1
断片の幽かな反射
五時四十五分と少し、薄ぼんやりと光を纏った空気は、丸みを持って部屋にとどまっている。煮凝りのような半透明さで、空気の方向が分からず、それぞれが好き勝手に動いているが、壁同士が直交する場を除いて、この角ばった空間からは出られない。壁と壁の隙間に注目すれば、そこは空間を繋ぐ通路とも思える。通路の先には玄関までの廊下があるのみだが、廊下も空間の一つだろう。廊下を通って玄関には、ピザや学習塾のチラシを下敷きにして、一足の靴が置いてある。「これをのむと、高く跳べるようになるんだ」。絶え間なく回る頭上の換気扇が、涼しげな印象を送り込む。羽の動き続ける通路で、生首が換気扇と同じ動きをする。懐かしい人間の顔が近くにある。「これをのむと、高く跳べるようになるんだ」。
2
六時三十分、瞼の上がじくじく傷んだ。身体を押し上げようと試みる。肩と瞼の痛みは同期しているようで、上体を少しでも動かすと、瞼の裏に鋭い星が瞬いた。これはかなしばりだ。そう気づいた頃には、既に目ははっきりと開かれている。それでも、瞼は傷んだ。
懐かしい人間が、いったい誰だったのか、全く思い出せそうにない。確か、数年は顔を合わせていないだろう。彼とどこかへ行ったことはないはずだ。そして、なにかについて熱を入れて話したこともない。ここまでくると、大方の予想はついた。高く跳べるようになった自分は、はじめにどんなことをするだろうか。深い夜の中を漂う夢の断片では、高く跳べるようになると、彼を追って、ショッピングセンターの欄干に手を掛け、三階から二階へとびおりていた。都合が良いのか悪いのか、着地の記憶は見当たらず、とびおりには痛みは伴うものなのかどうか、知ることはできなかった。
足裏から、布団の湿りを感じる。よほど夢がつらく、汗をかいていたのだろう、着ている寝巻は、人の形に温かみを帯びている。
3
眠りから目覚め、人間を覆っている布団と一緒に起き上がるまでの時間。淡いよろこびが、ビビッドな皮膚感覚へと推移するまで。確かな感覚をもっていないはずなのに、たくさんの思考のひと景色が、目まぐるしく通り過ぎる。視界が揺らめきながら枕元の時計を見る。
4
ティッシュ、イヤホン、薬瓶、ペットボトル、調味料数個、カップラーメン、櫛、ゲーム機、処方薬、本たち。
5
目を擦る。まだ瞼が痛み、右肩には違和感が残っている。残像、ではなく、身体の内部から痛みを感じる。胃が空白のようなものに圧迫されている感覚。数時間前に過剰摂取した薬が、身体にあるのだろう。吸い込む空気にも、吐き出す空気にも、違和感がある。副作用で口のなかが渇いているのだ。ベッドの下から、液体の入ったペットボトルを取ってくる。ベッドの下には、からになったペットボトルがたくさんある。
「あ」
声は掠れていて、他人の声のようだ。緑茶をペットボトル半分以上飲んだ。
「あー」
「やっぱり、遠いな」
音は、口蓋に潤滑油が塗られているように滑り落ちてくる。ペットボトルの飲み口というのは、でこぼこしている。キャップの裏は、ざらざらしている。
6
ペットボトルをしめた。
7
雨の音がする。これはおかしなことだ。
8
廊下から換気扇の回る音が聞こえた。部屋に洗濯物を干している。眠りに就く前と同じ風景だ。胃と瞼が多少ひくひくしていること、カーテンの隙間から光が漏れていることを除けば。口内と肩の違和感は、知らないうちに消えていた。ベッドから立ち上がると、瞼の痛みも無くなっていて、光が邪魔だから雨戸を閉めようと思ったのに、夢の断片が刺さって、また、ベッドに座り込んだ。彼は、黒縁で厚みのある眼鏡をしていた。そして、夢のように、気さくに話しかけられた覚えはなかった。いつも、誰かとセットでなにかを指示されていたように思う。だから、夢の光景は異常だった。
首元の生え際をかく。かいた爪のにおいを嗅ぐ。爪のなかに、黒みがかった垢がたまった。湯を浴びないで二週間は経った。薬のせいもあるが、身体が痒く感じた。外に出るわけでもないから、特に問題はない。歯も磨いていない。でも、垢のにおいは分かる。体臭は分からない。洗濯物からはもう何のにおいもしなくなっている。
9
最後に外出したのは、どんな用事のためだっただろうか。夢の断片と、現実の断片が入り混じっている。断片たちの場は、ここにあるのだが、際限がない。平滑な面が輝く角度でしか、それらは見えないし、見えているとき以外は、断片の雰囲気すら思い出せない。
夢というのは、一本の光線がえがいた一通りの軌跡なのではないか。断片というのは、鏡であって、その軌跡は、眺めることしかできない。現実は、断片の角度を傾けることが出来る。光の道筋は変更可能だが、夢と同じく、一通りしか経験できない。本当だろうか。夢想というのは、経験に含まれないのだろうか。
10
いま、おかしなことに雨音が聞こえる。この雨音が、断片の場にこだましているように感じるのは、断片の場は雨のことだからかもしれない。夢想する。彼と気さくに話せている情景を。
11
か細く高い音がこめかみで鳴っている。本棚に、ひとつの面が平行四辺形になっている石が置いてある。この石を舐めたことがある。ある河原で見つけた。石にうずもれて流れる川は、そのとき静かだった。川の流れよりも大きい音が聞こえていた。このか細い音がそれだ。森の一部から川辺に突き出た大木で湾曲した、土交じりの水が多い箇所には、森に対抗するかのように大きな岩があり、岩は大木の影になっていた。その影で、川の音を聴いていると、次第に雑多な音が一本になっていく。音を吸収する音だと気が付いた。立ち上がっても、靴と岩がすれる音が、一本の甲高い音に吸い込まれていったからだ。音は、岩の影になっていて、ひっくり返すと虫がたくさんいるような、中くらいの石のさらに下から聞こえる。そこに、平行四辺形の面がある石があった。石を手にした途端、川が轟々と流れて行った。石には雨のような色をしたところがあり、試しに舐めてみた。甘くはなかった。むしろ苦く、薬草の味がした。
家で苦い部分を丹念に洗った。汚れではないのだから、無くなることに期待はしていなかった。それでも、落ちた。次の瞬間、この石を持ち帰ったことに気が付いた。
12
