happycat/永遠性

創作物置き場 小説や詩が置いてあるよ

曖昧な流れ

ニコライ・カプースチン『24の前奏曲』より「第八番 嬰ヘ短調」に乗せて 

 

 せわしなく自動車が走るそばを、紺色のリュックを背負った男が、自転車で通り過ぎる。

 六時ころの家路を急ぐ自動車の群れ。男は道路の右側を滑走している。運転手の目線は男に向けられているが、ライトから自転車の姿が浮かび上がっても、運転手が捉えるのは過ぎていく影でしかない。

 小さな道路で、たくさんの自動車が通っている。向こう側からやってくる自転車を運転する人間。気持ち右側の塀に身体を寄せて、その人間を自動車と触れるぎりぎりのところを走らせる。

 運転手は、男を見る。既に男を通り過ぎた。男は走っていく。やがて影になる。

 家に着いて、男は玄関にあるごみたちに視線を落とした。手袋を取り、洗濯機の上に置く。男の動作はややぎこちなかった。なにか考え事をしていたのだ。さっきまでいた喫茶店で、男はある女と話していた。女は何度も「今日はこれから暇なんだ」と言い、男はそれに空返事をしてごまかしていた。女が不満そうな空気になると、男はコーヒーをのみ、女は小説を開いた。

 女は、言葉通りの意味しか伝えていなかった。男に対する好意も、望むこともなかった。勘違いして、わざとらしい返事をしている男が滑稽に思えて、女は繰り返しそう言っていたのだ。

 男にも、女にも交際している人間はいる。一緒に喫茶店に行ったのは、ただ男と話がしたかっただけなのに、男はどこか間違えていた。男は、これら全てをわかっていた。それどころか、女とのんだコーヒーの味も覚えていた。それでも、女への返事は芝居めいたものだったのだ。

「あの人がいないと寂しい」

 と言うのは、男の交際相手であるRなのだが、その言葉を聞いたのは女だった。この言葉は、女の部屋で反響しながら、シーリングファンの回転に巻き込まれて消えた。

「あなたが?」

「そう」

「でも、一緒にいるじゃない」

「いまはいないでしょう」

 テーブルに置かれた皿には、お菓子が乗っている。

 Rに出したハーブティーも、お菓子も、Rは手をつけていない。

 二人は無言になった。部屋では男に教えてもらったジャズが流れていた。いまはベース・ソロで、沈黙に拍車をかけた。

「いますぐ会いに行けば?」

 女は言った。

 部屋に入ってはじめにしたことと言えば、服を脱ぐことだった。考えごとは悩んでいることではなかったから、ずっと体内を循環することもなかったのだ。

 Rはただの友人で、特段おもうことはなにもない。男の趣味はわからないし、それより前からRと仲良くしていた身としても、Rはつまらない陰気な女性だという認識が変わることはなかった。「つまらない陰気な女性というのは、少し言い過ぎかもしれないが」と考えたところで、あの男とRの関係は変わるものではない。

 男はRを愛しているのだろうか? いや違う。男は愛しているのだろうか?

 ある日、Rと男は旅行に行った。そこは海沿いの、二人が住むところから電車で二十分程度の場所だった。

 女は海に対してなんの期待もしていなかったが、男に誘われるや否や、むかし嗅いだ磯の香りが懐かしく感じられた。「そこで日が沈むさまを見るのもいいものではないか」と思った。Rは男に旅行を誘われたというだけで喜んだ。

「結局どうだったの」

「喜んでた」

「じゃあ私は喜んでたと思う?」

「知らない。どうだったの? 海は」

「むかし読んだ小説を思いだしたよ」

「そう」

 森の中にいた。道は見えるが、ひとけはなさそうだった。いちばん近くの木に身体をあずけ、へたり込んでいる少女がいる。白いワンピースを着ていた。少し肌寒かったが、少女は鳥肌ひとつ立てないで、じっと空を仰いでいる。風が吹くと、さらに寒く感じた。木々がそよぎ、音を立てた。音の中で落ち葉が舞い、それがまとわりついてくるものだから、必死に落ち葉をかきわけた。それなのに、一向に落ち葉から抜け出せないでいた。乾燥した葉っぱたちが鋭い。半袖だったせいで、切れてしまった。血が出ているのだろう。傷だらけだ。痛い。

 白い腕に引かれて、歩いている。「ああっ、血が出てる。深いね」と言って、少女が傷口を舐めると、裂けていた部分が繋がった。物憂げな雰囲気の森。少女は「怖い?」と言うだけで、その他になにか教えてはくれなかった。ただ、どこかに連れて行こうとしている。

 女の交際相手であるKが、女が淹れてくれたコーヒーをひとくちすする。その音がやけに大きく、女は不快な気持ちになった。夕暮れの時だった。大きな窓から、橙色の明かりが差し込んでいた。楕円形のテーブルにはKの私物が並んでいる。哲学書、携帯電話にライターと煙草。どれも女が嫌いなものだ。

 哲学書といっても、女でも知っている哲学者の入門書の類で、その上には携帯電話が置かれている。コーヒーを四回すすったあとに、角が欠けているパックを右手で持ち、コーヒーカップを持っていた左手で煙草を一本取った。

