happycat/永遠性

創作物置き場 小説や詩が置いてあるよ

‪vaporwave‬を感じる戯言集

これらの文は、僕が一人暮らしをし、大学を毎日サボっていた頃に、薬と本の強さをかりて書いていた文章だ。

ひどく稚拙な表現が散見されるが、これは意図されたもの、またはただ僕がバカだっただけである。

再公開は再後悔に繋がるかもしれないが、ちょうど今、強く関心を持っている事柄の要素が、文中に散りばめられている。だから再公開に至った。

僕の思考は、出来るだけ僕の思考だけにしておきたいけど、文にするということは、そこから「僕の」は無くなってしまう。それを承知で、僕の思考の、壊れかけの、ポンコツな文章を読んでいただける方々には、このどこかが衝撃になってくれることを、僕は望んでいる。

 

また、順番は時系列順ではない。

ただの思いつき、福笑いみたいな文章群の並びだ。僕の顔は福笑いのように歪んでいるが、フランシス・プーランクの人間の顔に感銘を受けられる諸君には、福笑いの感動が、きっと伝わってくれるだろう。信じてはいない。これは期待と、とても個人的な予感、兆候だ。

 

もくじ

聖なる少女への幻想(美少女アニメアイコンについて/非接続の「ただかわいい」)

音楽と心象 思考と他人

他人に無関心・自分に誠実について

他人から汚れる・性交について

即興的小説『聖(じりじり)』

9/7

おもうことなど/過去に書いた小説

 ◦八月のおんなのこ

 ◦Re八月のおんなのこ

考えごとをする

哲学について

人生について

日記(スペクトラルウィザードとか)

大もりそばの太陽の念仏

 

 

 

聖なる少女への幻想(美少女アニメアイコンについて/非接続の「ただかわいい」)

最近 いや、もう最近ではないのかもしれないが……
セーラームーンや、らんま1/2などの
いわゆる、むかしのアニメの美少女を
Twitterのアイコンにしているアカウントが増えている、感覚的に
しかもそれは穿ちすぎのオタクが、ということでもなく
10代の女性がしていたりすることが多い
考えてもみよう、彼女たちは、セーラームーンやらんま1/2を観たことがあるだろうか
僕は小学の頃
周りの友達はみんなドラゴンボールを観ているというのに、
僕は観たことがなく、まったく話についていけない、ということがあった(いまもだ)
女性のコミュニティはわからないが、こういう事情で
既にセーラームーンやらんま1/2を観ていたということも考えられる
がしかし、それでも、アイコンにセーラームーンやらんま1/2を
使う理由にはならない(ドラゴンボールアイコンが少ないから、というか、これは感覚だけども、ドラゴンボールアイコンの人間はたいてい”ヤバい”やつだ……)
また、メンヘラという言葉がネットを席巻しているが
メンヘラたちはよく、このアニメアイコンをしている
話はずれるが、スマートフォンの写真撮影能力は向上し続けている
今や、下手な一眼レフを買うよりもスマホで十分だと言われるほどだ
けれども面白いことに、
スマートフォンを使用する層は、
その高画質の写真にフィルター(加工)を施し
雰囲気を調整する しかもこの加工は、ほとんどの場合画像の劣化に繋がる
撮った写真をわざわざ劣化させて、完成させるのだ
なぜだろう?
実をいうと、このアニメアイコンと、フィルターの親和性は高い
ゆめかわいいに代表されるように、
ファンシーな雰囲気を醸しだすのには、フィルターがものすごく合っているのだ
とはいえ、それは劣化であり、対象物を曖昧にさせる作用がある
書いていて思ったが、これは、
20世紀のはじめに印象派美術・印象主義音楽が隆盛をおさめたことに似ている気がする
パステルが流行る裏ではビビッドが流行るような、
つまりビビッドはフォーヴィズム(野獣派、と書くと誤解されそうだが……)
あるいは、ビビッドはブラッドかもしれない……
ここから見えてくることは、幽玄さだろう
見えなさ、わからなさが、それを掻き立てている
また傍らでは、肉と血にまみれた、輪郭のはっきりした
それからでも掻き立てている
メンヘラの場合だが、これは憧れの要素が強いと思う
現実の少女にある血、経血のような生々しさが消去された、
「ただかわいい」だけを指す、「かわいい存在」への憧れ、幻想
だろう(もちろんそれの裏で、経血への憧れ、幻想もあるだろう……)
ファンシーさ、パステル、ゆめかわいいに潜む狂気の本来は
それになることが、絶対にできない
それに近づくことが、絶対にできない ことに由来する
他方の、生々しさも、追及すれば、できないことになる
が、可能性はある ゆえに、もしかしたら、もうなっているのかもしれない
そう、パステルにも、もしかしたら、もうなっているかもしれない
こともある いわばそれはネットだ
定立するインターフェース、視点が反転しているだけなのだ
客体基準か、主体基準か である
総じてこの幻想は、たしかにむかしからある
が、結局は芸術の領域に過ぎない(記録がない)
日本では耽美主義、海外ではとくにフランス文学によくあった娼婦ものが
そうだろうと思えるのだが、どうだろう
これらはやはり、定立するインターフェースは客体であるだろう
娼婦という、稀有な、客体に生きる人体は、幻想に恰好の道具なのだ
しかし、文学という場において、記述の観点ならば
これは、主体と客体の比重はたやすく反転する(読者がいるから)
その上に、娼婦という、基本、客体に生きる人体を前に出すと
このインターフェースが主体になることもしばしばだ
日本のそれは、死に近いものとしてある
これは代えがたい、絶対的な他者であり、死神だ
そしてそれは幻想の中であり得、接続不可である
その幻想は、多くの場合、定立するインターフェースに惹かれるわけではなく
幻想に憧れるのだ、幻想への幻想なのだ
それは無意識裡に、自分が確かにある、血がある熱がある生きている生きていかなければならない生きつづけなければならない病に苦しみ意識に苦しみ他人に苦しみ社会に苦しみ生活に苦しみ身体をどこまでも引きずって生き続けるだろう「わたし」
が想定されているだろう
ああ、ここまで書いた 疲れた

 

 