雨音が消えた。ペットボトルをしめた。九時、嚥下する。今のんだ薬は、病院で処方されたもので、記憶を辿ると、その通院が最後の外出だった。
「ナギサさん」
名前を呼ばれた部屋に入る。
13
九時ということもあって、外が騒々しい。雨戸を締めているし、雨音も消えたということもあって、普段ならほとんど無音で過ごせるのだが、今日に限って騒々しい。そう感じるだけなのかもしれない。人間が活動をはじめた音が、地上の各地で鳴っているような感じ。あるときから人間が怖くなった。なにかのきっかけで、海外の見知らぬ人間に、手紙を書くことがあった。名前は憶えていないし、その人から届いた手紙は、紛失してしまった。内容は、もちろん忘れている。どんな事情で手紙を送ったのかすら、全く記憶にない。
ただ「ハロー ナギサ」と書かれていたことが、印象に残っている。「ナギサ」。この名前を、海外にいる、「ナギサ」と面識のない人間が書いたということが、どこか突っかかっているのだ。
14
医師は、
「まあ、人それぞれ考え方があるから」
と、二三回言った。この記憶はなぜか「ハロー ナギサ」の記憶と結びついていた。
こう整理してみると、思いつくことがあった。「ナギサ」は、考え方には、左右されない。名前は、それだけでは、一通りなのだ。名前を持たないもの、それは、何通りなのか。例えば、彼が、名前を持たないものだったとする。彼とは、仲良くなれなかった。でも、夢では仲良くしていた。名前を持たない彼は、いったい何通りだろう。
夢想は、名前を持たないものとする。
夢想は、特性を持たないものとする。
特性を持たないということは、存在しないということだ。
15
コショー、割りばし、詩集。
16
頭を垂らして、何も考えることがない、とテーブルの上の詩集に手を伸ばす。ここ一か月、本を読むことができなくなっている。本を開き、頁をめくる動作や、文字を追うことが嫌になってきた。全てが作法のように感じるのだ。本を読む、つまりは、なにかがある。それは、良いもののほうがいい。そのために、お行儀を良くしなければならない。ちがう。喉に突っかかるものがある。良いもの、感動は、ある程度、お行儀を良くしないと、得られないものなのか。いつかそんなことを考えていた。それから読めば読むほどその考えが大きくなっていき、ついには、読めなくなった。最後の方は、あがきのようなもので、詩を読んでいた。いま手にしている詩集が、それだ。開いて、読んでみようか。そんな気が湧いてきた。もしかしたら、読めるかもしれない。表紙を見つめていると、両耳の奥が一つの穴へ、捻じれながら吸い込まれていく感覚がして、身体全体も後ろへ、後ろへ、と引かれるようになり、下顎が限界まで下がった。めまいでも起こしたように気持ち悪くなり、詩集をテーブルに戻すと、ある程度良くなったが、おかしな感覚の余韻で、もしかすると、良いというもの、感動なのではないか、と考えることができた。反対に、思いつきにすぎない、とも考えてしまった。
そう、これなのだ。まさに本を読めなくなった理由というのは。
詩集に、コショーをふりかけた。
美しかった。それはテーブルの上だ。
17
近くを泳ぐ空気の群れが、頭に浮かんだ断片と同じように、よそよそしくも、親しみがある。群れは、透明な姿で、においさえ持っていない。刺激閾を遥かに下回る運動は、静かに淀む、空間の色彩。断片の気配は常に感じられる。断片は場にあり、場とは空間だ。ここには瑞々しい空気はない。瑞々しい空気、それ自体、言葉にのみあることを許され、言葉に当たる光が、戸惑うように、辺り一面に飛び散っていく、その光のいくつかに、それを感じる要素があるという事態なのだ。そう思っている。中でも色彩は、夢に相似していた。色彩を顕すことは、色彩がある場で、か細い光線が、真っすぐ突き刺さる。飛び跳ねる光線の軌道は、来た道を描く。ここで注目していることは、来た道と帰り道が同じであることと、場に、何があるのかがわからないこと。色彩は断片を持たない、色彩が断片に従属している。だが色彩の場は、断片の場に繋がれながら、どこかの時間ではチューブが切り離される。同じ道を通るのは、その場の特性なのかもしれない。特殊さと断片は相いれない。それにしても、この光線の軌道というのは面白い、もしかすると0通りという言葉が最も似合うのではないだろうか。だから夢では詩が生まれない。コショーをふりかけた詩集は、だいぶ気に入っていたもので、詩に現れる全ての言葉が脱臼していた。脱臼した言葉を生み出すことは簡単だ。簡単じゃないのは、脱臼させたままにしておくことで、しかも、保存することが最も重要なのだ。「ハロー ナギサ」と結びついた記憶に、この詩集に並ぶ三つ目の詩は、
アパートの屋上にはアスピリンがほしてある
とはじまる。
18
カップヌードルを食べる、十一時になっている。手を頭に乗せた。緩やかなうねりが軽く束になっている。癖が付いているのは生まれつきだ。油で固まっている髪に、虱のたまごでもいるんじゃないか。
19
むかしのゲームがすきだ。理由はよく分からない。平行四辺形の石を、雑多に本が並べてあるところから、カップヌードルとチョコレートの箱が乗っているテーブルに持ってきて、しばらく眺めていた。やがて音楽が聞こえてきたのだが、それにはしっかりとしたメロディーがあって、思い当たったのは、あるゲームの音楽だったのだ。
そのゲームの名前は思い出せない。でも、たしかシューティングゲームだったはずだ。むかしのゲームにはシューティングゲームが多い。自機がはじめ画面端にいて、ボタンを押した回数で、自機から弾が発射される。ちいさな頃によく遊んだものだ。のめり込むほどではなく、むしろ、シューティングゲームは苦手だった。音楽が良いゲームは、鮮明な記憶を持つようになる。元の曲の音質は関係なく、頭の中で鳴る音は、靄がかって聞こえる。
この部屋の淀んだ空気が原因かもしれない。思い立ってそのゲームを探した。いくら探しても無かった。仕方なく、他のカセットの端子部分に息を吹き込んで、ゲームを起動した。そのゲームも音楽が良かった。今ではプレミアが付いていて、だいたい中古相場は三万くらいする。そのゲームは、とても完成度が高いのにも関わらず、当時は全然売れなかったらしい。そのため、出回っている数が少ない。
