Rの寝息が聞こえた。「もう寝てしまおう」と思った。でも眠気はなく、Rが横たわるベッドに行くのも億劫だ。四十ページまで読んだ本をまた開いた。並んでいる文字たちが、ページの中を泳ぎだした。文字たちは、そのページから他の本へ流れ込んだ。流れ込んだ先の本を開いた。白紙だった。さらに他の本を手当たり次第に開いてみたが、全てのページが白紙だった。

 散らばった本をかき集めて、もう一回本を積み上げたところで、この本たちのページには、文字がない。

 自分の傍に置いた本を手に取り、六十七ページまで読んだ。そろそろ朝陽あさひが見えてくるころだ。

 テーブルの上から、けたたましい声が聞こえる。とっさに身体を起こした。カーテンから漏れた光を浴びる文字が見えた。文字は笑いながら、六十七ページまで読んだ本に滑り込んだ。本を開いた。全てのページから文字がなくなっていた。ベッドで眠っているRが見えた。

「起きて」

 Rの身体に手を置いた。朝陽のおかげで、Rの身体をはっきりと見ることができた。

いくら揺さぶっても起きない。「朝だよ」と声をかけてみたが、体勢を少しかえただけだった。眠気はまだやってこなかった。横になっても目はえる一方で、目を閉じても穏やかな光が邪魔に感じるだけだった。テーブルの上にあるコーヒーに手を伸ばして、さっきまで読んでいた本を開いた。文字がない。

「文字はなくなった」

 やさぐれた人間の声が聞こえた。三人は彼の言葉の意味がわからなかった。

「さっき帰っちゃった子がいるけど、彼女はきっと、もう文字を読む必要がないんだろうね。幸福なことだよ」

「でもおじさん、それってどういうこと?」とKは言った。Kは身を乗り出して彼に話しかけている。彼の話が気になっているのではない。彼が話しかけてきたことに不服だったのだ。Kの隣に座る女は、男のことを見ていた。男は座っている。

「言った通り、文字はなくなったんだ」

「そのことじゃなくて、文字を読まなくていいことが幸福ってどういうことですか? というか、おじさんが言った通り、文字がなくなっているのなら、どう、人間はどう生活すればいいんですかね? この通り、メニュー表にもちゃんと文字がありますよ」

「小僧。もういい。ねえお嬢ちゃん、どうだい」

 脂でべとついている髪を耳にかけて、やさぐれた人間は女を見た。

「どこかで見たことがある顔」

「そう」

「親戚とかなのかもしれない」

「君にも親戚がいるんだね」

「いるよ。近くにはおばあちゃんしかいないけど、たまに帰ってくるお姉ちゃんがいる」

「あとは?」

「ちいさいころに会った記憶はあるけど、あんまり覚えてない。あの人はたぶん死んでるんだ」

「どういうこと?」

「死んだ人が歩いてるの」

 少女に導かれるまま、森の奥の方まで歩いた。手は小さく、かなり冷たい。なにもわからないままでいたし、少女の言動から、さらにわからなくなってきた。

 どうして少女が傷口を舐めると傷が治るんだろう? どうして死んだ人が歩いてるんだ? 少女が「死んだ人」と言った、親戚かもしれない人は、ゾンビのようには見えなかった。それどころか、猟師の恰好をしていて、ある程度人が通れる道であるとはいえ、落ち葉と枝が広がる湿った地面を、まるで生きているようにしっかりと歩いて行った。

 まるで生きているように? それは違う。彼はちゃんと生きている。ちゃんと呼吸もしていた。「死んでるのよ。知ってるもの」と少女が歩きながら言う。

「でもどうして?」

「知ってるのだもの」

 少女はそれ以上なにも言わなかった。ただ手を引いてどこかに連れて行こうとしているだけ。森の中は静かだった。かまいたちのような落ち葉の流れを生み出した風は、もう吹かなかった。黒々とした空に、木々の枝が伸びている。

 あるところで少女は足を止めた。少女と出会ったところよりもひらけた場所だった。落ち葉や枝の類いは、この場所を囲む木の下にまとめられている。地面は土がむき出しで、これまで歩いてきた道のような湿り気はなく、乾いていた。中央には丸太が二つ置いてある。

「これを見て」

 少女の指の先は二本の丸太の間に向けられ、顔をそちらに向けると、少女は腕を引っ込めた。

 そこは、どうということもなく、焚き火をしていたような跡が見えた。

 ちゃんと消火され、灰になった枝や紙が微風を受けて、その姿を消していったり、また留まり続けている。これが一体なにを意味するのだろうか。わからない。聞いてみたところで、納得のいく答えは与えられないと思う。わからないことだらけだ。頭をかきむしって「どういうこと」と大きや声を放っても、決して悪いことではないはずだ。それでも「灰だね」と目の前の光景と同じような事実だけを口にし、その言葉に些細な棘があることに気づかなかったRには、次に男が嫌そうな口ぶりで「そうだけど?」と言う意味がわからなかった。「煙草がやめられないのではなくて、煙草がないと生活が全くおもしろみのないものになってしまう」。

 そう男が言ったところで、Rは男の言いたいことに気がつき「そんな回りくどく言わなくてもいいのに」と悲しみながら訴えた。男にしてみれば「回りくどく言った覚えはなくて、自分の言葉には、自分がその時考えていることが反映されてしまうだけ」と女の表情を目の当たりにして思ったのだが、久しぶりに会うということで滅多にしない化粧をし、香水までつけてきたRが男に近づいて「孤独って知ってる?」と言ったことには、かなり困惑した。

「孤独?」

「そう」

「孤独なのかもしれないと思ったことはあるよ」

「違う。それじゃなくて、本物の孤独。否定、消極、厭世、虚無の全てを表す孤独」

「わからない」

「じゃあ、知らないってこと」

「たぶん」

「もういいよ」

 男の手首を力なく握ってから、Rは扉に向かって歩きだした。

「ちょっと待って、どういうこと」

「考えて」

 とRは言い、台所にあったRのマグカップを床に叩きつけた。マグカップは割れた。

「やめてよ」

「そういうところが嫌いなの」と女はKに向かって叫んだ。「帰って」もう終わりなのかもしれない。二人はそれぞれの温もりに飽き、疲れ果ててしまった。見切りをつけて、抜け出そうとしている。そういうこともあるだろう。

 やがて鳥たちが鳴く。夜が明けたのだろう。腕からチューブが伸びていることは、昨日と変わりなかった。部屋全体が活気づいていることが、どうも落ち着かない。眠い。カーテンの向こうから話し声が聞こえる。あれほど眠られない夜を過ごしたのに、いざ起きると眠気が後を引いて現れる。チューブを気にしてしまうせいで、寝返りをうつのも精一杯。布団を頭までかぶって、眠ろうとした。声が聞こえてくる。うるさい。他人の病気なんてどうでもいい。隣の人間は「十二指腸がどうたら」となにかのタイミングで話しかけてきたが、それにも適当に答えた。きっと不思議に思っただろう。自分の病名すら覚えていない。面会にやってくる人もいなければ、携帯電話も本も持ち合わせていないし、常備されている漫画本を読む気力さえもない。眠ること。ただそれだけが楽しみのように感じていた。身体がばらばらにほどけて、ぬるま湯の流れに任せること。暗い。「せめて音楽があればいいのに」と考えた。

 なに一つ思い出せない。歌は嫌いだった。ピアノの音色が聞こえてくればいい。なにも楽しいことなんてない。頭がかゆい。布団の中に頭を埋めてから、ずっと頭がかゆい。

 尿意を感じて身体を起こした。

 入浴は未だ許可されていない。自分の体臭すらもわかるくらいに脂がついている。カーテンを開いた。右前方に面会客と思われる女が真剣そうな顔をして、カーテンの中の人間と話をしていた。その隣で看護師がつまらなさそうに、この場から出るタイミングを見計らいながら、地面につま先を当てて、足をくるくる回している。その傍を通らなければいけないことが苦痛に感じた。看護師の後ろまでくると、ふと看護師は振り返った。わざとらしい動きだ。看護師は、

「点滴、少なくなってる。あとで取り替えますね」と言い、足早に病室をあとにした。

 点滴のおかげか、尿とともに空気が出てくることがある。医師から説明されていたことだった。

 そろそろ裸になるのも寒い。秋を過ぎて、外ではもう雪がちらついている。部屋の中には張り詰めたような空気が漂っていて、その要素の一つ一つが肌を刺激した。

「よくそんなにコーヒーのむね」

「好きなんだ」

「眠れなくなったりしない?」

「しないなあ。カフェインで眠くならないってことがないのかもしれない」

 女はうつむきがちに返事をした。

「人間がどうとか、もういいだろう。生きて死ぬのみだ。生きている間なんて、どれだけ長かろうが、どれだけ短かろうが同じものだよ」

「ふうん」

 Kは座った。

「そう思わないかい?」

「思いませんね」

 会話の合間に注文の品が差し出される。

「どこをどれだけ回っても、地球から出たとしても、見ることができるんだ。もしそんな人がいて、たとえ老人だったとしても会話はできる。同じさ」

「ふうん」

 Kはやさぐれた人間の話に退屈していた。

「でも僕とあなたは違うようですが?」

「抽象的な話はこりごりなんだ。もう文字はないって言ったじゃないか。どんな偉大な発見がこの会話から生まれたところで、それがフランシス・ベーコンどまりなのはわかっているだろう」