音楽と心象 思考と他人

コンビニに行って、ムール貝の蒸し焼き(こんな名前だったと思う)と、
適当なお菓子を買おうと家を出た
実際に買ったのは、
・スペクトラルウィザードの新刊
山川方夫の夏の葬列
新潮文庫リルケ詩集
・だしがうまい! 手塩屋 ミニ 生姜(しょうが)香り立つ旨だし味
・かむほど旨いあたりめ
であり、そもそもムール貝が売ってるセブンイレブンにすら行かなかった
帰り道、なんとなく、公園に寄った
暗い公園は意外にも明るい そこで僕はたばこに火を付けた
ツイッターで流れてきたある漫画に
「煙草って 瞑想みたい」という一説があったことを思い出す
これはとてもよい言葉だ 大好きだ
そこで僕は瞑想した
夜の僕の夜の公園の夜の瞑想だ
ここから先は、ぜひともこの曲を聴いて読んでいただきたい
というのも、ここで僕はあることを閃くのだが、それの手掛かりになったのがこの曲だからだ インストであり、ゲーム音楽なのだが、素晴らしい曲だ ストリングスが豪華であることがその要因であると端的に言ってしまうのも憚れるほど、シンフォニーのようで、高揚感がある ちょうど、ショスタコーヴィチレーニングラードのような曲なのだ 僕はこの曲が好きだ ぜひ聞いてもらいたい
www.youtube.com
この曲を聴いて初めに思い付いたのは、この曲には高揚感があるという端的な事実だ
高揚感がある、それはすなわち、兵隊が隊列を成し、ザッザザッザと野を進んでいくイメージが煽られるからだった そして、行進曲のようなリズム これらがこの印象を喚起した
では、「行進曲的リズム」と「行進」は接続されているのだろうか?
これに腹が立った
音楽と心象が固定されていること、これはとんでもなく許しがたいことだ 音楽はプロパガンダに利用される水準を満たしている!
というのも、これは先ほどの端的な事実と同じくして、僕のなかでは端的な事実だった
端的な事実だから腹が立ったのだ!
lo-fi hip hopが流行っている
これは物凄くわかりやすく、リラックスする要素がこのジャンルにあるからだ
短いパッセージを反復するこれは、ラヴェルボレロに近い が、ボレロは高揚感だ
反復はすなわち生命を意味するのではないだろうか? にわかに許しがたい!
高揚感が普遍の心象であること それは端的な事実
では心象はいったい、「だれ」なのか
それは言うまでもなく「僕」だ
そう、普遍的である心象作用を胚胎する心象は「僕」でしかありえない
僕はここで、誰か無口な人間(唖であればなおのこと良い)が傍に居てくれたら良いと思った
生涯添い遂げてくれても、添い遂げてくれなくても良い、その時(たばこを吸っているとき)に思ったことだ
そして次のことを考えた
「複数人の思考がある場で行われるとしたらどうなるだろう」
どうなるだろう
この時の前提は、テレパシーではないというところにある
テレパシーのように言語的なものを介して思考するのではなく、
思考そのものが浮遊する場なのだ
我々は言語で思考していると思いがちだが、そうではない
言語が追いかけてくる、言語が僕らの思考に纏わりついて離れなくなる
それが僕らの思考だ そうでないものは一般的に、感動と呼ばれる
この思考実験では、面白いことが考えられた
一つは、思考のレスポンスが相対的時間になるということだ
思考は主体の時間にて行われる
しかし主体内時間が成り立つのは、あくまで主体のみが思考しているときだ
ここである他人の思考がそれに介入(あるいは邪魔)をしてくると、
主体内時間は相対化され、面白いことに絶対的客体内時間の思考になる
相対化されて絶対的時間になるのだ
そしてレスポンスは早い 信じられないほどの速度である
二つは、「痛み」が現れることだ
たとえば、この思考の場にいる君が僕に攻撃的な事を思ったとする(一般に、「傷つく事」とも言える)
簡単な話、「僕」は傷つく 絶対に傷つく
同期された思考空間から、僕らは仲が悪くなる
もうひとつ、君が僕にとって好ましくないことを思ったとする(一般に、「空気をよまない事」とも言える)
これも簡単な話だ、「僕」は君を軽蔑する
ここから最も面白い考えが生まれた
「思考は、痛みを伴わない」
そう、思考は<痛み>を伴わないのだ
あの仮想状況では、必ず<痛み>が生まれる
それは他人が存在するからだ
しかし面白い事に、現実世界(「現実世界で思考すること」ではない)では、
他人ではなく、他者に<痛み>を与えられる
ここが核心だ! では、それはいったい、なぜか!
それは、「思考が自己」だから「思考が<僕>」だからだ!!
思考は何を隠そう<僕>自身であり、「君」に意識があると仮定すれば「君」も<僕>である
「僕」-<僕>と「君」-<僕>は違う なぜなら、「僕」は「君」ではないし、「君」は「僕」ではないからだ
しかし独我論になりやすい……これは<僕>の存在が明らかになったということだ
同時にこれは「君」-<僕>も否定することになってしまうが……
だがまあ、普遍的なものとして扱いたい一心から、こう要約することもできる
「痛みを感じるものは、自分ではない」
自分の心は傷つかない!
同時に村上春樹のことも思いついた
たぶん、彼も同様の思考実験をしたのだろうと思う
それは『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』に顕著だった
ねじまき鳥クロニクル』では、主人公が井戸に潜り、思考が混濁して、他人の思考に接続される これは河合隼雄との対談本にもある通り、井戸が集合的無意識の場として選ばれているということになる(僕が言った、「思考の場」は「集合的無意識の場」ではないような気はするが…… ここで肯定すると、「無意識が<僕>」であるということになる……)
海辺のカフカ』には、主人公が「想像することも悪である」というようなことを考える 象徴的なシーンとして、女性が寝そべるベッドに入り込んで「さくらさんの裸を想像していいですか?」と断りを入れる(なにしろ主人公は15歳なのだ……)
そののちに主人公は山奥に入るのだが、ここも集合的無意識の場となっている が、変化しているのは、ここが死者の場であるということだ
村上春樹の文学におけるディスコミュニケーション性は反復され、幾度となく姿を変えている そして『海辺のカフカ』にて萌芽したのは陰謀論のようなものだった
これは、集合的無意識の場の肥大化、構造化における疾患だ
肥大化する集合的無意識の場は、なにを隠そう『ねじまき鳥クロニクル』では、「運動し続け、主体的行動によって変化させることが出来る」ものだった
しかし『海辺のカフカ』においては、運動は一つの想像となり、形が確定されてしまった
枠組みがあるからこその陰謀論なのだ
「僕たちが普段使っている検索エンジンから移動できるインターネット」以外がダークウェブなのではない、全集合Uは陰謀論を確定し得ないのだ
超越は、沈潜以外にあり得ないということだ <僕>を研ぎ澄ましていくほかない

 

 

他人に無関心・自分に誠実について

ああ、今日はなんだかいっぱい考える
そう、今日読んだ(まだ読み終わってない)、阿部和重と女性作家数名との対談で、角田光代との対談で、角田光代が「そんなに論理的に冷静に指摘してくれるのは、きっと阿部さんが、他人に無関心だからですよね」という旨を指摘していたのが、あまりにも面白くて、心の中でクスクスと笑っていたら、いつの間にか自分にも跳ね返ってきた!
たしかに! 自分はきっと物凄く自分に無関心なような気がする
僕は、いろんな人間から相談を持ち掛けられる いや、知らないうちに相談話になっているから、もしかすると自分が相談しろー相談しろーと言ってるめんどくさいやつなのかもしれないが
実際、相談にのって、「ああ、相談してよかった」と言ってくれる人はたくさんいるし、これまでで一番高い賛辞は「わたしの一番大切なものを思い出させてくれた(なんで忘れていたんだろう…)」であった
すくなくとも相談に乗るのが下手ではない自分が、阿部和重に向けた角田光代の言葉を通して、内省に至ることになった
そう! 面白いことに、僕自身は「相談で解決することは何もない」と考えている
心療内科に行った節・カウンセリングを受けた節・仲良くしてくれる(賢いであろう)異性に悩みを打ち明けた節、どれも解決の糸口にもならず、そう、心療内科では医者が相手しやすいだろうと思う症状の羅列(虚偽交じり)、カウンセリングでは直接病名を与えられるわけではないだろうからとりあえず自分の失態を羅列、(賢いであろう)異性ではいわゆる弱い/弱ってる男の演出に尽力してきた
こうすると、自分がいったい何なのかわからなくなる
と、思いがちである
自分は哲学に沈思黙考することはあれど、〈じぶん〉というもの
アイデンティティについて考えたことはほとんどなく、自己同一性という言葉を使い、中身は分裂症について語っているということがしばしばであったりする
そう、自分は一般や普遍を毛嫌いしつつも、自分以外を一般・普遍の枠に閉じ込め、ユング風に類型を定めていたりするという実態
たまに自分を喪失したいときは思考の最中に、自分も人間であるから・言葉を使うから、と抽象し、自分さえも、自我を持つ自分さえも一般・普遍・国民の一人として、要素として扱い、悦に浸ることもある
そんな中で自分は、いったい人道主義者であり、博愛主義者であるなどと言えるはずはないのである
つまり自分を覆っているのは限りないこの世に対する無力感、無関心、無意味、それなのだろう
いやしかし、そう、Twitterで長らく付き合ってくださっている方、いや、長くなくても、もうここで実ハンドルネームを上げてしまいたいくらいの、僕のお気に入りの方々、その方々に対してはほとんど自我分裂的になっているともいっていい
しかし僕は嫌われる
長らく繋がっていた人、いや、現実世界の友達であっても、いともたやすく縁を切られてしまう
それはきっと「自分に誠実」であるからだろう そう、例えば性欲が湧いてきたら女性とどうにかして会話する、といったような、つまり分別のない行為 そしてTwitterに書き綴る、裏の裏まで読まれかねないその行為において、彼らには様々の感情を宿してしまったに違いはない それが「自分に誠実」ということになるのだろうが、僕自身は、現実世界では、自我をなくしてまで、他人と仲良くしようとする人間なのだ 前述のとおり
この差異というのはなかなかに面白いと思う
そして、僕は生来から人に嫌われ、貶され、殴られていたような人間であり、その部分のメンタルというのは異様に強いことが最近分かってきた、悲しい、けども…仕方ない、そう、仕方ないそれで人生が一つの円環を築いている
例えば、祖父は僕が中学生の時に死んだ その時僕はほとんど何も思わず、泣きもしなかった……とすると中二病じみているので、これまでの文脈にあった事実を語ると、
死の間際で、親族に名前を呼ばれ「(もう名前も覚えていない)!」、なぜだか僕や弟が名前を呼ぶと心拍が回復するという状況が、可笑しくてしょうがなかった、まるでこんなもの、ドラマのワンシーンじゃないか! なんでお前らはこのまま死体と化し、生きている者に燃やされる運命にあるこの生きた死体に声を浴びせかけているのか、無駄じゃないか? という風に可笑しかった ついでに言うと、祖父が死んだあと「ご臨終です」の声を聴き、病室からはじき出された時には、「とぼとぼと歩き」「両親から距離をとって」、「あるときに背筋が伸びて」「感慨深く後ろ(病室)を向く」。「父親に名前を呼ばれる」。という最強のお涙頂戴ドラマ/アニメセットをこなしたのだった
そのあと、祖母家には死体が来たが、眠っているそれと一切変わりがないように見えて、ただ、このまま放置していたら腐って大変なんだろうなあ、とその心配だけしていた
そんなもんで、自分は本当にもしかすると他人に無関心であり、自分に誠実である、ただそれだけであると、この文を読んでくれた方に紛糾されても、まったくお門違いのものではないのである
自分は、僕はそのところ「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」という、村上春樹風返答しかできない悲しさがある