テレビから流れる音楽。古いゲームでも、ゲーム性は古くない。そういえば、むかしのシューティングゲームのように、画面が横にスクロールするゲームは、無くなってしまったように思う。
思い出した。メタルファイターμというゲームだった。これも、今ではプレミアが付いている。というのも、このゲームは、対応するゲームハード会社から、発売のライセンスを得ずに販売されていたものだった。そういった非ライセンス品は、成人向けの卑猥なゲームだったり、他社の有名作品がたくさんプレイ出来るゲームだったりするが、これは正当なシューティングゲームだった。
それを買った場所も覚えている。
20
買った場所を出ると、黒いタートルネックを着た、たばこを吸っている女性が見えた。思わず話しかけたくなるほど、美しかった。女は、女が持つ頬をなでるような雰囲気を持たず、まるで生きていないように見えた。店外の喫煙所には女しかいなかったが、とてつもなく異質な人間に見えた。
不思議と、探していたゲームを手に入れたときの感覚は失せ、ゲームを買ってしまったからこそ、女に話しかけられなかった、と後悔すらしたものだった。
たばこは持っていた。でもその女の近くで吸う気にはなれなかった。女に近づくと、話しかけられる場所にいるのに、話しかけることができない、そんなもどかしさを味わうことが分かっていたからだ。
21
家に帰り、二万くらいで買ってきたゲームをプレイしている間、ずっと女のことを考えていた。
22
ゲーム自体に没入することができずに、音楽を聴いている状態だったからこそ、ゲームを失くした今でも、その音楽が残っているのだろう。ああ、音楽が良かったのではなく、あのときに考えていたことが良かったのだ。
23
女のことが頭から離れなかった。でも、会いたい気持ちにはならなかった。本でも読もうか、あることが集中を伴わないでたちこめている状態はつらい。読みかけの哲学書がある。難しいと呼ばれる本は、文章を言葉の単位まで咀嚼しながら読み進めることを要求するから、それには集中が必要だ。集中すると、女のことを忘れることが出来るだろう。あるいは、全く集中できなくて、文字が滑ってしまう。詩集を読むこととは、わけが違うのだ。ここで詩集を読むことはできない、女がさらに際立って感じるようになる。そうか、思い立って、ボールペンを持つ。課題のために開かれていたノートに何かを書こうとする。小説を書く。小説の中で、女と会話しよう。小説なんて、書いたことはない。でも書くべきだと思った。脳がはじけ、手が湿ってくる。紙を抑えている部分が、ふやふやになってきた。それでも書いた。書くべき、書くべき事柄が現れた。
意外なことに、小説を書いているあいだは、あの女のことを全く考えなかった。というか、なにも考えられなかった。しかも、出来上がった小説は、体験したかったこととは全く異なっていたのだ。小説を書こう、と思い立って、小説を書いたことが、間違いだったのかもしれない。「まあ、挨拶でも」とはじめに題名を書いてしまったことが問題だったように感じた。小説の書き方が分からない。あの女に話しかける術も、分からなかった。
24
まあ、挨拶でも
僕は吸血鬼だ……確かに吸血鬼だ。血が美味しいのだ。血がないと生きていけない。
試しに血を吸わないで過ごしてみた時期がある。僕は血のことで頭がいっぱいになり、死にかけた。
そして僕はいま血を求めて喬木林をうろついている。ここは穴場で、この時間ではよく気を病んだ人間が茂みに腰を下ろして唸るようにひとりごとを言う。
同じ人間なのかどうかは分からない。気にすることもない。血が吸えるのならばそんなことどうでもいい。処女か童貞か。処女だろう。とっても美味いから。これは想像。
鬱蒼としている。朽ちかけている木造の物置の周囲に繁茂する踏み鳴らされた雑草は濡れている。木々の梢が冷たく幽かに揺らめいている。他人行儀な風が吹いた。広い空は惨死体のように見え、仄かに灰色めいた雲間から漏れる月光を浴びないよう木立が空を隠すさらに暗い場所へ向かう。
僕が吸血鬼だと自覚したのはここ最近だった。それまでは確かに人間であるようにふるまっていたと思い出せる。生活というやつだ。それはあまりにも面白みに欠ける。人間の興味深い部分は人間関係の網目に沿って消去され変化に富んだ何かは好奇心を背後に否定され続ける日々を、窓から何かを眺めるように過ごしている傍らでそれらを忌み嫌っている姿が窓の中に浮かび上がってきたのだ。合わない。僕はそう思った。同時に何かを強く渇いているように感じた。ある日(忘れもしない、雨の日だ)昼食を食べていると歯が折れた。歯のことなんかこれまで一度も気に留めたこともなかったが、一つ一つ触ってみた。すると犬歯が異常に発達していることが分かったのだ。僕は吸血鬼なんじゃないか。咄嗟の思い付きは僕を覆い隠した。僕は吸血鬼だ。僕は吸血鬼だ。僕は吸血鬼だ。聞いたこともない声が聞こえた。そう、僕は吸血鬼だ。
事実として血は美味しく感じた(疑うこともない、僕は吸血鬼だ)。
ひときわ闇が深い茂みに身をひそめている。ここに来るやつらは月光が届くところよりも、暗いところへ向かうのだ。
死臭がする……人間が来た。
一本の大樹を隔てた木立の根元に人影は見えた。ひとりごとは聞こえない。ヴァンパイアの僕はひとりごとが途切れて少しした頃に茂みから飛び出して人間を襲う。吸われている最中の記憶はないらしく犬歯を抜き取ってぐったりしている背中を軽く押すと人間はふらふらと歩きだす。こちらを振り向いたりはしない。吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼になると誤解されているがじっさいはそんなことはありえない。僕がこうして同一人物のような人影を週に一回くらいの頻度で襲っているからだ。
地面が窪んでいて木々の生え方の角度が多少斜めになっている箇所はさっき見上げた雲間のように灰色の風景が広がり、現れた人間らしき人影は風が吹くたびにその姿を顕わにした。
黒いワンピースを着た少女だった。やはり、当たっていた!