「もういいです。行こう」

 Kは女の手を取った。眠ろうとした。女は小説をもって、躓きそうになりながら、Kの後ろを歩いていく。ひとけはなく、湾曲した突堤で鳥たちが戯れ、身体を寄せ合っている。二人のところまで、鳥たちの鳴き声が聞こえた。あの喫茶店から出て、外で煙草を吸おうと考えていた。こんなに寒いというのに。Kはとにかく女と二人になりたかったのだ。きっと女はわかってくれるだろう。いささか乱暴に連れ出したのは、このためだった。あたりは「しん」と静まり、通ってきた道も、ここから見ると閉ざされているように感じる。亡霊たちがそこに浮かび上がった。琥珀色の瞳をして、宴会のようにせわしなく動き回っているが、それらは全く音を立てず、レコード・ディスクも回っているだけで、烏が鳴く声以外に聞こえてくるものはなにもない。やさぐれた人間が出ていった二人を見た。「まあ、いいだろう」と、なにかを諦めた様子で言っている。「ここまで言ってきたことのほとんどは嘘だ。こうして残っているお前にはわかるだろう?」彼は天井を見上げて男に言った。男は「わかるよ」とだけ言った。窓が開いている喫茶店からは、やさぐれた人間の怒鳴り声は聞こえなくなっていた。男は彼に「でも、あなたは詩人なんでしょう?」と言った。やさぐれた人間は男の決然たるまなざしを前にして、たじろいだ。二人の間に沈黙が横たわっていた。やさぐれた人間はビールを流し込もうとしたが、勢い余って口からこぼれてしまい、しずくが頬を伝い、首を流れ、服の中に落ちていった。雫の軌跡は自分と関わりを持っている。関係している。垢だらけの身体をもって安心していた。「なにもかもを捨ててしまった自分に残されている言葉たちも、いつか消えてしまうのだろう」。わかっていた。彼はその、具体的な記号が気に食わなかった。偶然の文字たちは、彼から離れ、森の中へ帰っていく。石に刻まれた文字たち。言葉の流れ。どうしてここに連れてこられたのか。エンジンを切り「ここにきたかったの」と言い、扉を閉めた。Rはコートを抱いて、ポケットから煙草のパックを取り出した。

「一本いる?」

「じゃあ、もらおうか」

 先端に火をつけ、吸った。

「ここ、本当ならくる予定はなかったんだ」

「ここにきたかったんじゃないの?」

「違うよ。ねえ見て」

 右腕を欄干の方に向けた。そこからは街の風景が見えた。陽が落ちかかるころであり「ぽつりぽつり」と明かりが見えた。扇型に広がる風景が綺麗だった。

「素敵でしょ?」

「素敵だね。綺麗だ」

「この場所が好きなんだ。ねえ、コーヒーでものむ?」

「のむ。でもいまは、なんとなくジュースがいいな。カルピスがいい」

「めずらしいね」

「コーヒーじゃ、味気なさすぎる。ねえ、どうしてここにきたの?」

 男は振り返ってRを見た。Rは缶コーヒーとペットボトルのカルピスを持っていた。コートは車に置いてきたようだった。「なんかね、この山がよく気になって、きちゃうんだ。景色は綺麗だし、予約してたホテルも近いから、いいかなって」と言いながらペットボトルを男に渡したRは、よれよれのパックからもう一本煙草を取り出して、火をつけた。男はもう吸い終わっていた。

「なんとなく、なんだけどね」

 揺さぶってRを起こそうとしていた男が、眠れないまま横になっている。

「この山には墓場があるんだ」

「親戚の人の墓があったり? むかしきたことがあったとか」

「違う違う。この場所を見つけたときに、森の中で迷子になっちゃって、その時に歩いてたら見つけたの」

「へえ」

「知らない人たちの墓を知らない場所で見るのって、不思議な気持ちになるんだ。行ってみる?」

「女の子から墓場に誘われるなんて。でもいいよ。行ってみよう。チェックインまでまだ時間はあるだろうし、迷子になってもそれはそれで楽しそうだ」

「迷子にはならないよ。道は覚えてるもん。それに墓場だから、ちゃんと迷子にならないように道が作られてる」

 Rの言うことは確かだったし、欄干のあるところから少し歩くと、そこは墓場だった。森の中にある墓場だったが、男は不思議と恐れや不気味さを感じず、Rと一緒にいることが一層幸福なことに思えた。Rは、ことあるごとに「死んでやる」と言う人だったし、こうして墓場に誘われるのも、おかしなことではない。Rは男の手を放し、枝箒が置いてある倉庫まで歩いていった。そこで「わたしはここで死んだの」と言った。続けて「墓場で死ぬなんて、おもしろいことだと思わない?」と言った。顔にかげりが見えたが、少女は微笑んで「ここで焚き火をしよう」と提案した。

「死んでから、この倉庫に地下室を作ったの。いろんな本が置いてあるんだ」

「全部読んだ本?」

「ううん。全部なにも書いてないの。全部のページが白紙なんだ。もしかしたら、わたしは死んじゃったから、そう見えるだけかもしれない」

 少女は倉庫に入って、本を一冊取り出してきた。

「ねえ、読んでみて」

 なにもかいていなかった。

「ね、かいてないでしょ? もう、燃やしちゃおうと思って。それにあなた、寒そうにしてるから」

 本が燃えている。燃えつきた灰が少女の頬に張りついた。頬を拭おうとして少女に近づく。

「あっ」

 火の粉が右肘に飛んできた。熱い。少女は「くすくす」と笑って、頬をなでた。本をもう一冊炎の中へ投げる。少女はなにを思っているのだろう?

 少女は足をばたばたさせている。そのつま先は炎に触れていた。

少女は痛がらず、微笑みながらこちらを見ている。「そのシャツ、高そうだね」と言った。

「落ち葉に炎に、ついてないね」

「でも、かして」

 少女は腕を取って、火の粉がついたところを舐めた。

「痛くない。痛みがなくなった」

 少女は苦そうな顔をしたが「よかった」と言って、また足を炎に触れさせた。「熱さなんて忘れちゃった」。少女は次々に本を燃やしていった。炎は燃える本の数に従って大きくなり、皮膚がひりひりと傷んだ。

 木々は二人を囲んでいる。

 きっといまも、木たちは伸びているのだろう。少しの風を感知して、枝に繁らせた葉を鳴らす。「この森から出ることはできない」そう思った。この少女と同じく、やがてこの炎の熱さは感じなくなるのだろう。痛みも感じなくなり、死んでしまったことになるのかもしれない。

 ある大きな本を炎の中に入れた。「ぼうっ」と炎が音を立てて、本が燃えていく。炎は深夜の宮殿内で灯る燭台のようにかぼそく光っている。そうして彷徨う女はレッド・カーペットを慣れない足取りで歩いた。レスト・ルームへと向かっている。宮殿に展示されている数々の甲冑や絵画。女はそれらを眺めることなく、宮殿のなかを進んでいった。白い壁紙にところ狭しと飾られているものも、女にとって、特別なものとは思えなかった。飾られてしまったものから受ける感慨。開いている扉から妙な香りが漂ってきた。

「夜は暗いけれど、この宮殿の中よりは暗くない」と女は思った。

 そうなのだ、暗くない。でも女は恐れていた。恐れを紛らわすために、うつむきながら考え事をした。恐れは女の考え事に移し替えられた。

「ぐっすり」と眠ってしまった男は女と同じベッドに寝ている。「私はもうそこいない。でも彼は眠りをやめないのだろう」と考えた。男の眠りは深かった。女と戯れたあとに、全身の力が抜ける瞬間がある。男は言葉にならないことをつぶやき、そのまま眠ってしまうのだ。眠ってしまった男の呼吸がする。男はほとんど動かない。目を閉じた男は、そうして一日が終わる。暗い宮殿の中を歩く女は、目を閉じた男の一日からはみ出ている。

 明日はある人物との会合が控えている。そこで女がなにか特別な事をしなければならないわけではない。でも、彼らの皮相な会話を耳にしてしまうだろう。きっとその会話にうんざりしてしまうだろう。女はそれを呪いたい気持ちになった。宮殿に彼がやってくる日が近づくにつれて、そうした思いは大きくなった。その思いは、こうして宮殿内をひとつの燭台の灯りを頼りに彷徨っている間に生まれた恐れと、どこか似ているような気がする。