 

 

他人から汚れる・性交について

僕は中学3年の冬に、深夜の自宅のトイレで初めて膣を舐めた
彼女とは付き合っていなかった 僕には他に付き合っている女性がいた
彼女とは、なんとなくのふざけで 深夜に呼び出したらあっさりと来てくれて
セックスはしていないけど、いたずらに身体で遊んだ
というか、自分はその女はまず好きじゃなかった
その日は僕はなんだか「自分が汚れたい」と思い、
彼女に連絡し、舐めたい旨を伝え、
ひと通りその理由を伝えると、なんだかんだで家に来た
暗闇で彼女が入ってくると、その先に僕は座っていたが、
ため息をついて、疲れたよ、というと、
お疲れ様、と抱きしめてくれたことを、なんだか鮮明に覚えている
そのあと彼女の膣を舐めたのだが、
舐めた瞬間、柔らかくも温かく、そして湿っている、
よくわからない感覚、ひときわ固く、舌を動かすとざらざらと音を感じる、
その陰毛の不可思議さに、僕はすっかりすくみ上ってしまった
急いでトイレから出ると、僕は洗面所で口をゆすいだ 3回くらいはゆすいだ
「病気になったらどうしよう」そんな恐れから、ゆすいだような覚えがあるが、
今の自分にとって、これにはもっと深い意味があるような気がしてならない
ときおり自分が汚れたくなる気持ちがある
男性であるからして、異性との性交で汚れることは難しく、
確かに女性自体が不浄なものとすれば、汚れていることになるのだろうが、
その価値観よりも、ピストン運動の繰り返しから生まれる、
洗練のような、ある意味の研磨作用のようなもので、
その男性性は磨かれているようにも感じる
やすりがけをしたところで、つるつるになるのは、
やすりがけられたほうで、
やすり自体は汚れ、
ぽいっと捨てられてしまう運命にあるように
男性は性の意味では、本質的に両性具有的であるから、
男性である僕は、男性である他人とセックスすれば、その意味では、
自分は女になり、汚れることが出来るだろうと、高校時代から
考えていて、ハッテン場として使われる匿名掲示板に入り浸っていた、
そんな時期もあった とはいえ、
素人相手に、まともに開発もしていないとなると、恐れ多く、
おっさんと相手するのもなんだかいやだった
これは汚れたい気持ちに反する、聖なる女へのあこがれだろう
『女帝』という漫画をそのむかし読んだ、
夜の世界で成り上がっていくストーリーなのだが
主人公の女は、純潔を守っていて、その純潔をあろうことか、
おっさんに捧げる というのも、そのおっさんは権力者だったから、
自分の身体を上手に利用したということになる
『パプリカ』にも同様に、
ある男の権力者に、男が身体を預け、それなりの地位を得る登場人物がいる
このようにみると、自分のこのいまだ開かれぬ穴はいつ何時
開くべきなのだろうかと思ってしまう
いや、自分はただ、地位のために女になりたいのではなく、
そのものとして汚れ、女として愛されたいのかもしれない
しかし、自分が女であるということは、愛してくれる対象は男である、
僕はこの人生で一度きりでもいいから、まともな異性間恋愛へのアンチテーゼという意味合いを抜いた次元で、自分を含めた男性を熱烈に愛したことはあったか?
きっとないはずだ
自分が見ているのは、娼婦としての聖性、男娼としての聖性だろうが
それも考えれば考えるほど怪しいものに思えてくる
いわば、汚れたいのか、聖なる女になりたいのか、好奇心で犯されたいのか
この考えがぐるぐると回っていて、
そんな考え以前に、単純な恐れの感覚がある
いったい犯されるとはどんな気持ちなのだろうか
男性としての自分は性交中、自分が望むからこれをしている
わけでなく、その女にマリオネットのように動かされ、
否応なく腰を振らなければならないような感覚に幾度となく襲われ、
それもあってか、正常に勃起し続けるのはまれであり、
性的逸脱は難しい 能動的な面が、身体的に悲鳴を上げている
では女性は受動的である、ただ男と唇を合わせ、陰部や乳房を触られると
準備は整い、ほとんどそれで終わる 濡れている時点で性交は約束されている
時間を先取りしているという意味では、性交は女性の胎内に設置された装置だともいえる
そして、荒れ狂う男根の猛攻に、ひたすら快楽を伴って耐え、喘ぎ悦んでいればよい
と、男性的視点からではここまでしか考えられない
実際、男根がファルスの雄たけびを上げ、射精とともに、性交は終わるから、
ほとんどの場合、男性はエクスタシーという満足を得るが、
女性はそうでもないらしい けれども、エクスタシー以外の満足感
それは一般に、許されている、包まれている、といった
安心のようなものらしいが、これが女性の子宮という泉から湧き
その男根を通じて男性への愛情に通じるらしく、
その愛情のベクトルは同じくらい自分の、女性性に向かい、
遺伝子を欲するようになるらしい もちろん、例外もある
こうすると、女性と男性には性交において大きな断絶があり、
その溝は、人類が埋められるようなものではなさそうだ
いったい、性交とはなんなのか
なにが起きているのか エクスタシーがもたらす精神運動について、自分は多く語ることはできなさそうだが、仮に自分が女として使用される場合を考えると、それを理解することが出来る端緒を掴めそうな気がしてならない
このくだらない人間の営為の真相は、ある種カフカ的な見えない権力機関によって統率され、僕たちはその中で、辛酸をなめて生きることとなっているのかもしれない
その根源に性があるとは、もはや信じがたいことではあるが、明らかに性がどうも理解しがたく、人間間、つまり性別間の深い断絶を生み出しているのは、否定しがたい事実であるように感じる
だからなんやねん って話だけど

 

 