 その動きを後ろから見ていた。なぜだろうか、とてもおもしろく感じた。部屋は生暖かい。Kの動作は、どれもけだるげに見えた。

 女は小説を置いておもむろに動き出し、Kの隣に座った。

「ねえ、一本ちょうだいよ」

「いいけど」目は女に向けられていなかった。「ちょっときついかもしれない」

「別にいいよ。ふかすだけ」

 煙草を口に咥えて、女は哲学書を手に取った。携帯電話がテーブルに当たった。

「やめてよ」

 ライターを差し出しながらそう言うKも、どこか滑稽に見えた。Kは女を訝しげにみつめていた。

「いいじゃない」

 片手で哲学書を持ち、もう片手で煙草に火をつける女を見た。慣れているかのように煙草をふかす女は「特に難しいこと、かいてないね」とKのコーヒーをひとくちのみ、「これだったら、私の読んでる本の方が難しい」。

「君が読んでるのは小説でしょ?」

 女はKにくっついて、哲学書を持つ手をKの股座に置いている。

「そうだけど」

「それじゃあ難しいよ。そっちのほうが」

 ふかした。煙は混じりあって、天井に消えていった。煙草を吸い終わってからしばらくして、Kは家を出ていった。女は「私はこの人と付き合うことになるかもしれない」と思った。

「この小説はおもしろいの」

「読んだことあるよ」

「そうなの? 本なんて読まないと思ってた」

「たまに読むんだ。変な本を」

「そうなの」女は小説を閉じて、カフェラテを少しのんだ。

 男と女は喫茶店を出た。外はすっかり暗くなっていて寒々しかった。

 Rの眠りは、呼吸していることを除けば、完全に孤独だった。心臓の音が聞こえた。規則正しくなく、早くなったり遅くなったりする心音を、Rはただ聞いていることしかできないまま、眠りについた。

 次の日は、とても憂鬱な気分で目を覚ました。孤独というものを言葉でしか知らなかったRは、唯一の楽しみである眠りから、あらゆるさみしさをかき集めたような、孤独というものを教えられたことに対して、どのような反応をすればいいのかわからなかった。

 あくまでも憂鬱な気分を抱いていただけであって、あの孤独さからは全く遠いところにいるような気がした。憂鬱な気分になることはよくあったし、いまの気分に問題があるようには思えなかったのだ。

 秋が深まってきて、公園には人の姿が見当たらず、風が一段と寒さを煽ってくる。

 憂鬱を払拭するために家を出てきたというのに、ところどころ剥げ落ちた遊具しか慰めになるものはなかった。空を覆う灰色の雲に交じって、煤のような色合いの雲が見えた。烏が数羽、電柱から飛びたって行った。Rは地面を蹴ってブランコで少し揺れてみた。

 家に帰ることにした。

「それにしても、あの孤独というのはなんだったのだろう」と玄関の鍵を閉めた途端に思い浮かんだ。

 家から公園までの距離はそれほど遠くないが、近くもない。Rはその道のりをひたすら歩くことに徹していて、なにも考えていなかった。憂鬱もどこかへ行っていた。Rは、そのことに対して憂鬱な気分になった。

 部屋は暗い。今日はあまり日が照っていないからというのもあるだろうが、部屋の雨戸を閉めっぱなしにしているから、ふつうの夜なんかよりもずっと暗い。

 ベッドの上にあるライトスタンドに、少し埃が見えた。Rは眠りたかった。あの孤独とは無関係に、ただひたすら眠っていたかった。

 Kと知り合い、できるだけ前向きに生きようと決めた日から、むかしに経験したように鮮明で、どこかぼやけている夢をはっきりと見るようになった。もうすっかり忘れていて、その夢たちの具体的な話はできない。

 覚えていることは、鮮明かつぼやけた夢を見続けていること、それがとてつもなくRを嫌な気分にさせたこと、これらだけだ。

 女と一緒にいる男を見たRは、男に対してなにを思ったのだろう?

「せっかくだから喫茶店にでも行こう」と男は言った。動揺している様子はなかった。

 海の香りがする喫茶店で、四人はやさぐれた人間に出会った。

 日中からビールをのみ、ばかでかい声で店員と話をしている。話し相手は彼の調子によってそれぞれ変わっていく。だから、彼の話をまともに聞いている店員はひとりもいなかった。

「すごい人だね」

 伸びっぱなしの髪が、脂で束になっている。四人はやさぐれた人間からいちばん遠い席に座った。彼のなんとも言えないにおいが、海の香りに混じって漂っている。

 客は彼と四人しかいなかった。四人の席に店員が水を出しにくる。

「あの人は常連の人なの。ごめんなさいね」

 と言って、あからさまに嫌そうな顔をした。

 男の提案で喫茶店にやってきたのだが、特に話すこともなかった。「誰かに向かって怒りをぶつけるようなことはない」と四人は思っていた。だから、話すこともなかったのだ。やさぐれた人間の声量が、いよいよ怒鳴り声のように響いている。Rが頬に張りついていた髪を払って、なにか話し出そうとしたとき、

「やあ、ごめんね」と、やさぐれた人間は四人に話しかけた。Kが彼に話しかけた。

 夜も更けてきた。秋が過ぎて、冬になろうとしている。煙草がうまい。「換気扇もない部屋で煙草を吸うのはどうなんだろう」と思っていた時期もあった。部屋の隅に置いてある絵も、すっかり煙草のにおいがついてしまった。絵の横には、これから読むだろう本が積まれている。「いちばん下から三冊までは文庫本で、それから二冊はハードカバー」というような加減だから、ものすごくバランスが悪い。隣の絵はただの風景絵だ。空は暗い。

 誰がかいたのだろう?