 ここで見えるもの。燭台の仄かな灯りで光る、傷一つないの甲冑のサビや、画家によって極度に歪められた現実の形骸、朱色のカーペット、この宮殿の暗さ、これらの全てに女は恐れの気持ちを移した。女は暗闇の中にいた。燭台を手にしながら尿意を我慢する人間。まるで、もがいているかのようだった。恐れを、別のものに移している間、一歩も動いていなかったのだ。女は、身体が大きくなったような気がした。さらに女はあることに気づいた。

 再び歩き出した。見えるものの中を揺蕩たゆたうように歩みを進める。男は私の残り香に包まれて眠っている。「私は歩く、歩くために歩いている」。

 レスト・ルームまで、きた。女はレスト・ルームを通り過ぎ、角を左に曲がった。右手には螺旋階段が見えた。螺旋階段からも、階下からも展望できる大きな絵画を、螺旋階段の手すりに立って眺めた。巨大な絵だ。ただの風景画。ただの絵の具の集まりでもある。北欧の田園風景がえがかれている。なだらかな丘陵きゅうりょうに立ち潜む断崖がえがかれる後景に、羊飼いの少年と羊たちを前景。その二つが対比されている。この絵画には奇妙なところがあった。

 画家は北欧旅行を終えたあと家には帰らずに、そのまま中国の南西部、貴州省の中部に位置する安順市へと足を運んだ。彼から聞いた話だった。画家が見た二つの風景はこの絵に、同時に現れていた。北欧の田園風景がえがかれているというのに、中国風の掘っ建て小屋が見える。絵の具でえがかれているというのに、水墨画のような雰囲気がそこに現れている。

 女は恐怖した。

 玄関は「ひっそり」と閉ざされていた。玄関の上にはステンドグラスが張られている。ステンドグラスは、宮殿を取り囲む森の夜を宮殿の中へ通した。螺旋階段が階下に触れているその平面上には、絵の具が散らばっていた。螺旋階段の手すりを絵の具はよじ登っていき、女の後ろに回る。女は夜の光を浴びていた。大きな田園風景を見た。女はそのような台本の中で、螺旋階段の手すりに立ったまま放尿した。ネグリジェが尿で汚される。レッド・カーペットに尿が滴る。汚されたネグリジェが尿の重さによって女の脚にへばりついた。女はちいさなころに服を着たまま海に入ったことを思い出した。

 突然入ってしまった海の中で、女はもがき苦しんだ。海から出ようと、じたばたした。そのせいで、さらに海の底へ降りていった。藻が揺れて砂や塵のようなものが見えなくなってくると、女は身体を動かすことをやめた。自然にそれをやめていた。海の深くに落ちていく。陽光ようこうが届かないところまで沈んでいった。そこは自由だった。全てのものから自由だった。呼吸する必要がなかった。体育座りをして前転と後転を繰り返した。子供のように遊んでいた。気づけば母親が心配そうな顔をしている姿が目に飛び込んできた。「取り返しのつかないことをしてしまったんだ」。そう思った。そのこと感じて放尿をした。カーペットの上をひたひた歩き、放尿を我慢していたおかげで、長い時間、尿を出していた。女の顔にはさまざまな表情が同時に現れていた。まるで顔のパーツがなくなっているようだった。

 放尿を終えた女は、尿で濡れた螺旋階段の手すりで足を滑らせ、真っ逆さまに落ちていった。女はその流れを待ち望んでいた。思い通りに事が運んだことを喜んだ。流れていく時間の中で、次第に絵画がフェード・アウトしていく。手すりの支柱が見えた。次の瞬間には消えていった。目を閉じた。深い海の底へ沈んでいく。水の中へ沈んでいく。この奥へ沈んでいく。降りていく。

「ぼうっ」と炎が鳴り、女は消えていった。女の恐れも、炎の中に消えていった。女の灰は大気を彷徨さまよった。

 少女はそれを吸い込み、吐き出した。

「ねえ」

「どうしたの?」

「君って、どうして死んじゃったの?」

 少女は神妙な顔つきになった。

 烏が低い鳴き声を上げた。

「ざわざわ」と木々が鳴り、烏の大群が空を飛んでいく。

 少女は人差し指の付け根を上唇の裏に当てた。

「わかんない」

「でも、ここで死んだことは覚えてるんだね」

「死んだのかなあ。それもわかんない」

 あたりは静かになった。針は上げられ、アームが水平に動いた。音楽が終わった。音楽の全てが消えていった。

「新しいの、かけてよ」

 マスターはレコードの棚に立って「ジャズがいいですか?」と、やさぐれた人間に向かって言った。やさぐれた人間はビールをのみほした。

「ピアノ・トリオがいいね。しっとりしたやつがいい」

「ピアノ・ソロは?」

「それもいいね」

「このあいだ、クラシック音楽を調べていたんですが、とてもジャズみたいな曲をかく作曲家をみつけたんですよ」

「ほう」

ウクライナの作曲家で」

キリル文字かあ」

「魅力的ですよね」

キリル文字が踊るジャズって、想像しただけで素敵だね」

「でも、文字はもうないんじゃ?」

「あれは一種の実験だよ」

「そうだったんですか」

「なくならないよ。どれだけ忌まわしくても、文字は消えないね。文字から生まれるものも消えない」

「われわれも?」

「そうさ」

「表裏一体ですね」

「まったくその通り」と、やさぐれた人間は、ジャズのようでどこか構造的な、はじめて聴く音楽に浸っていた。「ジャズも構造的だろう?」「まったくその通り」。煙草を咥え、火をつけた。マスターはやさぐれた人間にコーヒーを出し「どうですか?」と言い、微笑んだ。頭をかいた。やさぐれた人間は「いい詩がかけそうだ」とつぶやいた。煙草をひとくちふかした。

自己分析・恋愛・音楽

◆自己分析

自己分析をすることがもはや趣味ですと胸を張っていいのかもしれない。
 
気がつくと自分のことを考えていて、その最中には、自分のことを考えているわけではなかったという声が繰り返し聞こえてくる。
特別にそれがいいわけだということじゃない。
自分のことを考えるとき、多くは既に起こったことについて考えているだけで、その自分は他人だということだ。「なんであんなことしたんだろう」は、私ではない。
 
難しいことではないと思う、哲学なんて毒を啜る前から考えていることだった。
その意味では自己分析ではない。
よくわからないけどとても近い他人のむかし話を解釈することが大好きなだけだ。
 
どうしてそんなに、彼は近いんだろう?
 
そんな問いもおもしろいと思う。でも、既に逆説のねじれが起こった土台があっての問いだから、なんとなく答えは出るのかもしれない。
答えが出ることが問題なんだと思う。
さらに言うと、その言葉〈言葉たち〉が問題なんだと思っている。
 
その言葉は、問いに対する一つだけの正解で、〈言葉たち〉は、問いに対する複数の声だ。
その言葉は、教科書教育みたいなものだし、〈言葉たち〉も教科書教育の応用みたいなものだろう。
 
でも、この二つは、どうしてそれ(ら)がで「る」かという点が重要だと感じる。
その言葉はいいだろう。問題はもう一つだ。
 
〈言葉たち〉は、の声なんだろう?
 
このは、名前と体で理解されるものではない。(音楽を例にとってあとで説明する)
 
は、どんな生を過ごしてきたのだろう?
は、誰が(どのようなかたちをとって)所有しているのだろう?
 