即興的小説『聖(じりじり)』
 例えばあるものがここにある。否定することが出来ないさまをそれが発しているということにおいてそれが存在し、みて或いは触ることが出来るということで私の家になぜか横たわっているこの女体を、私はゆっくりと触ることにした。
 戸惑いはなかったというか、あるはずがない、あってはいけない、というのも私からしてみれば(女からしてみてもないのかもしれない)ここに全くの歴史的必然性はなく、ただいつものように帰宅するとベッドに裸の女体があったという、奇跡のような漫画のようなそんな流れだったからで、決してその女体に熟れの一要素もなくみずみずしくも張り詰めた幼年の風景しか知らぬような、いわば未成年の女の裸であったからというような理由ではないことはそれが犯罪であり、私は決して犯罪を安易に犯せるようなたちではないということがいい証拠になってくれる。
 つまり、これは幸運だ。ありがとう。神様。
 そんなわけで布団に腕を伸ばすと(確認のために一度布団を開いたが、その神聖さに私は目をつぶされてしまい、こうしていくつか自分の胸中で整理をしてから再度、私の汗が毎晩毎晩しみこむことになっているシーツ・布団の中へ侵入することになったというわけだ。少女が起きてしまった時の対処として、ベッドから70㎝先のテーブルの上には包丁が置いてあるのだが、これはれっきとした日本男児としての死を飾るためのものであって、聖なる幼女を惨殺せしめるために拵えたものではない。私が聖なるものの前で自害したと知れば、聖なるものはもはや慈悲などなくいや慈悲心から、それは私にとっての慈悲心から、首を切ってくれると思う。多少刃こぼれしているような気がしなくもないが、聖なるものたるもの包丁など調度品に頼らず私を暗黒へと葬ってくれるだろう。いや。そうでなくては聖なるものとは呼べない、あらゆる聖なるものは常軌を逸してい、私たち生きる業を背負った俗なる民の上に君臨するものなのであり歴史を正しく動かす力もあるだろうから、私はこれから幼女を犯すという禁忌に触れようと、触れるまでもなく企図しているのだから、それを聖なる女神は甘んじて看過しうることなく私を抹殺してくれるに違いはない。私はもはやこの時点で生きる価値などない犯罪者なのである。とはいえその罪はこの国において定められた法を侵犯することではない。人間の根源たる道徳を犯す罪びととして私は、頭上に置かれているキリストの左手さえ見えないほどの下からミケランジェロの皮で窒息死する運命にある。とはいえ私はキリスト教に疎く、無神論者ではあるのだが……)少女の裸体によって暖められた布団の風景を感じ、ほとんど開いていないにも関わらず、甘酸っぱく淫靡な(淫靡?)香りが鼻腔をくすぐり、私は勢いよく勃起してしまった(聖なるものを前にして勃起するようなことは、私の身体自体が間違ったものであるというわけだ。これではっきりしたように私はこれから、あの汚らわしい老人のように緩慢たる生をすごすことは拒否されているのだ。ああ、はっきりした。私は生きるような価値などない。とはいえ、すべての人間に生きる価値があるとは、まったく思えないのだが……)。
 私の陰茎は、裸の少女を貫いた。少女は女として、男を迎える準備は既に整って(いや、それはおろか少女の股付近のシーツは不自然にも湿ってい、なかでも半固形な物質が置かれていたのを私は、聖なる魂の涙の結晶のようなものだと早合点するや否や、二本の指、というのもその指で股座をもてあそんでいた訳で丁度よかったため、掬いながら全く揺らぎのない心で聖なる魂を享受するために、この私の不浄の口元へ運んでいく間に私はいっとき不思議な感覚に襲われたが、そんなものはこの百合のような香りの前では特に意味をなさず、適当な時間の隙間で戸惑いはその香りに吹かれ飛んで行ってしまったので、私は聖なる魂を口に含む結果になったのだが、どうだろう。ほかの女のラヴ・ジュースと特に変わった味はしないことに、どこか不満を覚える結果になった。といってもイエスはわざわざ人間の御身に変身し、下界に降りなさったのでイエスが小便や大便、自涜に耽るようなことがあってもおかしくはなく、なんというか私はそちらのほうが興奮するのであって、私がさっき信じられないほどの勃起をしたのは聖と俗の違和に反応したように思えて仕方がないのであった。とはいえ私はキリスト教に疎く、無神論者ではあるのだが……)たのだから私はそれに一つ十字を切って(とはいえ私はキリスト教に疎く、無神論者ではあるのだが……)少女を貫いたのだった(なぜだか自分はこのように整理していながら、あの≪原因と結果≫を逆に解釈しているような気がする。というのも私は科学者ではないからそこまで≪原因と結果≫に則す意義はなく、思考において道徳的禁忌に触れることがなければ自由に思考することが出来るはずなのだ。とはいえ私はキリスト教に疎く、無神論者ではあるのだが……)。
 少女は私のベッドで血まみれになって死んでいた。私(の陰茎、すなわち包丁)はそこではじめて勃起し、少女のブラッド・ジュースや腸液でぬらぬらとしている少女の大腸から大便や宿便を風神のごとき肺活量をもって吹き出し、丹念に血液でその中をコーティングすると包丁を挿し込み、射精しようとしたのだがすんでのところでインターフォンが鳴り、私は「なんだろう」と小声でつぶやくなり玄関へと向かう右手には陰茎を携えていたのだろう、というのも玄関先では大絶叫に見舞われるのだから、私はただそのさなかで陰茎を素早く扱うすべをさっき知ったので若い女の首元を切り、子宮を摘出するのに時間はそこまで必要なかったし、その次に包丁で私は快楽を知る。私はそのようにして生きているのだが、右手も左手も血まみれだ。今はマーク・トゥエイン全集を読んでいる。葉巻はいかが?

 

 

9/7
思うに僕は常識を持った人間のはずだ 少なくとも自分は自分の常識の中で生きていて、どこか常識から外れたい気持ちがあれば、苦心しながら外れようとする 結局どれもこれも常識内の出来事のような気がするのだけれど
昨日、親友と遊んだ 彼とは小学からの仲で帰省するときも「遊ぼう」といわれていて「呼んで」とも言われていたのだけれど、全然呼んでいなかった 遊びたくないわけではないし、家にいて何かやるべきことが大量にあるわけでもない いや、読書はしなければならないのだけれど、この頃はあまり捗っていない
そんな中で、やはり彼の持ちかけにより昨日は遊ぶに至ったのだが、彼は僕に「呼べって言ってんのに呼ばないし、俺嫌われてんのかと思った」と漏らしていて、はた、と思ってしまった
自分は彼のことを親友だと呼び、またそう思っているし、これはきっと一方的なものではない けれども自分は、そう、自分と彼が≪親友≫という文法関係にあるのなら、僕たちは≪親友≫という文法を成立されられる関係を築く必要があり、それは最小単位としての共通理解でも構わない
と考えると、自分は≪親友≫のような関係を(イマージュとしての)彼と構築していたかというと、閾値ギリギリだったような気がしないでもない いや、人間関係なんてものをこう考えること自体おかしいことなのかもしれないが、実際のところ僕はある意味ほとんど一方的に思いを寄せていて、実のところ実際的なものをしていなかったことに気づいた
なぜか?
めんどくさいからだと思う 自分はなんだか、毎日に退屈し辟易暗澹虚無生活を送っていて「あーなんかおもしろいことねーかなー」とリビングで叫んでは、親に「じゃあ風呂掃除して」と頼まれる生き方が実家での僕の生であり、そんでもこっちの誰かと会いたい気持ちには全然ならなかったのだ つまり生活を変えるような(気をつかってしまうような)ことはしたくないのだろうと思う
しかし親友と遊んだのは楽しかった 令和ですけど、国内外90年代ヒットソングを親友の車で流しながら僕はファミコンソフト(ドアドア:小学から欲しかった)を買ったり、たばこ屋に行って一緒にわかばシガーを買ったり、スマブラとかをした 充実という言葉が似合うなあと思ったけど 悩む結果になった
自分はその≪親友≫をあまり考えることはないのだが、これと同じく≪恋愛≫を考えていた つまり、半分外れ半分正解・手垢まみれの言葉で言うならば「理想的な」がつく恋愛を追い求めていたと説明できるらしいが、そんな簡単なものではない というのも、≪恋愛斯ク在ルベキ≫をずっと考えていて、そうすると〈心中〉〈情交〉〈CM風〉と分けけられ、これまでの多くは〈CM風〉を志し形はそれを保ちながら、僕はメイン(楽しみ)として〈情交〉を選んできた 〈心中〉は最大の愛なので、自分は今だ達成できていないし漸近も、するかどうか微妙なところなのである
こんなめんどくさいことを考えないほうがよろしい とこの頃やっと気づけたので、考えないようにはしているが
ついさっき≪親友≫と〈恋愛〉をすり替えたように、ことばはこうしてすり替えてしまうことが出来て、それは多くの場合突飛な意味にとられない(日常会話レベルならば) これは、日常会話というものは根本的に意味を喪失している裏付けになる ということは「(日常)会話」は「交感」なのだろうと考えられた 無意味な言葉を触媒に、相手になんだかわからない感情を植え付ける、種付けの行為なのだろう
僕はこうして考えているのだがなんなんだかよくわかんなくなってくる 自分が正しく賢く考えているようにも考えられるが うーむ・・・ つまり、謙虚さというやつが足りないらしい しったことかこのたわけ
知らんし知らん知らんらん知らんらんらんらんらんら、それわか卵子

 

 