 鋏を持って自分と女が映っている写真を切ると、ふと思い出すことがあった。その恋愛とは全く関係のないことだ。恋愛関係を結び、そのさまを写真におさめ、恋愛関係が切れた日には必ず写真を切り刻んだ。データ化した写真は残してあるが、それは消していないだけだった。なにかの拍子で女との写真が画面に映ると、男は機械的に写真を消していた。写真を消す行為と同様に、思い出すことがあった。やはり、その恋愛とは全く関係のないことだったが。

 鋏をテーブルに置いて、男は長座布団に倒れ込んだ。天井で光るライトが眩しかった。

 インターフォンが鳴り「郵便です」の声が聞こえる。「なにも買っていないのに」とあやしんだ。でも、親かもしれない。

 小さな段ボールが届けられた。立方体の段ボール。いくら記憶を探っても身に覚えのない場所、名前から送られてきたものだった。開けてしまうか悩みながら、この段ボールを眺めてみた。切り刻んだ写真の上に段ボールを置いて、煙草に火をつけた。灰皿には十五本の吸い殻があった。鉄くずのようになっている灰もあれば、形を残しているものもある。部屋は寒く、空気は淀んでいるが、煙草のにおいはしない。テーブルの上に本があった。どれも知らない本だった。真ん中あたりの本を取った女を見て「これは小説なんだな」と思った。煙が消えていく。

「これ、読んだことある?」

「知らない」

「あなたが好きそうな本だと思ってて」

「そもそも、本なんて読まないから」

「そうなの。読書、好きなのかと思ってた」

「ちいさいころは読んでたよ。でも、そのときに読みつくしたような感じで、もう読まなくなったの」

「私は読まなかったよ。わからないけど、読んでなかったと思う。もう忘れちゃった」

 女は脚を組みなおし、カフェラテをのんだ。手に取った本をぱらぱらめくって「読んだ本なのに、どうしてまた買ったんだろう」と考えていた。

 目を覚ましてもまだ暗いままだ。眠りにつく前も暗かった。あまり眠れずに目を覚ましたのだろう。顔を動かしても、無機質なチューブと緑色の薄明かりが見えるだけだ。身体の中から「ちゃぷん」と波うつ音が聞こえた。他の人間は寝ている。こうやって夜に起きてしまうことは、よくあること。どうということはない。

 Rはお菓子を食べた。女の姿を見ながら、男を思い出していた。男も本を読んでいたはず。身近な人から影響を受けることが多いRだが、こうして女も男も本を読んでいるのに、「あのころのように読書したい」とは思わなかった。

 甘い香りがする。

「香水でもつけてみる?」

「いや、いいよ」

 女はきっと、気をつかっているのだろう。

 申し訳ない気持ちになった。この部屋は、流れている音楽を除いて、Rには居心地が悪かった。Rが気落ちしているのを見て、女は励まそうとしているのだろう。でも、なんのために?

「やめてよ」

 女から顔をそむけて窓を覗くと、山が見えた。これまでは山脈から切り取った山しか見ることができなかったが、読書をやめてずっと窓を見ていると、やがて景色の流れは止まった。家屋が見えた。田畑の中に建っている。玄関から老人と思われる人が出てきて、こちらに向かって歩いている。老人の歩く道は山のふもとまで繋がっていて、そこには鳥居がある。今日は曇り空だ。景色が流れていく。老人がちいさくなっていく。あるところで、老人は人間のように見えなくなった。でも、この界隈に広がっている山は、鳥居のある位置が変わっただけで、それ以外はなにも変化していない。本を読みはじめた。

「あのさ、コーヒーってそんなにおいしい?」

「そんなにのんでおいて言うなよ」

「時々思うんだよ。他ののみものとか、食べ物とかはおいしさがわかりやすいのに、コーヒーだけは、おいしいのに、おいしさがわからないというか、伝えられない」

「別に、好きでのみたいんだったらそれでいいじゃないか」

「そうなんだけど」

「のめばいいんだよ」

 テーマが戻ってくる。スタンダード・ナンバーのテーマだ。

「ねえ、この曲は好き?」

「まあね。でも次の曲の方が好きだよ」

「渋いね」

 女は微笑んだ。テーブルにコーヒーとハーブティーを置いた。ジャズじみた音楽が流れているが、これはジャズではない。男はソファーに手を置き、やや身体をのけ反らせている。シーリングファンが回っている。退屈だったのだ。流れている音楽に対しても、男が考えられる限り、全てのことが退屈だった。暗闇の中で考えていた。この退屈とは? 男はその答えが出せなかった。昼の景色が、まるで遠いむかしの思い出のように感じてしまう。ハーブティーをのんだ。男はため息をついた。さっきの暗闇ではない、そろそろ目が慣れてきそうな場所に浮かび上がった輪郭のそれぞれが懐かしい。空想だと思った。男は、四方が閉じられている場所、つまり自分がいまいる場所とほとんど同じところで、違う光彩を見ている。物音は聞こえず、音楽も、心音も、あらゆるの音が男の耳には届かなかった。男は右腕を上げた。これからなにかがはじまるのだろう。それは、知らないことなのだろう。浮かび上がってきたカーテンのような襞に視線を注ぐまでもなく、身体は落ちていった。風は感じない。ただ落ちていく感覚だけがあった。背中を組織している紐の一部がほころんだ。編まれていた紐は平面の織物になっていく。二つの目玉だけが織物から伸びていた。縫い目の荒い箇所からチューブが伸び、重さが偏っているせいで回転しながら落ちていく。チューブは織物に巻きついた。落下が終わった。目玉は運よく、なににも絡むことなかったようだ。織物から伸びる二つの目玉。それらが映すのはまたしてもあの暗闇だった。輪郭もつかめず、自分とその他の連関は、男の身体がしっかりと縫われていたときと比べ、格段に希薄なものとなっている。男はずっとそこにいた。身動きさえも取れなかった。それに、男は退屈ではなかった。「身体の感覚」というものが、閾値を遥かに下回る微少刺激に終始するのは、輪郭のつかめない暗闇の中でさえも、男にとっては喜びに他ならない。宙ぶらりんの男のまわりでは、黄色の車が走っていた。男には見えなかったが、その黄色の車は海岸に向かっている。