姿が見えたにしてもすぐ黒い影になって相変わらず座り込んでいるから歪な丸みを帯びていた。ひとりごとはいつの間にかはじまっていた。この世の全てを呪うようなひとりごとが空しく響いて消えていく……女だとしっかり分かってしまうと襲うことにためらいが生まれてきた。本当に血をいただいて良いのだろうか……もしかすると狂って逆に襲い掛かってくるのではないだろうか……そのあいだも少女の呪詛が聞こえてくる(耳を澄ませてみれば確かに少女の声だ)……恐ろしく寒気がしてくる……少女のほうが吸血鬼だったとしたら……僕はもしかしたら吸血鬼じゃないのかもしれない……僕は正真正銘の人間だとしたら……職業を自ら捨てた狂っている人間なのか……苦しい……苦しい……考えてみれば吸血鬼は不死じゃないか……苦しい……そうだ、また試してみればいいじゃないか……つまり僕はこれから少女のもとへ向かってこう話しかけるんだ……「やあ、僕は見ての通り吸血鬼なんだ。中世ヨーロッパにふさわしいね。そこであなたに提案があるよ。僕にちょこっと血をくれないかい。ほら、ここに大きな木があるじゃないか、それに少し手首を擦りつけてくれるだけでいいんだ。幹は尖っているから簡単に皮膚を剥がせるよ」……ああなんでこんなことを考えているんだろうか……ほらひとりごとがとぎれたじゃないか……いまこの茂みから勢いをつけてとびだせばいい……そうして僕は美味い血を吸う……まさしく吸血鬼じゃないか、それが……
「やあ、僕は見ての通り吸血鬼なんだ。中世ヨーロッパにふさわしいね。そこであなたに提案があるよ。僕にちょこっと血をくれないかい。ほら、ここに大きな木があるじゃないか、それに少し手首を擦りつけてくれるだけでいいんだ。幹は尖っているから簡単に皮膚を剥がせるよ」
風が吹いて木々がその身を躍らせて月光がくぼ地に差し込んでくると少女が振り返ったが、僕は久しく人間と会話したことがないし襲わず咄嗟に考えていたことを実行してしまったことに気づいて、目線は少女の顔よりもやや下を泳いだ。少女が振り向き終わるまでにワンピースの裾から伸びる白皙の腕に薄っすらと何本もの線が浮き上がっている姿が見えた。
25
こんな小説を書くつもりはなかった。書き終えたとはいえ、こんな終わり方になったのは、これ以上先を考えることができなかったから。ペンを置いて、書いた紙を眺めている。自然と、女のことは頭からさっぱりなくなっていた。ゲームに集中できた。でも、代わりに書いた小説のことを考えるようになっていた。少女の名前は、μだろう。吸血鬼らしき人間は、どんな名前だろう。いや、名前なんてどうでもいいような気がする。テレビから電子音が聞こえる。空気の端を夢想する。空気の端とは何だろう?
26
シャワーを浴びてきた。すでに一八時を迎えている。髪を洗い終え、視線が足元に落ちて、水が薄っすらと茶色に濁っているのが見えた。茶色の湯が減っていき、頭をしめていた言葉が減っていく。
改めて部屋に入って、その汚さが強く感じる。まるで他人の部屋のように感じる。過剰摂取した薬が、抜け切れていないのか、喉に大きな空白を感じる。
27
脱ぎ捨てられた服たち、暖房器具、ゲーム類、ドライヤー、ヘアアイロン、かみそり、爪切り、かりてきた本たち、書いた小説、ゴミ箱、洗濯物、鏡、本棚、ベッド、テーブル。
28
現実の断片に誘われた光線。なにかに身体を動かされているような感覚がしていた。部屋が綺麗になっても、雨戸は開けなかった。部屋に干してある洗濯物は、畳まずに干してある。疲れを感じ、ベッドで体を横にしていると、ひどい吐き気に襲われる。念のためにゴミ箱を持ち上げて、ベッドの隣に置く。ベッド下から乾いた音が聞こえた。あまりの吐き気でよく見えなかったが、小説を書いた紙が、掃除のあいだにそこへ流れてしまっていたことを理解した。
29
二十時五分くらい、部屋に干してある服から、最後に買った服を取って、着る。身体に余韻はあるも、吐き気は無くなっている。お腹は空いていない。家を出る。
30
風が慣れない服のでかでかとひらいた袖口を揺らし、滑らかな愛撫を感じる。伸びてきた髪が視界に入りこんで、風鈴のように目の前で揺らめいている。シャンプーのにおいがする。
排気ガスや雨などで、朽ちていくひさしの下に、斜めを向いた自転車が、どこまでも並んでいる。まばらに置かれた自転車たちの後ろに、出来たばかりのようなファストフード店、居酒屋が見えた。
31
あらゆる方角に人間がいる。草木が身体をなびかせ、囁き合っている。田圃で二匹のアメンボが足と足を合わせて踊っている。地鳴りのような音がする。頭蓋の奥にしまわれている、柔らかい何かが、かすかに、しかし、ほとんど確実に歪んでいく。その度に、こめかみが波を打ち、鼻が裏返り、頭上を通り過ぎて、首の後ろに突き刺さる感覚がする。
32
風が勢いをつけて、視界を汚していく。ひさしの下の自転車や、飲食店は、大きな音と強すぎる風に葬られる。片手で座席を掴み、片手でこめかみを抑える。こめかみを抑えるつもりが腕がない。頭を抱えて地面にへたり込んでいる自分が見える。彼の顔は、苦痛に歪んでいながら、どこか穏やかで、楽しそうに見える。彼は、狂気になりきれていない全身をもって、何かを全てここにかき集めているようだ。爪が削れて、指の先から血が流れている。彼は無言でいた。身体になにか突風のようなものを感じる。音も無く、風も無く、特性も無い。
33
二角形
ポストのつとめは「ずっと同じ場所にいる」これに尽きる。空白と郵便物を抱えて、ずっと同じ場所にいる。郵便物より、空白のほうが重要だ。ポストは、空白の景色を眺めることや、郵便物の文字は読むことが出来る。でも、文字は読めても、文字が書いてある物を見ることはできない。おれが見つけ出したことだ。おれはポストとして、ずっと同じ景色を眺め続けている。
34
おれは、毎日投函される文字を、おれに蓄積させていたらしい。そのせいで、こうしてしゃべることが出来るようになった。
35
言葉は、郵便物にしか通じない。郵便物よりも空白が重要なのは、郵便物というのは絶え間なくおしゃべりを続けるからだ。おれはそのおしゃべりが嫌いだし、あいつらとは話すこともできない。ずっと空白のままでいたい。空白の状態は、人間にとっての眠る状態に近いらしい。人間の言葉を読むことができたおれは、あたかも人間のように考えることが出来る。人間のような生活をすることはできないが、眠る状態の外に何かが広がっているのだから、まあ、人間の生活をしているようなものだ。
36
少し違うのが、休日の方がよく起きていることくらいだろう。平日には四回、休日には二回集荷があり、他のポストよりは長いあいだ眠っていられる。
37
おおかた人間のように考えられているらしい。でも人間のように会話する相手はいない。会話を聞いていても退屈で、腹が立つくらいだから、会話というのはよほどつまらないものなのだろう。
38
とりあえずおれに分かるのは、いま見える風景以外の風景があるということくらいだ。わかるというか、興味があることで、その他のことは、いまは興味がない。
39
そういえば恐ろしく人間に興味を持ったことがあった。その頃も会話はつまらないものだと考えていたが、投函しに来る人間ひとりひとりにやたらと話しかけていた。
40
もちろん人間とは話ができない。おれのなかであんまり読んだことがない、人に呼び掛ける言葉がこだまするだけだ。
41
「郵便ポストさん!」あるときそんな声が聞こえ、おれがポストらしいことを知った。次に「郵便ポストさん!」と呼びかけられたときは、思わず「やあ! おれの声が聞こえるのかい?」と話しかけたが、全く聞こえていないようで、母親らしき人間に手を引かれて見えなくなってしまった。
42
眠る状態の外に何かが広がっているということは、もしかするとおれは今でも眠っているのかもしれないな。ものすごくありきたりな考えをして、おれはうんざりした。郵便物が投函された。さらにうんざりした。じゃあ、眠りを包むおれを包む世界の外にはなにがあるんだ。世界の外ってなんだ?