おもうことなど/過去に書いた小説
さっきコンビニに行って
・ラーク マイルド
・ダース ビター
・カフェモカ
を買ってきた ら、くじが引けたので、手元にくじを二三枚引きよせ、当たり以外を箱の中に捨てて、当たりくじを引き当てると、缶コーヒーが貰え、無糖と微糖が選べたので、微糖にし、店員さんが、もぞもぞと「ほ、ホットで……?」と言ったので、意味はよくわからなかったが、とりあえず、自分がいるレジの傍にあった、その缶コーヒーの微糖、ホットを手にし、当たりくじと交換してもらい、店内にある、ゴミ箱に、たばこのフィルムと、たばこを開けてすぐに出てくる、白い紙を、手前は引き抜いて千切り、僕は、そのあとに、後ろ側の紙も取らないと、気が済まないので、それを、ちょうど矩形になるように千切って、店内を後にし、店内の、もう無くなってしまった、成人向け雑誌コーナーに位置する、店の外の喫煙所にて、缶コーヒーの温もりを感じながら、ひとしきり煙と戯れてきた
ああ、生きている
秋になってきた寒さが身体にあたるのを感じた
秋といえば、ナット・キング・コール
僕は秋になるといつもナット・キング・コールを聴く
僕がナット・キング・コールと出会ったのは、中学二年生の秋で、中学二年生の秋と言えば、初めてセックスを経験した季節でもあった
あれから、さあ、5年は経っただろう
僕は毎年、秋になるとナット・キング・コールを聴いた
当時はもう一つ大きなことがあった、母親の不倫だった
家に帰ると、なぜか、早く父親が帰宅しており、母親も父親もどこかよそよそしく、弟は、その空間に調和せずに、こたつに入ってゲームをしていた
あきらかな違和感から、僕は母親になにか言葉をかけられたのも無視して、母親に「どうしたの?」というと、母親はなにかがこみあげてくる表情を必死に隠して、僕を外へと連れ出し、一緒に近所のコンビニへと向かった
母親に「何でも買ってあげる」と言われ、たぶん、なにかしらのチキンと、なにかしらのアイスを買ってもらい、その、なにかしらのチキンと、なにかしらのアイスが入っている、ふたつの袋を手に、僕は助手席で、泣きじゃくる母親の、姿をなんとなく眺めていた
家に帰ると、父親から、冷静な、とはいえいささか狼狽を隠しきれていない、事情の説明をされ、たぶん泣いた ここは、泣いた方がいい場面だと思ったからだった 僕は小学校低学年の時にいじめられていて、そのときに身に着けた、嘘泣きで涙を流す特技を身に着けていたから、いつでも、自分が泣くべきだと思ったところでは自由に泣くことが出来たのだ 今はもうできない
凍てつくような夕飯を終え、昨日と同じ温度の湯舟に浸かったあと、僕は父親に、慰めの気持ちを込めて、ナット・キング・コールの枯葉のURLを送った
~~~~~
まったくつまらない話だ、この数日後に、母親と父親が茶の間で大喧嘩していて、僕は二階にいたから、うるさいなと思って、トイレで、足をダンダンと床に打ち付け、無言の抗議をすると、すこししてから静かになった
さらに数日後、父親と母親が僕の部屋に、二人そろって土下座しに来た
僕はちくしょう! と思った なんで離婚しねえんだ! 僕の筋書きでは、ここで僕の家族は離婚し、弟は母親に引き取られ、僕は父親に引き取られるだろう、そして、数か月に一回だけ母親に会い、苦々しい顔を抑え、ささやかな喜びと同じくらい、過去の自分への悔恨を味わう表情から、おいしいごはんをご馳走してもらうのだろうと、そう夢想していたのが、台無しになってしまった!
僕は、なにも起こらず、日和ってやがる両親への怒りのようなものからか、夜にはマイルス、ロリンズ、サッチモ、ナット、そしてクリムゾンを聴き、ついに深夜、玄関から女の家に向かい、女は十分濡れていたから、前戯などせず、避妊具を付けずに挿入し、好きでもない女の耳元で愛(失笑!)を囁き、女の黒いパジャマに射精し、逃げるようにして、自転車を漕ぎ、上り坂でパンツに手を突っ込んで、愛液を舐め、月を見て、つい先日別れた女が、そろそろ誕生日だったな、と思いながら、自宅までくると、風呂の小窓から侵入し(湯舟に落ちるようなヘマはしなかった!)、再び湯を浴びて、また寝た、ということを経験し、その女とは、一年後に付き合うことになるが、それはまた別の話だ
 
母親は今でも父親の悪口を言い、父親には愛人がいる
つまらない家庭は、このようにしてゆるい、気休めの安息のなか生きている
母親と父親は、実に1年程度の交際期間を経て結婚したらしい、母親が言うに、父親は結婚してから思いっきり変わってしまったらしく「私としてみりゃ、だまされた! って感じだよ!」と嘆いていた これは最近聞いた話なのだが、ずっとむかし、そう、僕がちょうどいじめられていたころに、母親に「どうしてママはパパとけっこんしたの? そのときはどんなかんじだったの?」と質問し、母親と父親が付き合う前に、母親には交際していた男がいたらしい事を告白した 父親から交際を迫られ、その男とは別れたらしい 僕は相当ショッキングだったのか、そのことを今でも覚えている しかも母親は、父親が働く会社で、お茶出しをしていたとか、気に入らないやつには雑巾の絞り汁を入れたお茶を出していたとか、いろいろ聞いた
父親は高校の時、初めてセックスしたらしい 母親は知らないが、たぶん、高校か、社会人だろう 高校時代に初めてセックスをしたやつもいたけど……と、あまり好ましくない声色で言っていたから、たぶん、社会人になってからじゃないかな
父親も母親も、つまらないセックスをして、つまらない僕を生み出した
母親は、父親が避妊具を付けずに性交し、膣外に出すも「ちょっとでちゃったかもしれない」と、言っていた事を、今でも腹立たしく思っているようで、いつか、それを聞いた
弟は、実は、3人目の弟だ その前に二人、流産している
僕はその二人をうらやましく思う
彼らの名前を、僕は死後に知るのだろうか
彼らに会えるのだろうか 彼らはどんな人間だろうか、いや、人間以外だろうか
僕はいつまで生きるつもりで、いつまでこんなつまらないことを考え続けるつもりなのだろうか
セックスがもたらすものは、人災だろう 人間は人間を生み出すべきではないのだろう
あの、JAMとかいう曲には、どんな人間もみんなむかしこどもだった、とかいう歌詞があるが、こどもだったからなんなのだろう こどもは無力だから無垢だとでもいうのであれば、なにも生み出さない、その可能性にだけ無垢さが保証されてしかるべきではないのだろうか
そういえば、僕が前に交際していた女とは、自分たちに子供が出来たら、という場合を想定して、いちおう「ヒロナ」という名前を付けたが(いやいやだが、僕も人間世界で生きる、彼女と生きるのであれば、ステータスとして子供を設けることに反対はしなかった なぜなら、僕と彼女は最高にそりが合わなかったから!)、彼/彼女は、その可能性の中で、無垢なまま、である 僕は彼女に、最高に嫌ってもらった なぜだか僕は交際した女には、別れの際は最高に嫌ってもらわないと気が済まないようで
 
人間はみんな、においと熱を持つ
これは、僕らの、罪そのものだ
ほったらかしにしておくだけで忌避されるのに、神は清潔な風呂を用意してくれなかった
僕らはいかにして、クソ人間どもの社会という、クソの土台の上で生きなければ、追放される
クソが、クソ人間ども死んじまえ 俺が好む人間は、幸福に死ね
 
今もナット・キング・コールを聴いている、彼の声は、暖かい 彼はもう死んでいるからだ
 
八月のおんなのこ
 八月の死の臭いというのは、身を震わせる。こんなにアスファルトに熱がこもっているというのに。どこまで続く道なのかな、あの駅からはどこへ行けるのかな。夏、わたしはいつものように覚束ない足取りで、くだらない街を歩いていた。
 つまらない畑に伸びる電柱は、雲を割いてくれないし、なにも面白くない。らくがきはないけど、デリヘル募集の文字と電話番号が書いてある紙が貼ってある。半分だけ剥がされている。
 今日も沈む。きっと明日も沈む夕陽は、きっと誰も見ていない。こんなに親しんでいて、夏になると殺したくなっちゃうけど、やっぱりキミは誰も知らない。
 さあおいで、真夏の夜。蝉の音を汚水の川の波にして、翠がきらめくどぶ池のほとりに流れて、ゆらめく月の姿を見せて。鏡の先はきっとすてきな世界。
 犬が吠えた。手綱を離れた犬が行く先、誰も見ない風景、犬の目線だ、わたしにはわからない、きっとわからない、それでもすてきな風景だろう。こんなに暑い、なにもない、つまらない、おもしろくない、こんなところで一匹、つまらない主人の腕から離れて叫ぶ、声高にワンと。もう一回、もう一回。
 わたしの脚の臭いを嗅いで、飛んでいった。夕陽の方角へ。夕陽の沈む方角へ、手綱を垂らした一匹のしば犬が、碁盤の目みたいな畑の合間を縫って、わたしの脚に撫でつけた唾液をそこらじゅうにばら撒いて、さあ行け。おまえは自由の身、夕陽が傾いて山の輪郭が見えてくる、あぶないぞ、名も知らぬおまえ。
 急ブレーキの音。この音はどこで鳴った? わたしの心のなか? それともわたしの心のなか以外?