「ところで、なんで海に?」

「なんとなく。なんとなくいきたくなるでしょう?」

「ふうん」

「あやしい? 狙ってないから」

「別に」

「あのさ」

「なに?」

「味がなくなった、ナポリタン・ソースって食べたことある?」

「なにそれ。ないよ」

「もにょってしてるの。もにょって、してるだけなの。すごいおもしろくってさ」

 男は助手席に小さく座っている。

「でも、どうしたらそんなのができるの? まさか味がないソースを作ろうと考えてたわけではないでしょう?」

「このまえ、ナポリタンを食べてたの。それで、使ってたフォークの、持ち手と四本の指のあいだにちょうどソースが残っちゃってて、そんなこと知らずに、そのフォークでコーンポタージュをかき混ぜたり、まあ、使いまわしてたのね。それで、そろそろ洗わなきゃって思って、そのフォークを見たら、ソースが残ってたの。なんでかよくわからないけど、わからないけどね、舐めてみたの。それを。全然。もう全然、味しなくって、おもしろかったの」

 窓から見える風景は、変わり映えのしないものだった。行くあてもわからないのに、女性に運転してもらっているなんて、変な気持ちだった。「免許持ってるのに運転してくれないの?」と言われたことが残っていて、できるだけ彼女を助手席に乗せて運転していた日々だったが、それのどこかには抵抗があったことを覚えている。

 こうして自分を助手席に乗せ、ゆらゆら揺れる車内で自分の好きな音楽を流しながら運転する彼女。なにを思っているのだろう。考えることもできない。ただ運ばれていくだけ。車の窓に頭をつけた。

 だだっ広いだけでなにもない。雲間から夕陽ゆうひが見えた。真ん中だけ盛り上がっている雲だ。でも雲はその真ん中で区切れていて、右側の雲は左側の雲の後ろに入り込んでいる。左側の雲の後ろから伸びる右側の雲は、くすんだ青の姿。そこまで観察してから目を閉じた。夕陽は眩しく、直視できない。それから頭を気持ち傾ける。

「眠いの?」

「それなりに」

「寝ていいよ」

 平たく縦に積まれた本の山。その中から一冊を抜き出すと、たちまち本の山は崩れた。後ろでRが寝返りをうつ。抜き出した本を四十ページまで読んだ。

 栞を挟み、再び横になった。

 琥珀色の本を見るともなく見ている。哲学書だ。さっきまで読んでいた本は小説で、まだ新品のように綺麗なままだった。四十ページまで読んだのに、なに一つ覚えていない。

 雨は止んだ様子だった。

 夜の静かな光が見えた。耳をますと、Rの寝息が聞こえた。「もう寝てしまおう」と思った。でも眠気はなく、Rが横たわるベッドに行くのも億劫だ。四十ページまで読んだ本をまた開いた。並んでいる文字たちが、ページの中を泳ぎだした。文字たちは、そのページから他の本へ流れ込んだ。流れ込んだ先の本を開いた。白紙だった。さらに他の本を手当たり次第に開いてみたが、全てのページが白紙だった。

 散らばった本をかき集めて、もう一回本を積み上げたところで、この本たちのページには、文字がない。

 自分の傍に置いた本を手に取り、六十七ページまで読んだ。そろそろ朝陽あさひが見えてくるころだ。

 テーブルの上から、けたたましい声が聞こえる。とっさに身体を起こした。カーテンから漏れた光を浴びる文字が見えた。文字は笑いながら、六十七ページまで読んだ本に滑り込んだ。本を開いた。全てのページから文字がなくなっていた。ベッドで眠っているRが見えた。

「起きて」

 Rの身体に手を置いた。朝陽のおかげで、Rの身体をはっきりと見ることができた。

いくら揺さぶっても起きない。「朝だよ」と声をかけてみたが、体勢を少しかえただけだった。眠気はまだやってこなかった。横になっても目はえる一方で、目を閉じても穏やかな光が邪魔に感じるだけだった。テーブルの上にあるコーヒーに手を伸ばして、さっきまで読んでいた本を開いた。文字がない。

「文字はなくなった」

 やさぐれた人間の声が聞こえた。三人は彼の言葉の意味がわからなかった。

「さっき帰っちゃった子がいるけど、彼女はきっと、もう文字を読む必要がないんだろうね。幸福なことだよ」

「でもおじさん、それってどういうこと?」とKは言った。Kは身を乗り出して彼に話しかけている。彼の話が気になっているのではない。彼が話しかけてきたことに不服だったのだ。Kの隣に座る女は、男のことを見ていた。男は座っている。