43
「おい、ダバークバー起きろ」
人間らしく目を擦ったつもりで、視界が開かれる。
「早く起きろ!」
目の前にはへんてこな絵が描かれたキャンバスがいた。絵だって? こんなもの絵じゃない。右上から左下に向かって一筆で円を描き、その出発点と到達点は円の外にあり、その一本の線が交わるところは一点しかない、ただの落書きで、しかもキャンバス自体が破れていた。おれが目を覚ますとキャンバスは安堵したようすで、心持ち線の出発点を下に向けた。
「なんだってお前はおれを起こすんだ!」
おれは声を荒げて叫んだ。「郵便ポストさん!」の少女でもない(しかも人間ですらない!)やつに眠りを妨げられたことが不服だった。
「ダバークバー、起きたじゃないか! なんで眠ってなんかいるんだ!」
「お前、もしかしておれに話しているのか?」
「とんまのポスト野郎! お前以外に、いったい、誰がいるんだ」
驚いた。こいつはおれの声が聞こえるらしい。
44
キャンバスの話で、おれはキャンバスの持ち主のアトリエに案内された。キャンバスの意図はわからないし、まさか自分の身体が動くだなんて! 少しの感動が終わった。おれは不安な気持ちがした。不安をそのままキャンバスに話す気持ちにはなれなかった。「なあ、なんでおれのことを『ダバークバー』って呼ぶんだ? おれはポストなんだぞ」
「どうしてもこうしてもない。わたしは君を見たときにその言葉が浮かんだんだ。君はもうポストじゃないからな、わたしが新しい名前を付けたんだ」
「ポストじゃない? おれはどこからどう見たってポストじゃないか」
不可解なことばかりだった。気が付くとおれはキャンバスに向かって滝のような質問を浴びせていた。キャンバスに向かって話すというか、おれを包む世界というものに抗議していたようにも感じた。
45
キャンバスはおかしなことを話しはじめた。それは全く信じられないような話だったが、考えられるすべての疑問は、キャンバスの話で解決してしまった。キャンバスの話はこうだ。人間は全て死んだ。それだけだった。
46
「そんな話、信じられるかよ」
「違うんだ、君、信じてくれ。神が現れたんだよ……」
「人間絶滅の次は神か!」
「信じてくれ! 信じてくれ!」
アトリエはひっそりとした森の中にあり、おれのいた場所から遠くなかった。ここまで来る途中に、一人も人間を見かけなかったのは、そういうことだからなのか?
「人間は全て死んだんだ。そしてわたしは、この意識があることを、数か月前から知っていた……わたしは画材店にずっといて、客から、自分はキャンバスであって、絵を描くものなのだと知った……それなのにわたしはずっと店にいた! わたしは意識を持ってからしばらくはその店にいたのだ、実に、昨日まで! 今日、ある女に買われたんだ……そしてここに来た。」
「神というのは?」
「この森に平たい石があるのだが、その上で横になっていると現れたんだ。思った通り、形なんてなかったよ」
「形がなかったのに、どうして神だってわかったんだ?」
キャンバスはかたかたと震えだし、感動に包まれているようだった。
「いけばわかるさ」
47
ダバークバーにはこれといった意味はない、とキャンバスは森の中を歩きながら言った。神を感じてから、彼は意味を喪失した言葉を好むようになった。おれは釈然としなかった。だが釈然としない気持ちは、彼が言った「意識」を持つ前に感じたことはあったのだろうか? おれはなにがなんだか分からなくなってきた。おれがポストではなくなったのは、人間が絶滅したから、という理由だったが、全くもって正しいことのように感じた。正しいことだというのに、信じることができなかったのは、やはりどこかありきたりな考えだったからだろうか?
48
はじめて来る森なのに、どこか見覚えがあった。大きな木が広がる景色に面白みを感じなかった。木々を鳴らして通り過ぎていく風のひとつひとつにも、どこか懐かしいものを感じた。
「見覚えのある森だ。はじめて来たはずなのに」
「わたしもそうなんだ」
しかし、神の見覚えはなかった。彼は急いで付け足すように言った。彼の足取りが早くなった。おれは騙されている。これは確信だった。彼は何かを企んでいて、おれに何か悪いことをしようとしている。神の話になると彼は怪しいそぶりを見せる。それが不安に繋がり、不安は猜疑心に変わった。おれは逃げ出した。来た道から見ていた木の幹色合いを目印にしていた時点で、おれは完全に彼を疑っていることに気づいた。彼はおれを追ってこようとはしないで、身体の向きを変えて覚えておけよ、君はダバークバーだ! と叫んだだけだった。駆けている最中、おれは明らかに恐怖していた。何が神だって? 何が人間は全て死んだだって? あいつ、薬でもやってんじゃないのか……
49
森を抜け出してから、血眼になって人間を探し回った。彼の言い分が絶対に間違っていることを証明したかったのだ。だが街には、少なくともおれが元々たっていた地域には、人間は誰もいなかった。信じられない話!