こんな問いは、無意味かもしれない。
そもそも、何を言っているのか、さっぱりわからないかもしれない。
でも、自分が追われてきたこの問いを表すには、この言葉しか、いまのところは見つからない。
 
この問いは、答えられると思う。いろんな視点から、簡単に答えられるものだ。
見失ってはいけない。この問いは、そもそも「答えられない」問いだということ。
スタンド攻撃みたいに、この問いに答えたものは死んでしまうのだ。
そして、これまで書いてきたことは自己分析だった。
 
 

◆恋愛

恋愛はまずありえないとしか言えない。
平坦な言葉で表したいから、凡庸な意味で捉えられてしまうかもしれないけど、頑張る。
 
こんな話題は卑怯すぎて実体験を語るしかないのだけど、遡るとそれははじめて東京に行った時の感想で終始している。
たぶんはじめて東京に行ったのは幼稚園の時だろうけど、言葉とテレビのイメージでしか東京を知らなかった自分にとって、その天空の城のような場所に訪れてまずはじめに感じたことといえば、失望だったとしか言うことができない。
 
人間がごった返していて、ここの女はみな娼婦だ、というような考えなんて浮かばなくても、自分が育ってきた場所と、この場所が繋がっているということが、ありえなかった。
よく覚えているのだが自分はそこで「東京は住む場所ではなくて、遊びに来るみたいなかんじにした方がいいと思う」と言っていた。
 
けだしこれは親の田舎信仰のような言説を真に受けた言葉だった。自分はずっとそれをしてきたことを踏まえると、そう解釈することも不自然ではない。
なら「ここよりもずっとうちの方がいいね」とどうして言わなかったのだろう。
東京で出来る遊びが楽しいと思った記憶はない。
この言葉は既に、自分の環境外からの意見だったと言える。
 
恋愛に対する態度は、触れてはいけないものは触れなければいつまでも美しいのに、という芸術家の教訓じみた童話に終始しているのかもしれない。
でも、童話がそこに「正解」を設けている以上、相容れないことは確かだ。
 
中心がない吸引力が恋なんだと思う。なにかに恋をしているとしても、それは一体なんなんだろうか。いくらそれにまつわる言葉やイメージを挙げたところで、それはドジョウのように手元から逃れていく。
その体験をゆるやかに継続させていくことが恋愛なんだと言える。
だが、いつまでたってもあのドジョウは消えない!
あのドジョウが幾数の変化を経ていることにすら気づかないのにも関わらず。恋愛はいつでもありえない。同様に、生きることもありえないと言えるだろう。
 
 

◆音楽

問いに対する〈言葉たち〉が、あらゆる問いを無視して、熱狂の最中で自分を失わせることが、音楽の始原であり、現在まで続く音楽の姿だと思っている。
この定義は、リズムもメロディーもない音楽に対しては無効かもしれないが、リズムもメロディーもある音楽で至った「感動」と、そうでない音楽で至った「感動」、程度なんてありえないとすると、やはり同じ感動だろう。
 
偏狭な趣味嗜好から、音楽は孤独であるときにしか聴こえてこない、とか言いたい。
これはもちろん違う。でも言葉の方向としては、そんなに間違っていないことのようにも思える。
 
たとえば、自分はライブに行かないほうがいいと少しだけ思っている節がある。
恋愛の項で書いたように、失望(まあつまり、コレジャナイ感)が待っているだろうからだ。
 
ライブに行くというのは、いろんな芸術を体験する場所において、もっとも規則的で、教科書的で、独善的なことだと思う。
これは否定的なことではない。嫌味だと捉えてくれても結構だが、規則的で、教科書で、独善的な要素が全くない人間は、人間とはいえないからだ。
 
ライブは、「素朴なただ一回限り」を武器にした、「感動」をいやらしく誘うものだ。
24時間テレビのお涙頂戴ノンフィクションドラマで、必ず「感動」が用意されている事態と同じくらい、「感動」のほくそ笑みが見えてしまう。
 
自分の言っていることは、スタジオ録音版演奏とライブ演奏に差がありすぎる、ということではない。
芸術全般に言えるのだが、知っていた作品が、いつのまにか作者を上回っていて、しかも作者はある規則に基づいて「感動」のピースを完成させる一欠片にさせられている(そうなってしまう)ことが、惨く、この上なく悲しい事態だ。
音楽は、その人によって奏でられる。画家や作家以上に作品との距離は密接であり、そのぶん、彼が出した作品からネジが外れていくのも早い。
もはや壊れかかった何かとして、ライブは存在する。
 
自分はそれを見たい気持ちには、ならない。
最後の結論だけのものなら見たいだろうが、この逆説を経て、水を頭からぶっかけられたような気持ちになると、あらゆる気力が失せてしまう。
 
これが「正解」、その言葉であるわけではない。
 
ここは重要で、作者がいうことが「本当」であり「真実」であることなんてない。
文芸に嗜むオタクはここで何かを察知したようだが、それも違う。
作品が作者を離れている状況は、「なんであんなことしたんだろう」が私ではないように、あるものなのだ。
この天秤が面白い。
 
言い換えると、音楽を通して何かを伝えたいミュージシャンは、その「何か」に病的に取り憑かれている。でもリスナーは「何か」に取り憑かれていない(同じように思えても、同じではない)のだから、その二つを楽しむこと。それは愉快じゃないか。ということだ。

中心の隅

 よく見ないとわからないことだったけど、いつも通っている道の交叉する部分の端には綺麗な花が咲いていた。

 とにかく綺麗で、とにかく小さかった。両手で数えられる程度の花弁。花弁同士が分かれていたか繋がっていたかなんて覚えていない。それは白く、うっすらと桃色の靄が、散りばめられていた。百合の花だ。花が百合の花だったかどうか、そんなことはわからない。知識をため込みたいと躍起になって図鑑を眺めたことはこれまでなかったし、その花が契機となって学び直そうとする意欲はどこにもないから、これからも読むことはないだろう。しかし美しかった。見つけた時期というのは、その道を通るようになってからすぐのことだった。でも花がある、しっかと見つめそれは花だと自分に言い聞かせたのはあんがい見つけた時から隔たりがあったと思う。間隔を確認することはできなかった。いくら思い出そうとしても、その前後はあれこれ言うことができても、その間に関してだけは何も覚えていない。ああ花だ。これは花だ。百合の花だ。直感して再びあの美しさに楔を打ち込まれた。感動という記憶かもしれない。そこまでやわなものでもないかもしれないが、たしかにそこに花があった。そう思った。可憐さを電柱と電灯と闇、他人行儀な家屋とその煉瓦の外れで見つめている。眠くなるような心地よさがあった。白さが暖かく感じた。暖かく感じたところでそれが良いものとは限らないことは知っていた。同じように心地いいものはおしなべて良いものだとは限らないことも知っていた。考えて分かるものではなかった。知っていたことはただの直感だったのかもしれない。出てきたものを検討したい気持ちが、若い頃にあったその名残りかもしれない。あるものがいかなる感情にも接続されていないことがあるのか悩んでいた。悩むことが大切だった。悩むことはいつでも近くにあった。思い返せば悩むことは、悩むことだけだったかもしれないと思う。悩んでいたことはなんだったのだろうか。悩むために悩んでいたと耳障りのいい言葉であらわしたって、今はもう、いいだろう。一番の悩みがなくなってしまったのだから。

 花が花であることに余地はなかったと思う。

 でも花が花でなかったことも考えられた。ずっと考えていたことだ。百合が百合ではないのは、地割れのように切り離された記憶と実際を結ぶ、あのとにかく綺麗でとにかく小さかったものが引き裂かれた時だ。そんなこと、未だかつてあっただろうか。考えられたかもしれない。あの美しさはここにはない。だからあそこにあった可憐さは、電柱と電灯の虚しさの裏返しだった。そうかもしれない。いつだって悲しかった。いつだってやりきれない気持ちを纏っていたのだから。悲しさは静かだ。どこでもいい。深夜の階段よりも寒々しさと孤独を持ったものは知らない。一段づつに差があることが孤独でも進展の証だとは言えない。感じられるのは小さなその足場の隅には必ず埃があるということだった。今日の昼間に掃除機をかけたところで深夜には必ず埃がそこにある。ひっそりとしているのかもしれないが、そうは思えなかった。かといって騒いでいるわけでもなかった。足場はそれぞれ狭いのだから、空間が小さく区切られているということになる。小さく区切られた空間には望まれなかった埃が必ず、たとえいくら掃除機をかけたところでその小さい空間の隅には必ず埃があった。なにも埃の悲しさを伝えたいわけではない。むしろなにを伝えたいのかもわかっていないのだ。孤独と寒々しさ、悲しさ。深夜の階段にはまるですべてがあったように感じた。十字路の花のようにすぐにでも感じられるものだった。階段を一歩づつ登っていくことは、すなわち破滅そのものだったように思う。まさに遅れてくる足音と舞う埃、踏み潰された埃はそれを伝えていた。理解できない言葉で。階段を登りきって暗い通路を進むと左手から光が漏れていることがあった。悪いことをしてきたわけではないのに、ここにくるまで血を吹き出しながら引きずってきたものを感じた。軽くノックしたと思う。扉を開けたところで、声が聞こえてきた。そんなことはなかった。声は聞こえなかった。怯えた少女の引きつった笑いとあやふやな声だけが部屋にあったのだった。十字路の花。綺麗だった花は次の日くらいにはなくなっていた。引きちぎられた跡も残っちゃいない。確認したわけではないが。あやふやな声は悲鳴に変わっている。「やめて!やめてよ!お父さん痛い!」「ううええん」「痛い痛い!痛い!」「痛い!ううう。やめて!もうやめて」「うううう」「やめてって!やめて!やめて!痛い痛い痛い痛い!」「ほんとに、もうやめてよ!痛い!助けて、助けて、助けて!痛い痛い痛い!」「お願いします。やめてください!痛い!うっ」「ううう」「ううええ」「えええん」「う」「う」「う」「痛い」「やめて」「やめてください」「ええ」「えええん」庭の中で鳥が飛んでいる姿を見ると自由なんてないんじゃないかと疑ってしまう。庭なんてうちにはなかった。あの部屋は暖かかったと思う。扉を閉める。ここにまた現れるのは暗闇と階段だけだった。感じられるものはなかったと思う。あんまり記憶がたしかじゃない。いつまで経っても暇と悲しさは仲がいい。悲しさは哀しさと仲が悪い。眠いんだ。どこか、もう。眠いんだと思う。完全に疲弊しているんだと思う。それ以前のことはなにもなかったと思う。漏れ出す光はやがてなくなったはずだ。もう眠い。眠るんだと思う。心地よくない、やり直すこともできないひたすら不快な眠り。不快な眠りは近い。眠りの中には何かがあるはずだと思いがちだと考えられた。なにもないのかもしれないが、何かがあるかもしれないと。次の言葉でそれを伝えられるかもしれない。言葉はない。情景だけがある。暗い通路と緑色の光。どこになにがあるっていうんだ。埃とベンチと光。ついでに光の反射。よく聞いた。何度でも聞いた。昨日も聞いた。明日も聞いた。いつでも聞いていた。なんてことないはじめての声が感動なのかと言われれば、迷うしかない。なにがはじめてなんだ。眠かったんだ。ただひたすら、ずっと眠かったんだ。でもやってくるのは不快な眠りと、声を潜めて待っていた叱責だけだったと思う。悪かった。たしかにでもそうだった。もうやりなおせない。いつでも聞いたはじめての声。そんなはじめてはなかった。これからもこのまえもなかった。声はなかった。そうだったと思う。泣き声がうるさいなんてこともなかった。叱責に感じるものはなかったも思う。ただあるのは不快さだけだった。それすらもなかった。眠い。いつでもそう。謝罪はない。来るぞ。もうだめなんだ。近づくと怯え。離れても怯え。あるのは怯え。悲しみと怯え。すべては孤独。ちがう破滅。ちがう花。いやもしかすると、花なんてはじめからなかった。忘れていた。