「言った通り、文字はなくなったんだ」

「そのことじゃなくて、文字を読まなくていいことが幸福ってどういうことですか? というか、おじさんが言った通り、文字がなくなっているのなら、どう、人間はどう生活すればいいんですかね? この通り、メニュー表にもちゃんと文字がありますよ」

「小僧。もういい。ねえお嬢ちゃん、どうだい」

 脂でべとついている髪を耳にかけて、やさぐれた人間は女を見た。

「どこかで見たことがある顔」

「そう」

「親戚とかなのかもしれない」

「君にも親戚がいるんだね」

「いるよ。近くにはおばあちゃんしかいないけど、たまに帰ってくるお姉ちゃんがいる」

「あとは?」

「ちいさいころに会った記憶はあるけど、あんまり覚えてない。あの人はたぶん死んでるんだ」

「どういうこと?」

「死んだ人が歩いてるの」

 少女に導かれるまま、森の奥の方まで歩いた。手は小さく、かなり冷たい。なにもわからないままでいたし、少女の言動から、さらにわからなくなってきた。

 どうして少女が傷口を舐めると傷が治るんだろう? どうして死んだ人が歩いてるんだ? 少女が「死んだ人」と言った、親戚かもしれない人は、ゾンビのようには見えなかった。それどころか、猟師の恰好をしていて、ある程度人が通れる道であるとはいえ、落ち葉と枝が広がる湿った地面を、まるで生きているようにしっかりと歩いて行った。

 まるで生きているように? それは違う。彼はちゃんと生きている。ちゃんと呼吸もしていた。「死んでるのよ。知ってるもの」と少女が歩きながら言う。

「でもどうして?」

「知ってるのだもの」

 少女はそれ以上なにも言わなかった。ただ手を引いてどこかに連れて行こうとしているだけ。森の中は静かだった。かまいたちのような落ち葉の流れを生み出した風は、もう吹かなかった。黒々とした空に、木々の枝が伸びている。

 あるところで少女は足を止めた。少女と出会ったところよりもひらけた場所だった。落ち葉や枝の類いは、この場所を囲む木の下にまとめられている。地面は土がむき出しで、これまで歩いてきた道のような湿り気はなく、乾いていた。中央には丸太が二つ置いてある。

「これを見て」

 少女の指の先は二本の丸太の間に向けられ、顔をそちらに向けると、少女は腕を引っ込めた。

 そこは、どうということもなく、焚き火をしていたような跡が見えた。

 ちゃんと消火され、灰になった枝や紙が微風を受けて、その姿を消していったり、また留まり続けている。これが一体なにを意味するのだろうか。わからない。聞いてみたところで、納得のいく答えは与えられないと思う。わからないことだらけだ。頭をかきむしって「どういうこと」と大きや声を放っても、決して悪いことではないはずだ。それでも「灰だね」と目の前の光景と同じような事実だけを口にし、その言葉に些細な棘があることに気づかなかったRには、次に男が嫌そうな口ぶりで「そうだけど?」と言う意味がわからなかった。「煙草がやめられないのではなくて、煙草がないと生活が全くおもしろみのないものになってしまう」。

 そう男が言ったところで、Rは男の言いたいことに気がつき「そんな回りくどく言わなくてもいいのに」と悲しみながら訴えた。男にしてみれば「回りくどく言った覚えはなくて、自分の言葉には、自分がその時考えていることが反映されてしまうだけ」と女の表情を目の当たりにして思ったのだが、久しぶりに会うということで滅多にしない化粧をし、香水までつけてきたRが男に近づいて「孤独って知ってる?」と言ったことには、かなり困惑した。

「孤独?」

「そう」

「孤独なのかもしれないと思ったことはあるよ」

「違う。それじゃなくて、本物の孤独。否定、消極、厭世、虚無の全てを表す孤独」

「わからない」

「じゃあ、知らないってこと」

「たぶん」

「もういいよ」

 男の手首を力なく握ってから、Rは扉に向かって歩きだした。

「ちょっと待って、どういうこと」

「考えて」

 とRは言い、台所にあったRのマグカップを床に叩きつけた。マグカップは割れた。

「やめてよ」

「そういうところが嫌いなの」と女はKに向かって叫んだ。「帰って」もう終わりなのかもしれない。二人はそれぞれの温もりに飽き、疲れ果ててしまった。見切りをつけて、抜け出そうとしている。そういうこともあるだろう。

 やがて鳥たちが鳴く。夜が明けたのだろう。腕からチューブが伸びていることは、昨日と変わりなかった。部屋全体が活気づいていることが、どうも落ち着かない。眠い。カーテンの向こうから話し声が聞こえる。あれほど眠られない夜を過ごしたのに、いざ起きると眠気が後を引いて現れる。チューブを気にしてしまうせいで、寝返りをうつのも精一杯。布団を頭までかぶって、眠ろうとした。声が聞こえてくる。うるさい。他人の病気なんてどうでもいい。隣の人間は「十二指腸がどうたら」となにかのタイミングで話しかけてきたが、それにも適当に答えた。きっと不思議に思っただろう。自分の病名すら覚えていない。面会にやってくる人もいなければ、携帯電話も本も持ち合わせていないし、常備されている漫画本を読む気力さえもない。眠ること。ただそれだけが楽しみのように感じていた。身体がばらばらにほどけて、ぬるま湯の流れに任せること。暗い。「せめて音楽があればいいのに」と考えた。