 この駅で死にたい。田舎の駅に照らされてわたしは思う。もっとずっと遠くに行きたい、キミの手によって、名前は知らないけどキミのパンタグラフは魅力的だから、わたしほれぼれしちゃった。どこにもなにもない、こんな無人駅でわたし、一生を遂げるのかもしれない。駅員さんおいで、わたしとおはなししましょうよ。楽しいおはなしをしましょうよ。
 閑古鳥が鳴く声。もう暗い空に飛ぶこうもりと閑古鳥の鳴き声、わたしの泣く声。
 無人駅の待合室でわたしは、夕方死んだ犬を想って泣いている。あのクソにんげんの主人に殴られた頬はもう痛んでいない。乱暴もされてない。わたしはきれい、そうそうきれいなまま。
 キミはこの待合室にいないの? わたしの前にもう現れてくることはない? 悲しい、かも。どうだろ。
 窓さえ軋んだ待合室、わたしはすっくと立ち上がってみた。足元でありんこが月光に光っている。ごきぶりもカサカサやっている。まだ暑い。今日はとびきり暑い日だ。
 電車が来ない。
 夜空には星が見えた。星のほかにたくさんのゴミが見えた。クソにんげんが宇宙を引っかき回したせいで、今夜の宙はゴミだらけです。
 ねえつまんない。今日もつまんない。明日もつまんない。明後日もつまんない。夏休みが終わってもつまんないよ。ぜったいつまんないよ。だってわたし、生きてて楽しいことなかったもん。ぜんぶつまんない。みんなもそう思ってるでしょ。でもわすれてるんでしょ。もっとみんなつまんないっていいなよ。こんな世界、なんもなくてつまんないだよって。
 線路に寝ると、ひやりと冷たかった。湖の上で寝ているみたいな感覚だった。でも居心地は悪くて、背中が痛くなって、近くにどぶがあるからぼうふらが気持ち悪くて、ちょっと逃げた。どこにもないわたしの居場所。
 きっとわたしは今夜死ななきゃいけないんだ。ぼうふらが教えてくれたんだ。
 平日の昼間の台所みたいな虚無感を抱えて、わたしは死に場所を求めていざ行かん。犬が死んだ時にばらまいた色とりどりの汚い臓器をわたしも撒き散らして、お父さんお母さん生まれてごめんなさいって宇宙の耳元で囁くんだ。きっと腹を切った侍たちもそうしてきた。
 無人駅でわたしは蝉を見た。すこしだけ死んでいた。半分は生きてたけど、半分は死んでいた。それってわたしみたいかも。わたしは夏だけ生きてるかも。わかんないけど。
 ああ歩く。歩くと遠くなるあの無人駅。線路を見るとわくわくした。いつでもわくわくした。あの銀色のレールの先にはなにがあるのかな。宇宙かな、きっと地球の外側まで繋がってる。つまんないねこんなはなしは。
 駅を離れ、首吊り死体のような柳の木を左に曲がると、カレーの匂いがした。人目を避けたいがために道を引き返して、首吊り死体をまっすぐに進む。その方角には満月が輝いている。まっすぐ続く道にわたし以外だれもいない。こんな田舎。
 二つ目の交差点を曲がって、くねくねした道をいろんな枝分かれた小道の誘惑を無視して進むと寺がある。寺にはちょっとした遊具と、たまに固くて丸まった大きなティッシュがある。行く場所がないわたしは無人駅に背中を向けて、ゆっくりと歩いた。
 水が流れ着く先はどこ。地形に沿って堕落すればそこは大海原、でも海になにがあるんだろう、海って広いだけで孤独で寂しくなるよ、水はここで留まらない。循環する。このたぶん広い地球を、たぶん狭い範囲で循環する。クソにんげんの手垢をせっせと洗い流して。わたしのこの垢も水に流させて、もうわたしは汚れすぎて月の光で洗い流せない。
 わたしは嫌なことがあるとすぐに夜空に飛び出した。蝉が鳴く夏、いつもわたしは嫌なことがあった。わたしはなににも執着しないで生きているのに、どうしてだろう、こんなにいやになるのは。
 花粉が飛ぶ、淫らな春という季節、わたしは失恋した。つまらない恋愛だった。もちろんわたしは恋をしていた、何回も満開の桜の木の下で愛を囁き合ったり、わたしのアパートの空き部屋で泥のように抱き合った。
 潰れたカタツムリの涙が降り止まない梅雨の夜に、彼と行った場所に行くことはなかった。
 わたしはきっと夏の夜が好きなだけなんだ。
 遠くから見る寺には深い青色の光が桜の木を照らしていた。青色の光が照らした桃色が、またひとつ宇宙の裏側に繋がっていた。
 民家からはみ出した常緑広葉樹の花。寺に咲く灯篭の灯火は儚いひとつの生命そのものだった。清潔きわまりないにんげん世界は、ひとつの生命の灯火が真夏の夜に浮かび上がっただけで瓦解していく。音を立ててわたしの内側から剥がれ落ちて、水に流れ海の底でクズと仲良く暮らしていく。
 寺の石段に座って、垢まみれの節くれだった手すりを見ていると、思わず畏敬した。黒ずんだそのからだはもうそろそろ休まなきゃいけないんじゃないかな。きっともうそろそろ休めるよ。わたしはその前に休むけどね。
 さらに更ける夜に繰り返しこだまする蝉の鳴き声と、わたしの泣き声。片手に刃物を持って練り歩くまちは、あんがいひっそりガラス細工のように見える。わたしは目が悪いから、じつはいつもガラスの世界に生きてるかもしれない。火の玉が行き交うガラス越しの水玉の世界。にんげんの表情を失う代わりに、毎秒切り替わる絵画の世界を手に入れた。
 谷間の、入り組んだ道のからまったにんげん模様は、ごきぶりの音が鳴る寺の向こうの山にも続いているのかもしれない。
 放埓なわたしの性は、放埓なにんげんの性。石段の冷たさは、去年の秋に落ちたきつね色の葉っぱの温度なのかもしれない。だれもいない寺にわたしはひっそりと、蝉の音を聞いて、落ち葉で涙を拭いてみた。
 脱力してスニーカーの底から砂が軋む音がして、小学生の頃を思い出す。わたしは小学生時代、友達がいなかったかもしれない。わからないけど、つまらなかった。昼間の台所がわたしの小学校の校門だったと思う。お母さん、ねえお母さん。ねえねえ。
 ため息をつくには、その分息を吸わなきゃならない、わたしはそのくらい息を吸うことすらできない。夏に線香花火をする人がわたしの他にだれがいるのかな。きっと線香花火をする人はみんな孤独で、線香花火が落ちるたびに世界がひっくり返って死んでいる。
 熱風が吹くと、木々がそよいだ。山の方から声が聞こえた。蝉が今日死んだ犬を弔っている。
 わたしが今日死んだら、蝉は今日弔うのだろうか。明日弔うのだろうか。
 表情を変えない月の目の前では、いくらでも自分の身体を傷つけられる。アサガオの目の前ではわたしはいつでも正直になれる。青いその目にわたしは惚れていた。
 わたしは寺に四円を置いて、真夏の夜の部屋へ向かう。わたしの道しるべが途絶える前に急がないと、この真っ赤な道しるべはクソにんげんのためじゃないのに、わたしのためなのに。
 民家が立ち並ぶ石壁の溝ひとつひとつに、わたしの軽やかでだんだんと濁ってきた足音が繰り返し響いて、夏の熱気が蓋をする。わたしは服を脱ぎ捨てて、交番の裏に捨てた。まだ生暖かいはずの衣服の隣で、白い花弁の中心でほんのりと紅らんだ、はじめておめかしをする少女を見た。わたしは微笑んで、わたしから噴き出す道しるべをかけてあげた。少女は笑って、わたしから離れてしまった。きっとキミも、こうやって消えていくんだ、最後はこえだめだよ。
 腕の感覚がなくなってきた。月! 見ているなら何か言って欲しい。やっぱり悲しいかも。どうかな。鉄骨にわたしは手をついて、だれも照らしていない外灯をみて悲しくなった。月! おまえもいつか悲しくなるんだ、わたしがいなくって悲しむんだ。
 走った。なによりも早く走った。わたしの心の中で管楽器が最高音を鳴らして、熱烈なドラムロールが心臓を締め上げた。雨が降ってきた。おい月!
 寺から出て右に曲がると、立派な廃墟がある。それを最近できたらしい小綺麗なアパートの方へ曲がると、交番が見える。わたしはもうどこにいるのか。えっと、あの、交番の前はまずいから、きつねが見える方向へ向かってみると、交番のうらだった。交番の手前には交差点があるから、そこをまっすぐ行けばよくて、ちょうどよかったから、わたしは、最後だから、もう、最後だから、全部脱いだ。血が、あ、あ、血が血が。ちょっと、もうちょっと、走らないと。
 もうすぐ着く。いや、もうついた。わたしはそこで寝ていて、月を見ている。
 ひまわりがきれいだ。つまらないけど、ひまわりが夜の空に映っている。夜の宇宙は鏡なんだ。
 おそらはまあるいかな。曲がった鏡に映るわたしのこっけいなこの姿、泥まみれのわたしの内側。
 人工衛星、時計回りに回って、今夜わたしのお願い聞いてくれる?
 お願いなんてなにもなかったかも。
 つまらないんだもん。
 最後に来たこの場所も、もっときれいかとおもった。
 全然きれいじゃない。だってもう立てなくて、ひまわりが見えないから。わたし、きつねに導かれてたけど、もうなにもわからないかも。
 わたしを騙した? クソにんげんが騙した?
 雪でも降らないかな。
 でももういいかな
 おやすみなさい
 いい夢を
 最後までつまらなかった
 雪がわたしの鼻の頭にくっついて、解けた。