50
考えられる限りにおいてだが、おれはなにかについて考えることだけを考えることが出来る。
51
神について考えるようになったのは、彼のせいに違いない。それまでは、まともに神のことなんて考えたことがなかった。
葡萄酒の番人が
彼の小屋をもって見張りするように
主よ 私はあなたの両手の中の小屋
おお 主よ あなたの夜の夜です
これはリルケの詩の一部だ。老人が、恋文じみた郵便物を投函した中にあった文章で、老人の文は続いて「これはリルケという詩人の、詩です。」と書いてあった。
52
リルケという人物について、他になにも知らない。リルケがダバークバーについて何も知らないように。いや、リルケが神ではない確証がない以上、ダバークバーのことをしらないとは断言できない……
53
………………
54
結局、人間がいようがいまいが、元々いた場所に戻った。人間を探して眠らずに街を徘徊していたけれど、そこまでして彼の言い分を覆す理由がよく分からなくなったのだ。元居た場所に戻っても、やはり眠ることはできなかった。おれは、なにも投函されていない状態だと眠ることになっているから、彼に起こされてから今までずっと眠り続けているのかもしれない。そうするとおれは、なにから起きたのだろう。おれの常識が激しく音を立てて崩れていった。だがそれは不思議なことが集まっているのに、全く面白くなくて、もはや関心さえも湧かない……不眠のポストが考えられる限り、この景色は動いていく。その全てには、既視感がある。言葉がある。それらにあてがわれるものには、きちんと歴史があるのだが、歴史を信用しているかどうかは別の話なのだ。原理的に不可能な事は、たしかにある。おれはここまで考えて、悲しくなった。
55
おれはなぜ言葉を使えるのだろうか。それは、原理的に不可能だったはずなのだ。おれは人間が生み出した道具として、あるときが来れば人間たちに葬られているはずだったのだ。
思いつくのは、確実にいまは眠っていないということだった。眠っているあいだ、おれは夢を見たことは一度もなかった。おれの夢は無いのだ。無い状態は、いまでは確かに、具体的なかたちを持って、感じることが出来る。おれのなかに、郵便物はひとつも入っていない。空白感は確かだ。常に感じられるものだ。おれには、信じられることがあまりに少ない。これは彼から学んだことだ。彼からパズルの最後のピースをもらい受けた。完成した絵は、彼に描かれた絵そのものだった。信じられるものを探せば良いのだろうと思った。パズルのピースの隙間に砂を流し込もうと、そんな考えが浮かんだ。
56
「だからおれはさあ、わからないんだってば。わからないということは信じられるんだ、でもこれも最近はおかしいような気がしてきた……だってこれはよく聞く言説じゃないか……でも信じられるんだから仕方ない。信じられるってことは、信じられないことと同じように、どうしようもないことなんだ。そうだろう? 信じられない人間を、信じさせるには、ショックをあたえてやらなければならない……ショックはさまざまさ。そいつの気質によりけりだからな。つまり、不確定だってこと……まただ! またこれだ! どういうことなんだ、まったく! じゃあおれは聞くぞ、おれはいったいどうしてここにいるんだ。答えられるか? そう、記憶だ。じゃあ記憶って? ふざけるんじゃない、この大ボケ野郎が!」
ポストは、カウンターに投函口を打ち付けた。痛みは感じなかった。カウンターが少しへこんだ。
「また酔っちゃって」
このパブのママの手伝いをしている、猫のぬいぐるみは、あきれて大きなため息をついた後に、
「そんなにつらいことがあるのなら、私にそうだんしてもいいのよ」
心配げに前かがみになった。ただでさえ猫目である瞳の切れ筋が、色っぽく艶めいていた。ここでポストが加齢臭を気分が悪くなるほど湛えた、品性にかけらもない言葉を放つことはできた。しかし、ポストは大声で自分が考えられたことを言うことを選んだ。酔っぱらったポストには、色気のことが投函口をかすめるのみで、酒で満たされた空間とは相性が悪く、選択肢なんてそもそも無かった。
「つらいことと来た! おかしなことを言う娘だ……こうして悩みを打ち明けているというのに、それが悩みだなんて、考えられないようだね。これがおれの悩みなんだよ、子猫ちゃん! じゃあここで、さっきごっすんとテーブルに投函口を打ち付けて閃いたことを話してあげよう。なに、難しい話じゃない……なあ猫さん、あなたは、わたしという言葉を使って、何を指しているんだい?」
「子猫のぬいぐるみ、ミューちゃん」
「ミューちゃんは何をしている?」
「ダバークバーさんの話を聞いてるの」
「話はどこにある?」
「話に場所なんてあるの?」
「じゃあ、ミューちゃんの場所はどこ?」
ポストはとどめにそう言い放った。この発言にたいそう力を込めていたのか、言い終わると、投函口の蓋が翻った。
「わからない……でも、わたしなりに、ダバークバーさんのひねくれた性格から、答えを考えてみたよ」
57
「ミューちゃんが、そこ、って決めたところが場所なの」
「あるいは正解だよ、でも、不正解だ」
「どっちなの」
「半々だよ」
「そんなのってあるの」
「むしろそんなのばかりばかりだよ」
「あなたの考える答えは?」
「おれが解答を求めているあいだに、身体を大きく動かす」
「それって、何を示すの?」
「濾過さ」
「濾過?」
「身体を攪拌することで、意識を際立たせる」
「結局、何が言いたいの?」
「痛みはおれじゃないってことさ」
58