 なに一つ思い出せない。歌は嫌いだった。ピアノの音色が聞こえてくればいい。なにも楽しいことなんてない。頭がかゆい。布団の中に頭を埋めてから、ずっと頭がかゆい。

 尿意を感じて身体を起こした。

 入浴は未だ許可されていない。自分の体臭すらもわかるくらいに脂がついている。カーテンを開いた。右前方に面会客と思われる女が真剣そうな顔をして、カーテンの中の人間と話をしていた。その隣で看護師がつまらなさそうに、この場から出るタイミングを見計らいながら、地面につま先を当てて、足をくるくる回している。その傍を通らなければいけないことが苦痛に感じた。看護師の後ろまでくると、ふと看護師は振り返った。わざとらしい動きだ。看護師は、

「点滴、少なくなってる。あとで取り替えますね」と言い、足早に病室をあとにした。

 点滴のおかげか、尿とともに空気が出てくることがある。医師から説明されていたことだった。

 そろそろ裸になるのも寒い。秋を過ぎて、外ではもう雪がちらついている。部屋の中には張り詰めたような空気が漂っていて、その要素の一つ一つが肌を刺激した。

「よくそんなにコーヒーのむね」

「好きなんだ」

「眠れなくなったりしない?」

「しないなあ。カフェインで眠くならないってことがないのかもしれない」

 女はうつむきがちに返事をした。

「人間がどうとか、もういいだろう。生きて死ぬのみだ。生きている間なんて、どれだけ長かろうが、どれだけ短かろうが同じものだよ」

「ふうん」

 Kは座った。

「そう思わないかい?」

「思いませんね」

 会話の合間に注文の品が差し出される。

「どこをどれだけ回っても、地球から出たとしても、見ることができるんだ。もしそんな人がいて、たとえ老人だったとしても会話はできる。同じさ」

「ふうん」

 Kはやさぐれた人間の話に退屈していた。

「でも僕とあなたは違うようですが?」

「抽象的な話はこりごりなんだ。もう文字はないって言ったじゃないか。どんな偉大な発見がこの会話から生まれたところで、それがフランシス・ベーコンどまりなのはわかっているだろう」

「もういいです。行こう」

 Kは女の手を取った。眠ろうとした。女は小説をもって、躓きそうになりながら、Kの後ろを歩いていく。ひとけはなく、湾曲した突堤で鳥たちが戯れ、身体を寄せ合っている。二人のところまで、鳥たちの鳴き声が聞こえた。あの喫茶店から出て、外で煙草を吸おうと考えていた。こんなに寒いというのに。Kはとにかく女と二人になりたかったのだ。きっと女はわかってくれるだろう。いささか乱暴に連れ出したのは、このためだった。あたりは「しん」と静まり、通ってきた道も、ここから見ると閉ざされているように感じる。亡霊たちがそこに浮かび上がった。琥珀色の瞳をして、宴会のようにせわしなく動き回っているが、それらは全く音を立てず、レコード・ディスクも回っているだけで、烏が鳴く声以外に聞こえてくるものはなにもない。やさぐれた人間が出ていった二人を見た。「まあ、いいだろう」と、なにかを諦めた様子で言っている。「ここまで言ってきたことのほとんどは嘘だ。こうして残っているお前にはわかるだろう?」彼は天井を見上げて男に言った。男は「わかるよ」とだけ言った。窓が開いている喫茶店からは、やさぐれた人間の怒鳴り声は聞こえなくなっていた。男は彼に「でも、あなたは詩人なんでしょう?」と言った。やさぐれた人間は男の決然たるまなざしを前にして、たじろいだ。二人の間に沈黙が横たわっていた。やさぐれた人間はビールを流し込もうとしたが、勢い余って口からこぼれてしまい、しずくが頬を伝い、首を流れ、服の中に落ちていった。雫の軌跡は自分と関わりを持っている。関係している。垢だらけの身体をもって安心していた。「なにもかもを捨ててしまった自分に残されている言葉たちも、いつか消えてしまうのだろう」。わかっていた。彼はその、具体的な記号が気に食わなかった。偶然の文字たちは、彼から離れ、森の中へ帰っていく。石に刻まれた文字たち。言葉の流れ。どうしてここに連れてこられたのか。エンジンを切り「ここにきたかったの」と言い、扉を閉めた。Rはコートを抱いて、ポケットから煙草のパックを取り出した。

「一本いる?」

「じゃあ、もらおうか」

 先端に火をつけ、吸った。

「ここ、本当ならくる予定はなかったんだ」

「ここにきたかったんじゃないの?」

「違うよ。ねえ見て」

 右腕を欄干の方に向けた。そこからは街の風景が見えた。陽が落ちかかるころであり「ぽつりぽつり」と明かりが見えた。扇型に広がる風景が綺麗だった。

「素敵でしょ?」

「素敵だね。綺麗だ」

「この場所が好きなんだ。ねえ、コーヒーでものむ?」

「のむ。でもいまは、なんとなくジュースがいいな。カルピスがいい」

「めずらしいね」

「コーヒーじゃ、味気なさすぎる。ねえ、どうしてここにきたの?」

 男は振り返ってRを見た。Rは缶コーヒーとペットボトルのカルピスを持っていた。コートは車に置いてきたようだった。「なんかね、この山がよく気になって、きちゃうんだ。景色は綺麗だし、予約してたホテルも近いから、いいかなって」と言いながらペットボトルを男に渡したRは、よれよれのパックからもう一本煙草を取り出して、火をつけた。男はもう吸い終わっていた。