 バイバイ。わたしの夏。
2018/11/05
 
Re八月のおんなのこ
 水面が揺れ水位が上昇するなかで、雨雲が山を覆い尽くしてわたしはそれに近い田舎町の公園で、ブランコに座りながら眺めていた。ますます動くそれらは、わたしの心のなかで泳いでいるよう。空は黒くて重たそうに流れていった。今でも黒いがそのひだは一秒前に見た雨雲のひだとは違う。それ自体がもうすでに違う。
 網から出てしまった魚のようなわたしを夢想する、が失敗する。わたしは網の中にいる。ブランコにすわりながら、眼を開いて見、感じながらわたしは勇気のようなものを感じる。行動のための、動機が湧き上がってくるのを感じた。空の重たさにわたしは空を浮かべる。縦横無尽に歩き回る、わたしは、空、の上を、ブランコ、にすわりながら、体内、の幽かな音、さえ逃さないで、耳、に入り込む波、の隙間に、入り込む。
 わたしは。
 一続きのわたしは、一秒前の雲のひだの上を浮かぶ、幼い少女になる。わたしは、一続きのわたしを、三秒前に殴る。五秒前に、二秒後に殴る痛みを、慰める。そうした破壊の流れは、わたしの遡行。
 わたしの遡行は動機の写像だろう。ブランコから離れたからだと、からだから離れたわたしの。
 草の音色が木から響くように、わたしの音色はブランコの鎖から響きくるように、公園の外側ではゆっくりと時間が流れ、田畑と農夫の影が水面に映る。公園では時間は早く流れ、わたしの脚が揺れる。またそのようになっていく。幾度となく時間が公園に集まり、わたしはそれを知っている。
 君も。知っているのだ。知ってくれるだろう?
 わたしは八月のおんなのこ。その枠組みの中で、火の淡い陰を知る、なかで輪郭が燃えているように、わたしは。
 八月は八の八乗回くる、この公園に。
 わたしはブランコで揺れる、その時間のなかを泳ぐように、からださえも漂って。ふと、
 夜が訪れる、足のない夜がここに。ここは公園から見えるほどの距離にある駅。そこでわたしは終電を乗り過ごした。ここは知らない村。わたしはこの村のことを、時間の経過の公園以外は知らない。また、この駅。
 わたしは死んでいくのではない。わたしは死んでいた、そして死に訪れる者。計画されたその死に抗うためのもの。わたしは。
 君は知らないだろうけれど、人が死なない場所というのが実はある。そこでは人は死なない。これからもこれまでも人はそこで死なない、絶対に死ぬことはない。自然に見えて自然じゃないその場所では、死ぬことができない。だからわたしはそこで死ぬ。そうしようと決めたのはこの駅で、列車がわたしの目の前を通り過ぎていく風のなかで、ゆっくりと心に入ってきた言葉のピースのおかげだ

2019/7/19

 

 

考えごとをする
今日の数時間前に、小説を書き終えた


サイコキラー - happycat/永遠性


これである
小説を書くのは久々だった
帰省もあり、書く気が湧かなかった
でも せいぜい文章は書いていたし、
本もそれなりには読んでいた


小説を、書く気が無くなっていたのだ
新人賞用の小説を途中まで書いて、
ほったらかしたまんまだ


この、今回書いた小説は、
ツイートしたように、以前から考えていたこと、存分に書いた


考えていたこと、とは簡単に言えば
小説は、書かれていることがどれだけ突飛でありえなくても、小説内では事実として扱える
というものだ
あたりまえなのだけど、これに気がついたときはものすごく驚いた
これのおかげで、ファンタジーが生まれるのだ


例えば安部公房の壁なんかは、ありえないことがたくさん起きるのに、全てが事実だ
山下澄人の緑のさるでは、人間が死んで、何事もなかったように生き返る
聖書だって、そのほかのたくさんの神話だってそうなのだ


だからすごいのだ


僕は、この小説の小説内事実=記述に惹かれて、簡単に、単純で素朴な違和感と記述のパラドックスを試したかった


小説の時間は一定に流れている
三人称では回想したり未来に飛んだりは自由だ
一人称は回想のみ移動できる
今回の小説は、一人称に近いが、
一人称を表す言葉は一つも出てこない
三人称としての名前も出てこない
本人を指す名前は、
猫の名前なのだが、
その猫も幻想上の猫で、
しかもその名前は、生んで、すぐに捨てたものだった
符牒の不在だ


それに加えて、文章の構造がおかしい
ところどころに意識の流れ風の太字が現れるのはいいとして、打ち間違いのような文字が時折顔を出す
これはまあいいとして


時間の構造がおかしい
芝生に寝転んだ。というような文の後には、芝生に寝転ぶのをためらった。という文が来たりする
そんなことを執拗に書いた小説だった
書いていると、パラレルワールドが文中に生まれているような気がした


それと、考えごと、だが
ドストエフスキー安部公房に惹かれた身として、
小説を書きはじめた頃には、
独白の一人称のものをたくさん書いた
けれど、独白には限界があることに気づいた
面白みに限界がある
というのも、独白は小説におけるスパイスのようなものだったからだ
ドストエフスキー安部公房も、
まずストーリーがおもしろく、それにあった独白を作っている
しかし特徴的すぎる独白を前にして、ストーリーと独白の位置関係が、自分の中で反転していたということだったのだ
僕が特徴的な独白を作ったところで、つまらない、似てるようで似ていない独白体が生まれてしまう


はなしはかわるが、ジャン=フィリップ・トゥーサンという作家がいる
彼の小説はまだ2冊しか読んでいないが、
僕は彼の小説がとても好きだ


奇妙さがすごいのだ
文体は乾いた、海外文学なものだけど
言動が異常なのだ
ドストエフスキーの異常さではない
まるで人形劇を見ているような
異常さなのだ
僕はこれに心を打たれた
浴室には感動した、こんな小説があるのかと
ムッシューでは笑った、円城塔みたいに、
気障で衒学的なものを持ち出さずに
ありそうなシュールさを書いていると


この行動面の変さを
今回の小説ではやりたかった


考えごと、それはすなわち一本道か、
自分で自分の脚に絡みつくタコかイカ
みたいなものなのだ
大抵は、無駄なことだ
おもしろいけどね

 

 

哲学について
完全な哲学は、我々の生活を保障しない。
ショーペンハウアーは言った
うそ、言ってない ごめん
僕は、まぁまぁそれなりに哲学に興味がある 高校1年に量子力学の、興味をそそられるようなところに触発され、哲学に行きついた
はじめはハイデガーが気になった
次はたぶん、ニーチェだった
内実は、僕は哲学に興味を持っていたのではなく、学術のヴェールを纏った絶望的な考えをそれがしの口から聞きたかっただけなのだと思う だから、実存主義だったのだと思う
それから、どうなったんだっけ?
僕の友達はみな賢い
ある分野の才をもっている
なかでも僕と同じく哲学に興味をもって、哲学科に在籍している、親友がいる
彼とは小学からの中で、いつも遊ぶ4人の面子の中では、もっとも勉強ができた
公文をやっていた 
そして、僕はもっとも勉強ができなかった
彼はいじられキャラだった
ある時期に引っ越してしまった そしてそのいじられキャラは僕が受け持った
両極の反転現象のようなものだ
僕らは、それぞれ高校に進学した 僕はもっとも偏差値が低い高校にいった
彼は県一位くらいの高校にいった
そしていまは、お互い浪人を経て大学に通っている
彼は僕のように怠惰に文学に耽るわけでなく、ストイックに哲学と数学をやっているように、僕には見える
僕は怠惰ゆえに哲学書を読み、数学もトポロジーを少しかじって読み進めていない
彼はヘーゲルの『精神現象学』を精読しているらしい、僕といえば、最近読んだ哲学書は『木田元の最終講義』だが、これは哲学書なのか? その前には永井均の『〈子ども〉のための哲学』がある、その前にはマルタンの『ドゥルーズ』が…
バタイユに興味がある
というか、僕はバタイユにしか興味がないかもしれない
彼も僕の勧めでバタイユに興味を持ってくれたようだ
このあいだ、僕は酔っぱらって、彼にラブドールの写真を送り付けた後、
短く哲学について語り合った
僕は「俺の性欲を消してカントにしてくれ」といった
彼は素朴なもの(心象など)がつっかかって、精読そのものに疑問を持ち始めているようだった
わかる
だから数学(彼の言葉ではこれは事実の写像である)、というのもわかる
けれども分析哲学の素朴さではない、というのもわかる
僕は思う
違うのだ、と思う
そう、すべてのことに「違うのだ」と言うことなのだ
n次元のカタ抜きを〈僕は〉哲学でやっているつもりなのだ
近代理性主義はやはり、優等生だった 優等生でしかなかったのだ
僕は、有罪者として、青二才の哲学をしている
きっと、彼もだろう
たとえば、哲学は真理を目指しているように見えるが、そんなことは考えられない
真理とは消失点であって、遠近法の優秀なところは、消失点ではなく、消失点を生み出す遠近感が肝心であるように、真理はカタ抜きのかたちだ
深淵が私の囲いだ。