またあの酒場で下らないことをした……馬鹿げている。酔狂のたわごとに付き合わされるなんて、かわいそうに……かわいそうなのは、このおれだろう。酔っぱらったのにもかかわらず、その時の言動を忘れることができていない。はっきりと覚えている。お手伝いさんに言おうとしていたことは、おれの発明品だ。痛みは、おれが感じるものではない……おれの身体が感じるものだ……おれとおれの身体は、繋がっているようで、繋がっていない……
59
ポストは酒場を出て、建物の間の細い道をヘロヘロになりながら歩いた。建物は大通りに開かれた場所に面しているが、酒場は正面から入れない。ポストは大通りを歩いた。人間がいないことが、かえって好都合のように感じるようになったのは、この「イリヤ」というパブに入り浸り、酒を煽る日々のうちに見いだされたものだった。だが、酔いが回ってくると、人恋しく感じた。人恋しくなる、というのは、人間のそれと違っている。ポストにとっての人恋しさは、同じ言葉を使うのに、コミュニケーションを取れず、身体が固まる現象のことだ。遠いむかしに眠れなくなった原因のキャンバス……彼のことを考えながら、ポストは歩き続ける。
60
あれから、一度だけ彼と再会したことがある。キャンバスの穴は塞がれて、一筆書きの線も消えていた。その代わりに、いちめん薄いセピア色が広がっていた。彼は陰気な人間ではない。その証拠に、彼は、街の中心にある、広場に現れたのだった。ひとりだったが……
それにしても、ひとりでいることが、もはや運命付けられているように、噴水のへりに立っている彼を見るのは、苦しかった。同じ彼でも、穴があり、一筆書きが描かれていたら、話はまた別だっただろう。彼に描かれているものが問題だった。一色で、しかも、縫い目が見えているのは、痛々しいものを呼び起こしたし、痛々しさが、彼との関係のみならず、意識を持つらしい物たちが、それぞれ好きなように振舞っている、陽当たりの良い広場に、全くもって場違いな書き割りを持ち込み、穏やかな調和を狂わせている姿に(おそらく彼はそのことに気づいていない)、彼の変化を感じずにはいられなかった。
61
穏やかな夜の詩人の目を覚ますように、水がたどり着いた石橋の下を流れている。とめどない流れは波を生み、その先端には星々の煌めきが浮かぶ。
62
気持ち悪くなってきた。これは悪い酔い方だ、ちくしょう。意識ははっきりとしているのに、このつらさに囲われていて、逃げ道がない。くそ、酒なんて飲むんじゃなかったよ! 酒を飲んだところで、出てくるのはいったいなんだろう? 取り止めのなさ、それだけだ! お手伝いさんに話したことが、何よりの証拠で、おれのくだらない、他人を想定した行動をしている。ああいう風に、想念をひけらかすのは、「想念をひけらかす」やつに見られたいから……とは言うものの、そんなことさえ、信じられない! ああ! 彼のことが、川の流れから想い起こされた。くそ、おれはあいつになりたいんだ……この言葉は信じられないが、信じる信じないを考えていては話にならない……おれはああなりたい、ああいう風に、景色に風穴を開けたい……いや、違うな……違う……
63
ポストは石橋の欄干に佇んで、何かをぶつぶつ呟きながら、投函口を開けたり閉めたりしている。川べりに木々が並んでいた。土手には、枯れ落ちた葉が敷き詰められている。欄干にぴったりくっついたポストが突然、耳をつんざく叫び声を上げて、欄干二つ分くらいの高さまで跳びあがった。最高点で身体を水平に保ち、そのまま欄干まで落下していく。投函口から、たくさんの液体が流れ出た。切手のようなものが液体に混じっていた。
64
「大丈夫ですか!」
とミシンが慌てて、川に落ちかけるポストを抱え起こした。ポストは投函口を幽かに動かした。すると、投函口から声が聞こえてきて、一安心した。
65
ああ、もういっそのこと、吐いてしまえばいいんだ。人間たちだって、そうして酔いを醒ましている……それに、おれにとって吐くことは、日常のことだったじゃないか……おれは人間じゃない! 張り切って吐いてみたらいい……そう、そのつもりで……しかし、どうしたら、吐くことが出来るのだろう……
66
旅の帰りは同じ道。
行けども行けども歌はなく、
病める心に翳り見え、
身を躍らす大烏。
ハァー ヨイ ヨイ
67
投函口から聞こえてきたのは、ポストの声ではなく、ミシンにとって聞き覚えのある声だった。小気味いいリズムが、ミシンを刺激する。ミシンはひとりでに動き出した。ポストはミシンに抱えられ、感覚が敏感になっていることに気が付き、身体が軽くなっていった。機械的なリズムが、空洞の身体に響く。細い糸が張り巡らされ、出来事と想念が出会う場所。あらゆる音が届かない。まるで、ポストの底のようだ。
68
夜空を、灰色の腸絨毛が広がる球面の内側から眺める。固定されている荒波の一部がある。荒波の流れは、穏やかに感じる。空漠とした夜空の肩が見えた。
灰色の腸絨毛は渺として動かない。あの荒波は静寂をひらき、ひとつの溜め池になる。夜空は地球の表面積を遥かに上回っている。重要なプラスチックがかけてしまった目覚し時計のような夜空は、反転して地面になった。地面は、地球の表面積になる。これは内的な話だ。
雷が聞こえているというのに、いつまで経っても、雨脚が近づいてくることがない広場に、幽かに差し込む月光を浴びて、敷石に落ちる影がある。影は元々、二つの影だったようだ。
69
おれは起き上がった。
「ああ! 酔ったついでに、眠りこけてしまった!」
おかしな様子だ。ミシンがベッド傍の椅子に座っている。
「よかった、目が覚めた!」
おれの横でミシンが飛び跳ねた。椅子から落ちた。
70
おれはどうやら、助けられたらしい。気を失うまでの出来事はすべて覚えていたのに、助けられたことについては、ミシンと共に、あの夜を確認していくうちに理解した。
「すごい、ゲーゲー吐いてましたよ!」
ミシンは楽しそうにそう言った。おれはミシンに助けられた?