「なんとなく、なんだけどね」

 揺さぶってRを起こそうとしていた男が、眠れないまま横になっている。

「この山には墓場があるんだ」

「親戚の人の墓があったり? むかしきたことがあったとか」

「違う違う。この場所を見つけたときに、森の中で迷子になっちゃって、その時に歩いてたら見つけたの」

「へえ」

「知らない人たちの墓を知らない場所で見るのって、不思議な気持ちになるんだ。行ってみる?」

「女の子から墓場に誘われるなんて。でもいいよ。行ってみよう。チェックインまでまだ時間はあるだろうし、迷子になってもそれはそれで楽しそうだ」

「迷子にはならないよ。道は覚えてるもん。それに墓場だから、ちゃんと迷子にならないように道が作られてる」

 Rの言うことは確かだったし、欄干のあるところから少し歩くと、そこは墓場だった。森の中にある墓場だったが、男は不思議と恐れや不気味さを感じず、Rと一緒にいることが一層幸福なことに思えた。Rは、ことあるごとに「死んでやる」と言う人だったし、こうして墓場に誘われるのも、おかしなことではない。Rは男の手を放し、枝箒が置いてある倉庫まで歩いていった。そこで「わたしはここで死んだの」と言った。続けて「墓場で死ぬなんて、おもしろいことだと思わない?」と言った。顔にかげりが見えたが、少女は微笑んで「ここで焚き火をしよう」と提案した。

「死んでから、この倉庫に地下室を作ったの。いろんな本が置いてあるんだ」

「全部読んだ本?」

「ううん。全部なにも書いてないの。全部のページが白紙なんだ。もしかしたら、わたしは死んじゃったから、そう見えるだけかもしれない」

 少女は倉庫に入って、本を一冊取り出してきた。

「ねえ、読んでみて」

 なにもかいていなかった。

「ね、かいてないでしょ? もう、燃やしちゃおうと思って。それにあなた、寒そうにしてるから」

 本が燃えている。燃えつきた灰が少女の頬に張りついた。頬を拭おうとして少女に近づく。

「あっ」

 火の粉が右肘に飛んできた。熱い。少女は「くすくす」と笑って、頬をなでた。本をもう一冊炎の中へ投げる。少女はなにを思っているのだろう?

 少女は足をばたばたさせている。そのつま先は炎に触れていた。

少女は痛がらず、微笑みながらこちらを見ている。「そのシャツ、高そうだね」と言った。

「落ち葉に炎に、ついてないね」

「でも、かして」

 少女は腕を取って、火の粉がついたところを舐めた。

「痛くない。痛みがなくなった」

 少女は苦そうな顔をしたが「よかった」と言って、また足を炎に触れさせた。「熱さなんて忘れちゃった」。少女は次々に本を燃やしていった。炎は燃える本の数に従って大きくなり、皮膚がひりひりと傷んだ。

 木々は二人を囲んでいる。

 きっといまも、木たちは伸びているのだろう。少しの風を感知して、枝に繁らせた葉を鳴らす。「この森から出ることはできない」そう思った。この少女と同じく、やがてこの炎の熱さは感じなくなるのだろう。痛みも感じなくなり、死んでしまったことになるのかもしれない。

 ある大きな本を炎の中に入れた。「ぼうっ」と炎が音を立てて、本が燃えていく。炎は深夜の宮殿内で灯る燭台のようにかぼそく光っている。そうして彷徨う女はレッド・カーペットを慣れない足取りで歩いた。レスト・ルームへと向かっている。宮殿に展示されている数々の甲冑や絵画。女はそれらを眺めることなく、宮殿のなかを進んでいった。白い壁紙にところ狭しと飾られているものも、女にとって、特別なものとは思えなかった。飾られてしまったものから受ける感慨。開いている扉から妙な香りが漂ってきた。

「夜は暗いけれど、この宮殿の中よりは暗くない」と女は思った。

 そうなのだ、暗くない。でも女は恐れていた。恐れを紛らわすために、うつむきながら考え事をした。恐れは女の考え事に移し替えられた。

「ぐっすり」と眠ってしまった男は女と同じベッドに寝ている。「私はもうそこいない。でも彼は眠りをやめないのだろう」と考えた。男の眠りは深かった。女と戯れたあとに、全身の力が抜ける瞬間がある。男は言葉にならないことをつぶやき、そのまま眠ってしまうのだ。眠ってしまった男の呼吸がする。男はほとんど動かない。目を閉じた男は、そうして一日が終わる。暗い宮殿の中を歩く女は、目を閉じた男の一日からはみ出ている。

 明日はある人物との会合が控えている。そこで女がなにか特別な事をしなければならないわけではない。でも、彼らの皮相な会話を耳にしてしまうだろう。きっとその会話にうんざりしてしまうだろう。女はそれを呪いたい気持ちになった。宮殿に彼がやってくる日が近づくにつれて、そうした思いは大きくなった。その思いは、こうして宮殿内をひとつの燭台の灯りを頼りに彷徨っている間に生まれた恐れと、どこか似ているような気がする。

 ここで見えるもの。燭台の仄かな灯りで光る、傷一つないの甲冑のサビや、画家によって極度に歪められた現実の形骸、朱色のカーペット、この宮殿の暗さ、これらの全てに女は恐れの気持ちを移した。女は暗闇の中にいた。燭台を手にしながら尿意を我慢する人間。まるで、もがいているかのようだった。恐れを、別のものに移している間、一歩も動いていなかったのだ。女は、身体が大きくなったような気がした。さらに女はあることに気づいた。