ぼくたちのボボシタ

 ドラム缶の中には、たいていおにぎりや水筒が入っているものだ。ぼくたちのたまり場である三角公園に深すぎない緑色の輝きを放つドラム缶が、無造作かつ神聖なオーラを放って佇んでいる様を見てしまったからには、おのおのが自らの途方もない日々での飢えを感じたこともやむを得ない事態だったと言えるだろう。
 佐伯は「女房のまずいメシは、サイゼリヤのフォッカチオの足元にも及ばない」と嘆き、大粒の涙を流した……だが彼の瞳には確固たる決意が現れていた。ユニクロのTシャツか? その日、佐伯に問うたその一言から佐伯が口に出した「いや……女房の手作りセーターなんだが……」という悲痛な叫びは、ぼくに「せめてしまむらだった……」と悔いを残した。とはいえ今の彼にとってそんな問題は些末な事象でしかなかったのだ。
 大粒の涙は佐伯の足元に水たまりを作った。半径二メートル程の……。涙を拭う腕は、彼の涙を拭く腕ではない……天高く、あまつさえ雲をもつかむ勢いで伸び「大量生産、大量消費に対するアンチテーゼは、ここに儚く散る! しかし高度資本主義経済を手玉に取ることが出来る唯一の象徴、ドラム缶は今ここに、この私の眼前に、その姿を現したではないか!」と絶叫する姿はソフォクレスの存在を確かめるが如く凛々しく咲き誇り、我々を勇気づけた。
ソフォクレスは実在した。そしてオイディプス……アンティゴネもだ! 畜生! あのアリストファネスめ!」
「いや違うな……」
「違うと思う……」
「教養が足りない……」
 なんという戯言! ああ、まさにこの状況が悲劇ではないか。
 ぼくは泣いた……いやぼくではない。内なるぼくが、泣いたんだ……
「苦し紛れのああなんという体たらく」
 三角公園に乾いた風が吹いた。青・黄・銀と配色が施されている滑り台を下る田中のその無邪気さ。彼の笑顔はなににも代えがたい。まるで、毎日必ず我々の目玉に映るのに、全く注目されず、賛美の対象にもなれはしない無常の存在……その全ての形は違っているにも関わらず、それぞれを子細に観察することを拒絶し続ける神秘なる……水に漂う姿はあらゆる聖性のなかで最も美しく、迸る細やかな水滴が煌びやかな光を纏う、装飾過剰までいかない典麗の究極を突き詰めたお馴染みの大便のようではないか。
「まあ。ここで涙を流すのはよそう。聖なる光が我々を包んでいる……祝福された我々の頭上に輝く光輪は、この力強さを象徴している」
「ああ! 利口な君。一体、何を学んできたんだ!」
「生理学を少々……」
「まずまずだな!」
 とはいえ、あのドラム缶ではないか。結局。
「見たまえ! あの能無しのドラム缶にさえ光輪が宿っている……」
「まったくだ!」
 佐伯が激しく両腕を交差させ、その行動とは似ても似つかない微笑みから、荘厳にその言葉を、ため息交じりに吐き出すのだ……
「神が、愚鈍なる我々のために警鐘を鳴らしているのではないだろうか」
 佐伯の言葉は通じなかった……
「Pardon?」
 軽口を叩くな。
「神の皮肉ってことさ……」
 次の瞬間、佐伯はまるで佐伯をひき殺すためだけに走っていたかのようなベンツに、無残にもひき殺されてしまった。佐伯のセーターは佐伯の血に汚れた。
 ぼくは思わず口に出していた。「うえ、ばっちい」。田中はというと、無邪気な笑顔に拍車がかかっていた。というのも彼は決して肥満体ではないのだが、並みはずれた発育による巨大なヒップ(ぼくの顔三つぶん)が滑り台に挟まりウモーウモーと顔を紅潮させて滑り台から巨大なヒップをすっぽりと、そうすっぽりとぶち抜いてしまおうと躍起になっていたからだった。ああ、つまらない人生を歩み、狂気の愉楽も道半ばで喜劇にすら用いれない陋劣の限りを尽くした佐伯の血液が、巨大なヒップにぶち撒かれウモーウモーと唸っていた巨大なヒップはこれはチャンスとばかりに、巨大なヒップは佐伯の血液を吸収し、巨大なヒップは佐伯の血液を潤滑油とし、巨大なヒップは見事、巨大なヒップは狂気の滑り台からの脱出に成功したのであった。
「巨大なヒップ持ちの田中よ」
「何だい、直視し難い光輪を持つ両性具有」
 カチンときた。マジの気持ちで、ほんとガチでブッ殺したい。
 田中は死んでいた。
「ああつまらない人生! これでもか! これでもか! 鉄パイプがたいそうお好きなようで。お好きなようで!」
——「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ! その時スデに行動は終わっているんだッ!
 巨大なヒップは、もう死んでしまった。哀れな巨大なヒップだった。哀れなボディ。高度資本主義経済におけるパネマジ*に敗北してしまった巨大なヒップは、この共同体で永遠に語り継がれるものだろう。活版印刷機の出番だ。この伝説はただものじゃない。なんてったって、伝説だからな。
 ここで残るは、深すぎない緑色の輝きを放つドラム缶のみとなった。あのドラム缶に当たり前のようにたらこおにぎりと濃すぎるカルピスが用意されているだろうことを思考することは容易だ。ぼくはドラム缶目掛けて一直線に走った。言い忘れていたが、ぼくは彼らのことを知らない。いつだってぼくは孤独だった。孤児の限りを尽くしたという主張はさんざ母親にしてきたつもりだが、これは安直な人間にありがちな誇示とは言えないのだ。なぜならぼくは運命づけられていた孤児なのだから。母親は曖昧な顔をしたいようだった。しかしぼくの反誇示的孤児力に気おされ、見事、日夜家事に励んでいる。ありきたりな主婦の嗜好として不倫相手との性交があげられるが、孤児であるぼくはその役を買って出た。このことは伝説として語り継がれる。息を切らして走るあいだに、持久走について考える余裕が生まれた。持久走と言えば、思い出なんかない。母親の乳は土星のようだった。思えばぼくの光輪も母親の土星おっぱいの影響下にあるとも言える。要出典といったところだろう。孤児としてのぼくは父親の馬並みに大いなる関心を寄せた、と田中。田中は天に上るあいだ、さまざまな事を考えた。全部忘れてしまった。無能の田中だから責めるにも責められない。この孤児相手に観測者を演じようなんて買いかぶりすぎもいいところだ。要出典といったところだろう。いや田中に限って、そんなことありはしないだろうが。馬並みだが、こいつは立派な馬並みだ。まったく。数々の鮮血を浴びてきたのだろう。ほれぼれするくらいありきたりな主人の嗜好として不倫相手との性交があげられるが、孤児であるぼくはその役を買って出た。このことは伝説として語り継がれる。まるでぼくは、英雄じゃないか?
 ドラム缶にたどり着くと、ぼくは死んでしまったろくでなし二名(もう名前も忘れてしまった)に向けた適当な南無阿弥陀仏を嘲笑気味に浴びせた。
「まったく不快極まりないです! まったくもって話にならない!」
 孤児としてのぼくは鋭利な刃物でドラム缶を開けた。ぼくの脳内には言葉が満ちていた。ドラム缶にはありとあらゆる富が築かれているのだろう。だが孤児としてのぼくの脳内も負けちゃいない。だって孤児だもの。気品そのものである脳内。祝福と優麗さ以外の何物も寄せ付けない聖域に溢れる言葉「ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……巨大なヒップ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボシタ……ボボ……」
 