71
おれは彼のことを疑ったように、ミシンのことも疑う。
72
「もしもし、ポストさん」
「なんだよ」
「神って、死んだらしいですよ」
「そうか」
73
「もしもし、ポストさん」
「なに」
「このまま、横になっていたいですか?」
「できればそうしたい」
「じゃあ、横になってください」
「そうするよ」
「ポストさん。自分、ある時に、言葉が降ってきたんですよ。あ、自分は、普通の家庭にいたので、子供の成長を見計らって買われて、そこで言葉を覚えた。子供が運動会だったんですね、ジュカという子でした。自分は、スジャータと呼ばれました。ジュカにだけでしたが。それで、綱引きにジュカが参加しました。ジュカはひ弱で、綱引きがいやそうでした。ジュカは自分によく話しかけました。『スジャータ、私、いやだ』。運動会には行きませんでした。ジュカは本当に風邪をひきます。その夜に、ジュカは自分の前に立ちました。ただでさえ表情の読めない顔です。ジュカは本当に顔がありませんでした。自分は分かります。両親は分からないようでした。ジュカは自分で、『大変なことをした!』と叫ぶなり、自分に軽くチョップします。自分はなにも分からない。二角形って知ってますか?」
「知ってるよ」
「ああよかった、ここからは二角形です。綱引きは、失敗でした。ジュカが、綱引きの綱を切る、すると綱は切れ、赤白の帽子を被る彼らは倒れた。そういうこと」
「それって、どういうことなんだ?」
「ジュカが、綱引きの綱を切る、すると綱は切れ、赤白の帽子を被る彼らは倒れた。そういうこと。詳しく言うと、ジュカは、神だったということになります。神の神でした。ジュカは神です。詳しく言います、二角形はご存じですから、次です。次は、ジュカは綱を切った日、あ、切ったといっても本当に切ります、でも運動会には不参加。そういうこと。だからまあ、これは、もうわかりますよね。二角形です。二角形の面積を求めよ。二角形の面積は、求められます。あたりまえ。じゃあさ、二角形の長さって求められるのかな。すごい、ジュカは答えを出します。『時と場合による』。」
「『時と場合による』?」
「まあね。次。ジュカは続けて『でも破裂するよ。それも時と場合によるんだけど』と言います。ジュカは黙りました。『スジャータ、ごめん、間違えてたよ。二角形の長さは一定で、数字は(ここで中指を薬指に絡ませ、それ以外の指を折りたたむ)。近似値じゃない』と言いました。」
「さっぱりわからない」
「そうだろうと思った。きっとジュカにも分かってないよ。自分は分かった」
スジャータは、おれが寝そべっているあいだ、延々とジュカについて話した。どれも信じられない話ばかりで、おれは寝たふりをして、話が終わるのを待っていた。でもスジャータは壊れかけの機械のように、絶え間なく針を動かしていた。
74
「きっぽこきっぽこ。ポストさん、ああ。順番間違えた。きっぽこきっぽこ。やめて。ああ。次ぎぎぎ。ジュカは『時:さながら星』と言ったのを聞いた自分がいるのをいますよ。つつつ次。ジュカは『蛇:世界』と言いました。ジュカは」
「すごい。自自自自自(ここで海指を森指に絡ませ、それ以外の指を折りたたむ)。ようこそ。ジュカが言わなかった言葉で、コール、コール、ソーパチだ!」
「空に接続されたジュカが遡って布を被ったからといって印刷機は止まらぬ。困ったジュカは、さあさあ、こんにちは! 明日は曇りで:しかし忘れてはいけない。ジュカは忘れてはいけない:した。/『時列車曰く』」
75
なにも疑うことが無かった。スジャータが吐き出す言葉の羅列は、疑う余地がなかった。スジャータの話を聞いていると、たびたび気持ちが悪くなって、部屋を飛び出した。するとスジャータは、
「3。探しましょう」
と言って、「二角形」と書かれた紙を投函した。
76
スジャータが、
「するよ。ジュカは『時→:直(/)線の樽:』。終:ンー:り」
と言うと、静かになった。スジャータがジュカを語りはじめてから、このことを言い終わるまで、一度も止まったことはなかった。
77
部屋に静寂が訪れ、足を持つ夜が、空気のそれぞれにこびり付いている。布団をかぶったダバークバーの頭にあったのは、このままじっとしていた方がいい、ということだった。目がさえて、あらゆる想念が夢想の中を駆け巡った。身体が痺れてもダバークバーは動かなかった。むしろ、身体が痺れていることが自分にとって良いことに思えた。ダバークバーは、自分からベッドで痺れながら過ごすことを期待していた。
78
森の中に光が溢れるのは、朝に包まれたことを意味した。ヘルトメニメスは起床した。朝に、小枝を拾い集めた。
枝は毛玉の塊のように一か所に集められた。
川は一番大きい木の茂みから近いところにある。ヘルトメニメスは、そこに枝を流そうと考えている。
79
コーヒーのにおいがした。身体はいまだに痺れていて、うまく動かせなかった。台所から声がする。
「コーヒーとパン」
あたふたとした素振りで、テーブルの上にコーヒーとパンが置かれた。
僕はコーヒーとパンを置いた腕を掴んだ。
腕は石灰になって、コーヒーに沈んだ。コーヒーから、何かが出てくるように感じた。三年経っても出てこなかった。僕の周りには何もかもなくなっていた。
水たまりが出来ているのは、昨日の夜にたくさん雨が降ったからだ。地面にある程度の窪みがあったから、水はあるものの形に合わせて姿を変え、沿うようにして伝っていく。時には途切れ、水の姿も零れ落ちてしまい、分離することもある。
水たまりは分離すること無く、留まるようにある。
しばしば鏡に喩えられるように、水たまりは面としてある。陽は最も遠い高度に達し、花が密生している様に光っていた。水たまりの中心に陽があり、陽の花弁は咲き乱れること無く、光彩をほとばしらせること無く、中心に陣取りながら象をあらわにして留まっている。水たまりの中で、遥か過去に遡及しながら、水と陽をあらわしている。同じように此処には水と陽が在り、留まっている。
ある影がよぎる。とらえようもなくよぎって行った。影は水たまりに飛んでいき、水たまりの中の陽を掻き乱していた。影は水を辺りにばら撒き、間断なく姿を変えていく。水の中で影は戯れるよう。揺れる鏡面の中で影は水を纏い、ひとしきり力を蓄えたところで。また影がよぎる。
影は、大きな烏だった。
窓は、まだ大きく淵を伸ばしていた。
淵が伸びるにつれて、窓が付く壁は広がっていく。壁は世界にそそり立つ薄い窓になっていた。窓からすべてを覗くことが出来るように果てしなく広がり、やがて、これが世界になり得るほどの淵が生まれている。深い淵、深淵のことだ。
窓を深淵と表すようになった。当然のことだった。
力なく身体を傾けた。椅子に座っているのは彼だった。再会はいつぶりだろうか、すっかり忘れてしまった。
世界に光が満ちている。静かに座る彼が、必死に喋っている。言葉の一つ一つが、温かみを持っていた。
「ということなんだ」
彼は喋り終えた。
ひどく悲しい気持ちになった。彼に関係することが、凄惨な彩りをしていた。
彼を励ました。
彼は少し笑って、部屋を出ていった。
彼を待った。
彼は部屋に入ってきた。ベッドで横になる人を目に留め、不審な気持ちに満ちた。ベッドの傍にゴミ箱が置いてある。どういうことなのか、逆さまに置いてある。横になる人は彼の方を向いて、悪態をついた。彼は、どうしてこの久々の再会で、罵詈雑言を浴びせられなければならないのか、腹が立った。ベッドに向かってゴミ箱を投げた。吸い殻がたくさん盛られている灰皿を、横になる人の枕にかけた。灰皿自体は、横になる人の頭に投げた。本棚を倒した。ミシンを投げた。横になる人は布団にうずくまって息をひそめている。怒りが収まらず、自立する鏡にテレビをぶつけた。服を投げた。隣人がさすがの騒ぎに痺れを切らして、部屋に入ってきた。彼は事情を説明した。隣人も怒った。隣人は火を提案した。彼はとめた。隣人は車に乗り込んだ。横になる人の部屋に向かって一直線に突っ込んだ。横になる人の頭が転がった。彼と隣人は誠実に生きた。そういうことだ。結局は……