 再び歩き出した。見えるものの中を揺蕩たゆたうように歩みを進める。男は私の残り香に包まれて眠っている。「私は歩く、歩くために歩いている」。

 レスト・ルームまで、きた。女はレスト・ルームを通り過ぎ、角を左に曲がった。右手には螺旋階段が見えた。螺旋階段からも、階下からも展望できる大きな絵画を、螺旋階段の手すりに立って眺めた。巨大な絵だ。ただの風景画。ただの絵の具の集まりでもある。北欧の田園風景がえがかれている。なだらかな丘陵きゅうりょうに立ち潜む断崖がえがかれる後景に、羊飼いの少年と羊たちを前景。その二つが対比されている。この絵画には奇妙なところがあった。

 画家は北欧旅行を終えたあと家には帰らずに、そのまま中国の南西部、貴州省の中部に位置する安順市へと足を運んだ。彼から聞いた話だった。画家が見た二つの風景はこの絵に、同時に現れていた。北欧の田園風景がえがかれているというのに、中国風の掘っ建て小屋が見える。絵の具でえがかれているというのに、水墨画のような雰囲気がそこに現れている。

 女は恐怖した。

 玄関は「ひっそり」と閉ざされていた。玄関の上にはステンドグラスが張られている。ステンドグラスは、宮殿を取り囲む森の夜を宮殿の中へ通した。螺旋階段が階下に触れているその平面上には、絵の具が散らばっていた。螺旋階段の手すりを絵の具はよじ登っていき、女の後ろに回る。女は夜の光を浴びていた。大きな田園風景を見た。女はそのような台本の中で、螺旋階段の手すりに立ったまま放尿した。ネグリジェが尿で汚される。レッド・カーペットに尿が滴る。汚されたネグリジェが尿の重さによって女の脚にへばりついた。女はちいさなころに服を着たまま海に入ったことを思い出した。

 突然入ってしまった海の中で、女はもがき苦しんだ。海から出ようと、じたばたした。そのせいで、さらに海の底へ降りていった。藻が揺れて砂や塵のようなものが見えなくなってくると、女は身体を動かすことをやめた。自然にそれをやめていた。海の深くに落ちていく。陽光ようこうが届かないところまで沈んでいった。そこは自由だった。全てのものから自由だった。呼吸する必要がなかった。体育座りをして前転と後転を繰り返した。子供のように遊んでいた。気づけば母親が心配そうな顔をしている姿が目に飛び込んできた。「取り返しのつかないことをしてしまったんだ」。そう思った。そのこと感じて放尿をした。カーペットの上をひたひた歩き、放尿を我慢していたおかげで、長い時間、尿を出していた。女の顔にはさまざまな表情が同時に現れていた。まるで顔のパーツがなくなっているようだった。

 放尿を終えた女は、尿で濡れた螺旋階段の手すりで足を滑らせ、真っ逆さまに落ちていった。女はその流れを待ち望んでいた。思い通りに事が運んだことを喜んだ。流れていく時間の中で、次第に絵画がフェード・アウトしていく。手すりの支柱が見えた。次の瞬間には消えていった。目を閉じた。深い海の底へ沈んでいく。水の中へ沈んでいく。この奥へ沈んでいく。降りていく。

「ぼうっ」と炎が鳴り、女は消えていった。女の恐れも、炎の中に消えていった。女の灰は大気を彷徨さまよった。

 少女はそれを吸い込み、吐き出した。

「ねえ」

「どうしたの?」

「君って、どうして死んじゃったの?」

 少女は神妙な顔つきになった。

 烏が低い鳴き声を上げた。

「ざわざわ」と木々が鳴り、烏の大群が空を飛んでいく。

 少女は人差し指の付け根を上唇の裏に当てた。

「わかんない」

「でも、ここで死んだことは覚えてるんだね」

「死んだのかなあ。それもわかんない」

 あたりは静かになった。針は上げられ、アームが水平に動いた。音楽が終わった。音楽の全てが消えていった。

「新しいの、かけてよ」

 マスターはレコードの棚に立って「ジャズがいいですか?」と、やさぐれた人間に向かって言った。やさぐれた人間はビールをのみほした。

「ピアノ・トリオがいいね。しっとりしたやつがいい」

「ピアノ・ソロは?」

「それもいいね」

「このあいだ、クラシック音楽を調べていたんですが、とてもジャズみたいな曲をかく作曲家をみつけたんですよ」

「ほう」

ウクライナの作曲家で」

キリル文字かあ」

「魅力的ですよね」

キリル文字が踊るジャズって、想像しただけで素敵だね」

「でも、文字はもうないんじゃ?」

「あれは一種の実験だよ」

「そうだったんですか」

「なくならないよ。どれだけ忌まわしくても、文字は消えないね。文字から生まれるものも消えない」

「われわれも?」

「そうさ」

「表裏一体ですね」

「まったくその通り」と、やさぐれた人間は、ジャズのようでどこか構造的な、はじめて聴く音楽に浸っていた。「ジャズも構造的だろう?」「まったくその通り」。煙草を咥え、火をつけた。マスターはやさぐれた人間にコーヒーを出し「どうですか?」と言い、微笑んだ。頭をかいた。やさぐれた人間は「いい詩がかけそうだ」とつぶやいた。煙草をひとくちふかした。