 
 
* パネルマジックのこと。

下降と底 村上春樹、灰羽連盟、マギアレコード

無意識が下降するイメージの先にあるということは、村上春樹に顕著だというと、ユング派がしゃしゃり出てくる。

ここで触れる村上春樹というのは、『ねじまき鳥クロニクル』のことだ。

偶然か必然か、母集団の多さか、下降して無意識(のようなもの)に触れるイメージに触れる機会が頻発している。この間読んだ『資本主義リアリズム』にもそれがあった覚えがあるし、いま観ている『灰羽連盟』、『マギアレコード』これらにも下降のモチーフが使われている。

灰羽連盟』に下降のモチーフが出てくるのは、一番はじめの、人間と思われる実体が落下し、後にそれが灰羽という種族(?)になる前に必ず見る「夢」のひとパターンであることを、視聴者は知ることになり(この実体はこの夢を完全には覚えていない)、それから「鳥」という回で、落下した少女=ラッカが、カラスに導かれて井戸の中に落ちる、この二つが大きな場面だと思う。その後、ラッカは話師ととんち勝負をし、レキという金ピースをイムコで吸うお姉さん的少女が患う同じ病から、解放されることになる。

『マギアレコード』では、物語の中心人物である環いろはが重篤な状態になり、仲間の七海やちよにおんぶされながら、他一人の仲間を連れて魔女のような見た目の「ウワサ」から逃げている最中に、下降のモチーフがあらわれた。それとは環いろはの下降であり、下降している方向から、環いろはに似た人物が迫ってくるも、彼女は白いお面をしているようで、奇妙な笑みを浮かべる顔のパーツは黒くくり抜かれている。環いろはの髪が伸び、まるで魔女のような姿になった環いろはは、環いろはの肉体を逆さに吊るし、さっきまで逃げていた「ウワサ」をついばみ食い漁った。完全なる魔女ではないらしく、「ウワサ」をある程度食べつくすと、環いろはは環いろはの肉体と同一になり、魔女は巴マミが討伐した。巴マミは環いろは見て「人間に化けている魔女ではない証拠」を求めたが、簡潔な事実は得られなかった。

この二つは同じモチーフを使いながら、全く違うものを指していると考えられる。

灰羽連盟』は、「夢」をよく覚えていない灰羽がなる病=罪憑きになることの阻止として、灰羽たちが暮らしている壁の、内と外を行き来できる鳥(カラス)に呼ばれ、井戸へと落下するあいだに夢を思い出し、鳥(カラス)の死骸の墓をつくった。これは消えたもの=記憶にないものへ近づいたことであり、この落下のモチーフがこれらの象徴であることは言うまでもない。

『マギアレコード』は、消えたもの=記憶にないものとなってしまった、環いろはの妹、環いろはを探すことを主軸に話が進行していて、環いろはが魔女のようになったのは、口寄せ神社の「ウワサ」によって、環ういの実体を接触したからだった。もちろん、この環ういには「(仮)」が付く。「神浜市に行くと魔法少女は救われる」という文句を言うだけの、電池が切れかかったロボットのようだった。

このモチーフの二つのパターンを追っていくうちにわかるのが、村上春樹の下降(ここでは井戸のイメージと同一)のモチーフとは異なったものであるということだろう。

村上春樹の井戸は、下降のモチーフを必要としていない。物語そのもので下降が進行しているために、「井戸への落下」という部分にはフォーカスされていない。井戸のでの事件にフォーカスされている(「水」のイメージで書かれた、ということにも繋がる)。対して『灰羽連盟』の下降は、落下そのものに物語が付随しており(落下する「夢」を見た少女の名が、「ラッカ」となったことに関係しているだろう)、井戸の底での事柄は、死骸の発見-話師の教え(とんち)へと繋がるものだった。興味深いのは『マギアレコード』では、村上春樹や『灰羽連盟』にあった、「落下の底」というモチーフがあらわれていないということだと考えられる。「落下の底」があらわれてしまったら環いろはの物語が終わってしまう、と考えることもできるだろうが、話はそこまで簡単なものではないだろう。自分(環いろは)に酷似した実体が進行報告から迫ってくる、という事態は、「環いろはの下降は、下降しているのだろうか」という問題に繋がる。

ここで状況を整理すると、


村上春樹:下降そのものの欠如・落下の底(井戸)での事件

灰羽連盟:下降そのものの価値・落下の底(井戸)での事態

マギアレコード:下降自体の不安定・落下の底の欠如


ということになる。

この流れは一体なにをあらわしているのだろう。暫定的な答えを考える。それは無意識を意識した場合に、無意識から失われる無意識性なのではないか。

マギアレコードから鳴る音に耳を澄ます。この平面は、始点と終点が結ばれず渦巻きのまま、埃と摩擦でざらざらと音を立てて消えていく。渦巻きというのは井戸ではない。どこまでいっても終わりがない、空想の始点と終点が限りなくかけ離れた状態が渦巻きだ。その針が上がると、我々はレコードをひっくり返す、B面の渦巻きは、A面の渦巻きと交わることがない。

空箱 2019/5/6

吹奏楽しててー、うん」

「そうなんだ、俺も楽器上手くできたらなあ。なにやってたの?」

「ホルン!」

「ホルンかあ」

「うんー。そう」

「うちの友達にもホルンやってるやついたよ」

「へえ〜」

 小野さんは顎を心持ち前に出して体全体で頷いた。右手でシャープペンシルのキャップを外し、左手でゆっくりとペン先をいじっている。

「ホルンって言ったらヒンデミットとか? だよね」

「うんうん」

「そのくらいしか知らないなあ。あとはモーツァルト?」

「うんうん、そうだね」

「有名だよね」

「そうだね」

 学生が続々と集まり、俺たちの背後には男子連中が陣取っていた。俺と小野さんが座るとなりの席は一つ空いていて、中国人の女性が座っている。首を傾げて薄いファンデーションが塗られた頬の稜線を撫でていた。大きい丸眼鏡の奥には、胡桃ほどの大きさの目が薄く開かれていて、無機質な教室の机を眺めていた。彼女が座っている椅子はやけに軋んで、座りなおすたびに嫌な音が鳴る。俺たちは話し続ける。

「うーん」

「……」

「ホルンってなんとなくわからない楽器なんだよね」

「うんうん」

吹奏楽? ではどのくらい行ったの?」

「県南一位だったよー」

「おおすごい」

「えへへ」

「じゃあ有名なんだ」

「まあね、金綾高校とかはほんと強いから、負けちゃったけど」

「そうかあ」ことさら残念そうにため息混じりで言った。「でも、すごいと思うよ」

「だよねーへへへ」

YouTubeにあるんだよ」

「へえ」

「水戸学の演奏」

「あとで調べて聞いてみるよ」

「うん」

 後ろからビニール袋の擦れる音が聞こえる。続いてペットボトルの底が跳ねる音、紙の箱が鳴る音。

「買ってきた」

「ナイスう」

「あとで払うから」

「うい」

「バボラーク」

「え?」

「バボラークが好きなんだ」

「ごめん、俺そこまで詳しくなくて」

「バボラークが演奏してるホルンが好きなんだあ」

「へえ、聞いてみるよ」

「音色が綺麗なんだよね」

「そうなんだ」……「どんな音色?」

「なんというか、柔らかい?」

「ほうほう」

「とりあえず聞いてみるよ」

「聴いてみてー」

「ほいじゃ、講義はじめよかー」

 

「あいつ、頭おかしいよ」俺はベッドの上で必死に説明しようとする。この大げさな身振り手振りで何度も女から馬鹿にされている。体を横に向けてその垂れ下がった乳房を愛おしげに腕で押しながら、俺の腕を微笑みながら見ていた。

「ひどいよね」

 女は嘘っぽく笑いながら言った。

「君の方が断然頭おかしいから」

「いやだって」

「まず女の子のことを頭おかしいなんていうとか、信じられない」

「いやいや」

 女は体を揺らす。ベッドが甲高い音を立てて軋む。

鼻にかかった笑い声が聞こえ、女が静かになるのを待った。「えへへへへ」

「なんかさ、変なんだ。掴み所がないって感じじゃない。掴もうとしても掴めないんじゃなくて、もともとそこにないみたいな感じ」

「おっ、文学少女ですねえ」

「うるさい」

「こう考えるのはいい。でも彼女は一切そんなことを考えていないんだ」

「処女だね」女はえへへと笑っている。

「少なくとも誰とも付き合ったことはなさそうだよ」

「少なくともの使い方おかしい」

「これは失礼しました」

「かわいいね」

頭を撫でられた。

 女は口元に笑みを浮かべている。目が細まり顔をかくんかくんと動かして、何度もえへ、えへ、えへへと笑った。それから次第に目を閉じて、唇を俺に突き出した。キスをした。女の唇から顔を離し、女の紫髪を眺めていたら「もう一回」と言われ、また唇を重ねた。女の唇は顔のへこんだ位置にあった。だから、首をよく傾けないと上手く唇を合わせられない。その唇はかぎりなく薄く、親のせいで地元から出れないでいる、とある女の子*を思い出させた。女は強引に舌を入れてくる。「もっと触って」女が耳元で囁く。左手を女の右の乳房にあてがい、体全体を滑らせるように触れる。すり鉢状の一番奥で俺はあの女の子を求め、女の子は俺を一度も求めなかった。「挿れて」女は体をくねらせて柔らかい陰茎に手を添える。俺は尿意を感じていた。

 

 俺はコンクリートを歩いていた。家に帰ることは簡単だった。生まれ育った場所ではないけれど、住んでしばらく生活していると迷うことはできなくなっていた。片側一車線の大通りをただひたすら歩いていた。無心に歩いていた。数えきれないほどの電柱が剪定され、同じ長さになっている。蜘蛛の糸が垂れ下がっていた。もちろん電柱からは電線が伸びている。ハイビームをたいた軽自動車がカーブの終わりでスピードを上げた。轟音と共に風が俺の髪を吹き上げた。

 通りを左に曲がる。車道側を向く電灯が見えた。この通りは細く、ろくに舗装されていない砂利道で、砂利の中にはダンゴムシやワラジ虫が顔を出していた。ワラジ虫をつつくと触れた指から逃げていった。後ろから来ていた軽自動車に轢かれた虫がいるかもしれない。死骸はどこにも見当たらなかった。俺は立ち上がって手を払い、ダンゴムシを踏み潰してそこに死骸があることを確認した。

 

「おもしろい話ってなによ」

「えぇ、おもしろい話かどうかはわからないけど」実里は肩を丸めてスマートフォンを覗き込んでいる。「ちょっとまってね」

「うん」

 ついさっきスーパーで買った240円程度のビールを開けた。缶はひんやりとしていた。プルタブがめり込むと泡が飛び出て、俺はそれを慌てて啜った。

実里はスマートフォンの画面を下へ下へとスクロールしている。

 白い泡を啜った勢いでビールを飲み込んで、心地よい感覚のなかで揺られている。

 ネイビーの絨毯の上には白い食べかすのようなものが浮かんでいて、俺はそれを手で払った。目線をあげるとデニール数の低いタイツが見え、それはデニムのショート・パンツに続いている。

「俺、トイレ行ってくるね」

「はーい」

 ヘアゴムで何重にも巻いた髪の上に、深い赤のリボンが飾られていた。ポニーテールの実里を上から見た。深い赤のリボンは傾いていて、真後ろからでは高すぎてリボンはうまく見えないだろう。

 実里はスマートフォンを眺めている。

 用を足して部屋へ戻ると、足を崩した実里が逆さまにしたスマートフォンに指を差していた。

「これ」

「見てみるよ」

「見ればだいたいわかる」

「見るよ」

 とりとめもない会話が流れている。女が二人と男が一人。貞操の感覚も薄れてきた女性の無味乾燥な言葉を勘違いして、道化になっている哀れな俺の友達。

「こいつ、何度も話ぶりかえしてくるね」

「そうー。わたしは元彼の話をしてるのにいきなりさあ」

「笑っちゃうな」嫉妬のような、甘美な感情の揺らめきを感じていた俺は甚だ興味が失われてため息をついた。アルコールの匂いがした。

「ディープキスでこんな反応してるのウケるね」

「それな。ディープキスなんて大したことないのに」

 実里は愉快に笑っている。その度にサイドの髪が揺れた。

「3Pしてないんでしょ?」

「うん、まず機会ないしね?」語尾を裏返るほどつりあげてそう言った。表情を変えずに体を前に出して真っ直ぐ前を向いている。

「だよね」

「うん。非現実的だよね」

「仮に3Pするとしても……」

「ふふふふっ」

「戸惑うだろうな、扱い方わかんなくて」

「どうしたらいいんだろうってね」

 俺と実里は笑いあった。

「おや、ダブルフェラされたいとか言ってますね」

「まあそういう話だけならいいんだけどさ?」

「害はないしね」

「そうそう」

「それにしてもあんたら二人は〈おん〉って……」

「そそ、適当でしょ?」

「見ててこっちがかわいそうになってくるよ」

「ふふふふっ」

 俺はビールを一気に飲み干して、絨毯にへたりこんだ。実里の足がそこにあった。頭を乗せるとじんわりと暖かくて柔らかかった。実里は俺の頭を撫でた。髪を固めていたから、崩れないか心配になった。次第に俺は眠りこんでいった。

 

「ん」

 実里のかすかに動いた足で目が覚めた。

「寝ちゃった」

「おはよう」

「ごめんね。痛かった?」

「んーーん、大丈夫」

「そうか」

 俺は可愛げに目をこすった。実里はスマートフォンの画面を見ていた。

 興味ありげにその画面を覗き込んで実里の体に近づいた。清潔な匂いがした。抱きしめた。実里は俺の頭を撫でた。

「細いね」

「そう?」

「50kgもないでしょ」

「まあね」

 アルコールが抜けていく。頭が痛かった。ふらふらした。実里の細い体を抱きしめて暴風を耐えしのいでいるみたいだった。

 実里は穏やかに足を動かしてクッキーを食べた。お腹が鳴ったら恥ずかしげに足を動かした。

 顔を上げて実里の首元にキスをした。「ねえ」「ん?」実里のマスクを外した。俺と実里はキスをした。実里は俺の方へ顔を向けていた。俺は実里の頬を手のひらで触れ、愛おしくその首元に手を当てた。なぜだか胸を触る気にはならなかった。

 つかの間の愛のようなものが終わると、俺は実里の小さな胸と胸の間に顔を埋めた。実里の小さな心臓が大きな音を立てて早く鳴っていた。実里を見上げた。

 実里は変わらずにクッキーを食べてスマートフォンを眺めていた。ひとしきり咀嚼するとマスクを元に戻した。俺は穏やかな心音を聞いた。

 それから俺と実里は話さなかった。陽光の中のような昼下がりだった。

 俺はもう一度キスをしたくなって、キスをした。

「ねえ」

「ん?」

「セックスしようよ」

「んー」

「……」

「やだ」

「やだかあ」

「うん」

「ひどいね」

「どうして? ひどくはない」

「だってセックスとかしたければどうぞなんでしょ?」

「まあね」

 俺は実里の足に頭をつけた。

 ああ、生理? うん。ごめんね。んーーん、大丈夫。ごめんよ。

 それから三十分後くらいに俺は言った。「いつか君とセックスがしたい」

 実里はあいも変わらず正面を向いて「別にいいけど」と言った。

 

「じゃっ、そろそろ」

「ああ、帰るのか」

「おじゃましましたー」

「ちょっとまって早い」

「帰るときは早いのです」

「それにしても早すぎる待って」

 家の扉が閉められ、実里はその向こうで歩いていた。俺は財布と携帯を持ち、眼鏡をかけて家を出た。実里はすたすたと歩いていた。

「なんでこうも待たないの」

「いやだって帰る道わかるし、ほら電車来ちゃうから」

「いやでも、送るよ」

「そう」

「君って変だよね」

「そう?」

「そう言われないの?」

 言われないなあ、と実里は笑って応える。

「うそつけ」

「うそじゃないよお」

「こんなすたすた帰る人はじめてだよ」

 線路沿いに傾いた太陽が薄紫の光を湛えて輝いていた。レジ袋を持った主婦が頬と眉間にしわを寄せ、つらそうな表情で歩いている。

 俺と実里はしばらく無言で歩いていた。

「あのさ」

「んー」

「そういうはなしって、よく相談とかされてた?」

「いーや?」

「あ、そうなんだ」

「うん」

「いやね、俺はそういうはなしを中学からずっとされてたの」

「うん」

「こいつなら話せる、話してもいいや、信用できる、みたいにね」

「あー」

「それで聞いてるとさ、あまりにもひどいパターンとかもあるんだよ」

「へえ」

「例えばね、夫婦別居してて普段生活してるお父さんの家はほとんどゴミ屋敷で、お母さんの家ではお母さんとその愛人が暮らしてる。で、中学生のその女の子は毎日そこを行ったり来たりしてる」

「ほう」

「すごいよね」

「すごいと思う」

「こういうのをずーっと聞かされてたわけだよ」

「君が望んで聞いてるんでしょ?」

「鋭いね」

「まあ」

「そういう話を聞いてるとさ、聞いてるのはそりゃ楽しいんだけど」

「うん」

「自殺するだとか不倫するだとか、そういうのもただの出来事にすぎなくて、例えば石ころを蹴るのと同じ出来事みたいに思える」

「あー、わかるよ」

「わかる?」

「うん」

「なんか、自分で自分を試し続けてるみたいだなって」

「ふーん」

「ふーん、だよね。なにも言えないよね、まあ適当な答えを言われるよりかはいいよ」

「ふふふふっ」

「あいつにはそれができないからな」

「あー」

「そろそろだね」

「うん」

「今日はありがとね」

「うん」

「よかったらまた来てね」

「バイバイ」

「バイバイ」

 

* のちに知ったことだが、あの女の子は看護学校に通っている。彼女のことだから頑張りすぎていないかと心配になった。そのことについて彼女と話していると、彼女は「私は忙しいのが好きなの」と真面目な顔で言った。会話のうちに彼女が休学中であり、いまは夜の仕事の帰りであることを知った。大人びていた。老けていると言ってもいい。おふざけで、彼女は笑いを堪えながら、俺の目元にアイラインを引いた。「気持ち悪っ」と言っていた。

これから終るものへ

  剥がれかけた塗装をじっと見て、板の角だけが綺麗にささくれ立っている。座れる箇所では相合傘や暴言として剥がされている。ところどころ住所や名前、電話番号も書いてある。見覚えはないのに懐しい顔が描いてある。聞いた話だと、ここはもう少しで新しく塗りかえられるらしい。今度は何色になるのだろう、と話していた。青だろうか。いや、赤じゃないか。さすがに赤はキツいんじゃないか。その赤じゃない、もっとくすんだ赤じゃないか、赤茶のような。それなら浮かないな、いいアイディアかもしれない。
 ささくれ立っていながら、手をあてがってみても不思議と痛くはない。手を離し、目を凝らしてその角を見つめる。やっぱり、数本だけ突き出ている。そのうちの一本をつまんでみる。素材は硬い。それでも痛くなくて、しかも触り心地も塗装がしっかりしているところとたいして変わりはない。不意に角に体重をかけてしまったような場合を男は何度か試した。四方八方から体重をかけても、まったく痛くない。不思議に感じ、わざわざ逆手で角に触れてみたら、親指の付け根に数本刺さってしまった。薄い皮膚が破られ、全部がめり込まず、引き抜くことができそうなくらいの長さは見えている。しかし、木片じたいが皮膚に栓をしているために、少量の血は親指の付け根から流れ出すことなく、皮膚とその内側で滲んでいる。皮膚ごしであれ、血が見えていても、全く痛みは感じない。それぞれ近くに栓がされていて、内側で広がる血が合流し、そのものは大きくなっていく。それでも栓はされているから、血が流れない。そして痛くない。
 じっと眺めていてもしょうがない。その栓たちを抜くために血の滲んでいない片方の手の指を、皮膚が破られた手に添え、顔を栓に近づけていると、
「どうしたの?」
 と声をかけられた。
「あ、ああ、このベンチのささくれで、すこし怪我をしてしまったんだ」
「大丈夫? 大丈夫! 絆創膏、持ってるんだあ」
「いや、絆創膏じゃ、さらに痛くなる怪我なんだ。でも、ありがとう」
「絆創膏で痛くなるの?」
「なるんだ」
「どうしたの?」
「いや、ベンチの角に手をかけたら……」
「血は出た?」
「出たよ」
「じゃあ、絆創膏しなきゃいけないよ」
「でも……」
 大丈夫! そう言っているあいだに男の手を取り、こんなときのために、持ってて良かったあ、とつぶやいた。包装紙を剥がして、親指の付け根に絆創膏を貼った。何かのキャラクターが描かれている絆創膏だった。これでよし! 威張って声を出し、やるべきことができたというように微笑んで少女は男の顔を見ていた。
「いいのに、でも、ありがとう」
「いいえ! きっと、すこししたら治るよ!」
 得意げに頭を下げた少女のポケットから、丸まった絆創膏の包装紙が落ちた。
「治るといいね! でも治るよ、お母さんが言ってた」
「そうだね、いいお母さんだ」
「でも、すこし厳しいんだ」
「すこしの厳しさは君のためになるはずだよ」
 このあたりが静かになったのは日が暮れてきて車も走っていないからだろう、と男は思っていた。でも実際には車がぶんぶん走っていたし、このあたりで電話をしながら犬の散歩をしているおよそ成人は迎えているであろう短髪の男や、下を向いて砂を蹴って歩いている女の子とそのお母さんや、下校途中のカップルや、ひっきりなしに会話を続ける女性たちがこの場にはいた。あたりを静かに感じたのは、ついさっきまで少女が意気揚々と話して微笑んでいたのに、ふと黙り込み物思いにふけるような表情になったからだった。微笑んでいた少女にぐいと手を引かれ、不自然な姿勢になっていた男はそのまま少女を見るともなく眺めていた。絆創膏が貼られた手の爪より下に目線をあずけている少女がまた突拍子もなく、
「そうだね! ありがとう!」
 と叫んだ。
 このあたりを歩いている彼らの話し声はちゃんと聞こえるが、その内容は分からなかった。しかし少女のそうだね! ありがとう! と言う声が聞こえると、男と少女、そのあいだを代わる代わる興味ありげに一瞥した。それから、
「あのね、思い出したの。わたしよりすこし歳下の女の子が、すごい絆創膏を発明したの。それはね、あの、あの、テープ、あの、紙とかを貼る」
「セロハンテープ?」
「セロハンテープ?」
「透明で、表がつるつるしてて、裏がべとべとしてて……」
「あ、身体につけちゃうと硬くってコチコチになっちゃうやつ!」
「そうそう」
「じゃあ、スコッチテープのことだ! でね、わたしよりすこし歳下の女の子が、すごい絆創膏を作って、それが、スコッチテープみたいになってるの!」
「知らなかった。いろんなところ怪我しちゃったときには便利だろうね」
「だからわたしほしいなって思ってるの。あ、でもあの女の子はアメリカの子じゃないから、スコッチテープじゃないかも。たぶん……オーストリア? オーストラリア? だったかな」
「もしオーストラリアだったら英語がつかわれてるはずだから、たぶん、そのスコッチテープでいいと思うよ」
「そっか! じゃあよかった! ありがとう! 治るといいね!」
 男の手に優しく触れてから軽く礼をした少女は出口へ走っていった。
 あたりはもう暗くなっていた。あの少女が見えなくなり、いっそう静かに感じるのだろうと男は思っていたが、ポケットから落とした絆創膏の包装紙を注視しているあいだ、不思議とこのあたりの音が気にならなくなり、さらに夜が更けていくなかで板の角のささくれが親指の付け根に突き刺さっていることも忘れていた。寒々しく閑散としたこのあたりに吹く風が雑草やブランコを揺らしていく。どこからか流れてきたチラシがベンチの近くの紅葉の木の枝に引っかかりばたばた音を立てて、しばらくしてから地面に落ちていった。軋みながら少しずつ動くシーソーの両端に人影が見える。その人影はシーソーで遊んでいるというよりかは、とりあえず座っている様子で、規則的な軋みが終わると片方の人影がもう一方の人影に近づき、しばらくしてからまた元の位置に戻る。次に繰り返されるのは規則的な軋みではなく、地面から少しだけ突き出ているタイヤを踏まず音も鳴らない緩やかな運動だった。片方の人影がシーソーの上に立ち、それの後を追うようにもう片方の人影もシーソーの上に立つ。するとガコンガコンと老朽化した遊具から、今にも壊れてしまいそうな音や、強く踏みつぶされたタイヤからかすかに空気が漏れ出す音が鳴った。片方の人影はその遊びの中で突然とびあがり地面に着地した。その人影の予想はできていた反応で、もう片方の人影も飛びあがろうとするも、急に足場が下がったためにうまく板を踏みしめることは出来ず、空中に放り出されたような形でキャーッと叫びつつ地面へと放り投げられた。
 人影たちは互いに笑いながら出口に向かっていった。キャーッという叫びによって眠りから起こされた男はその驚きとこのあたりにはなにもなく、誰もいないことを確認したのち、再びベンチに横たわりポケットから丸まった包装紙を取り出して、しばらくそれを眺めているとすっかり眠りについてしまった。