「わたし」という存在は測ることが出来ない。
フェルナンド・ぺソアはそう言っている
消失点の「点」は、「1」としての存在を顕している
カタ抜きのかたちは、トポロジー的に閉曲面の位相だ
真理は、僕は、あると思っている
相対主義を超えた真理がないと、相対主義は実証されえないのだ
ただしかし、真理はn本の線・線分の集合で、集合がそれぞれ面を成し、果てには着色されてしまうように、僕たちにはそれらが輻輳するところを探すのは容易ではない
そんななかでも、簡単に消失点を見つけることが出来る
それは狂うこと、または死ぬことだ
人間のもっとも愚かな発明品は、悟性だ
悟性は面に着色をした
聖なるもの、それは消失点だが、僕は生きている
つまりは哲学は、哲学するたびに消えるということだ
だから「違うのだ」
冒頭のにせショーペンハウアーの名言は、まるで生活を保障する哲学があるように言っているが、生活を保障する哲学はまずありえない
ちょっと前に思いついた思考実験がある
Aは歩きました。BはCを殺しました。AとBの違いはなんでしょう。
この思考実験は、考えの基盤を明確にする
言語ゲームを破壊する手立てはここにあると思う
素朴さはここで愚かなものになる 素朴さ、それは僕たちの原罪に等しいもの
だが、素朴さをもって、僕らは、哲学をしている
いや、これは哲学ではないのかもしれない
文学なのかもしれない
追記
これを書き上げたあと、セブンスターの10ミリを吸って、体がボワボワするから布団に潜り込んだ
その間ずっと閉曲面の位相という言葉が頭の中をぐるぐるしていた
こんなかっこいい言葉を使えた!
という思いでぐるぐるしているのはすぐにわかった
そう、この類いの素朴さなのだ
言いかえれば、アホだ

 

 

人生について
人生というと、
厳密さに欠けていて、まるで説法のようになる
そこで、「人生」というものを、
「私が、時間を感じて、そこ存在する。また、その記憶や記憶の断片、因果的に事物のそれらが存在する」
と定義する
曖昧に人生を持ち出して
いわゆる名言とするのは、僕は嫌いだからだ
またここで、「私は」と書かれているが、
筆者以外が「私」と感じられるのであれば
適宜、それに従っても良い
しかしあくまでも、僕は、私にとっての、それを話しているのだ


人生というものは、あらゆる可能性を捨てていくことだ
逆説的なのかもしれないが、これは、ある面では事実だ
僕は、いろいろなことを考え
つまりいろいろなことを夢想し、未来的にそれが実現するように
論理立てて、したいこと、またはすべきことを考える
けれども、もしそれに機嫌が設けられている場合
体験として、果たされたことは、まず無い


想定として、果たされた場合も、ほかに考えていたことは、もうすでに果たされない
なぜなら、それには期限があるから
期限というのは「そのとき、これになっていろ」
というものであるため、
その未来に「これになっていろ」が果たされていても、果たされるものではない
「人生」は時間を伴っているのであるから、当たり前である


では、時間とは何かといえば、それは体験の回収である
なぜ「回収」なのかといえば、その体験は
想定可能であるからだ
つまり、僕は、考えられるのであれば
世界の全てを、すでに体験している
また、ここでの「可能」は「不可能」ではない、つまり「可能」という消極的な理由であり、論理学の恥のような二項対立によるものだ


それでも体験と想定は違うというのであれば、
言葉を超えたものがある
ということになる
しかしそれは僕の生誕が不明瞭、また
生誕以前の記憶がないところがあるというところで、
類似のものとして扱うことにしたい
生誕、生誕以前の、
つまり、経験したはずなのに、記憶がないそれらとの類似として、言語を超えていると言える
それは語ることができない 徴を感じるのみである


徴とは「かもしれない」が掬いきれなかった部分である


「かもしれない」とは、僕が考えられたことである


時間を伴って存在していくと、
時には時間を遡る
それは、記憶となって、事実よりも感情が入ったものになるが、
感情とは徴、または徴の方を向いている矢印であるから、語れない
ここでの問題は、因果的な事実である
事実とはそのものとして、判定もなくそこにある、そこにあったのではなく、そこにあるのだ
とすると、そこにある事実は、一通りしかないということになり、僕がそれを内包している
つまり、事実の全てには、無意味にも
「僕の」がつく
ということは、記憶も「僕の記憶」、徴も「僕の徴」などなどと変化していくが、ここではいちいち書くのがめんどくさいから「僕の」は省略する


そこにある事実と、そこにあった事実の違いは、
言い方の問題であり、大差はない
ついさっき、「そこにあったのではなく」と書いたのは、「あった」ものとして扱うと、僕との距離が生まれるからである
それらの距離は、本来的には存在しない
なぜなら、事実は動作の集積であり、
動作というのはいつでも事後的に理解されるものだからだ
つまり、「あった」事実などは当時にはなく、「ある」事実が現在にあるのだ
「あった」ものはなく、「ある」ものとしての過去、つまり事実が現在にある


このようにしたとき、一通りの事実の集積を人生と呼ぶことができる


事実に対して、考えつまり夢想を空想と呼ぶのであれば、
空想とは∞通り、そこにあるのだ


しかし僕はこれまで、人生は一通りでしかない
ということは、その一通り以外の空想
それを可能性と呼ぶと、
それらの可能性は全て捨てていることになる


また、派生していくと
なぜ可能性を捨てるのか、可能性を捨てる理由として、〈消極的な〉大きな理由として
安定がある


安定とは、そこから動かないことである


想定として
安定を求めて生きた場合、
それはまるで城を築くようにしている
そして僕はいつしか城の周りに掘を作り、
自分をそこに閉じ込める


これは間違いではない、安定とは自分の可能性を捨てて、拘束することなのだから


間違いである場合は、その城から出たくなったときである
城から出たくなったときは、僕は
無理矢理にでもでるのだ
それは常に反社会的な行動である


僕は生きていき、可能性を減らしてきた
これからも生きていくのであれば、僕はさらに可能性を減らしていく


生誕以前、また母親の子宮にいた頃には、
「僕の可能性」は、僕は気づかなくとも、たしかにあった ∞通りにあったのだ
しかし、僕は僕になる前のことを語ることはできない
したがってこれは想定であり、漸近する対象だ


僕は、僕という人型を、他人に晒してしまった頃から、あらゆる可能性を減らしてきている


なぜなら、
私は、僕になったころから、他人であるからである

 

 

日記(スペクトラルウィザードとか)
一昨日買ったスペクトラルウィザードの新刊が昨日届いて今日読んだ
素晴らしかった ツイッターでも話したけど、ストーリーが重厚だった
スペクトラの孤独と懊悩は「どうだ!これでもか!」というほどまで突き詰められ、
その描写はスペクトラの周辺人物や、行動によって間接的に表現される
たぶん意識的に使っているのだろうが、クリシェが多い
このストーリー自体がクリシェであるようには思えないけど(というか僕がストーリー重視の文芸にほとんど触れていない)
登場人物の言葉のクリシェは多い気がした
しかし、クリシェに囲まれながらも特異な状況下で、
しかも行動をともにする仲間も増えたというのに、
さらに深まる孤独を描く手腕にただただ僕はページを捲り続けるほかなかった
スペクトラの孤独はもはや宿命なのだろう、彼女の魔法自体に刻印されている
今作ではその孤独な魔法によるスペクトラの孤独さがよく表現されている
週刊漫画ならスペクトラの過去が語られていてもおかしくはないだろうが、
それはクリスタルウィザードに負けたという対決に仄めかされ、
描きおろしのサラダウィザードでも言及され、
クリスタルウィザードも過去の自分から変わろうとしていることから、
この対決が双方なにかのターニングポイントになったと考えてもいいかもしれない(というか、過去の引っかかることというのがこれくらいしかない……)
 
今日は、とりあえず一日を過ごした
スペクトラルウィザードが読めて、感動して、素晴らしい日だった
たばこ、ピアニッシモのアイシーン5ミリを買ってきた
正直、クリスタルウィザードっぽいなと思って買った
メンソールはあんまり好みではないけど、
これはたばこのおいしさを消さない強いメンソールで、
買っていた赤のマルボロを吸ったけど、正直アイシーンのほうが美味しかった はまるかも
あとは、特にない 変なご飯を作ったくらいで
変なご飯、その名も「謎カレー」
・なんかの肉(なんか四角かったけどサイコロステーキではない、鶏肉でもない)
・もやし
をごま油をひいたフライパンで
ブラックペッパーと味の素を少々
ごはんは……親が用意してくれていた一食ぶんくらいの冷凍白米を二袋解凍
その上にさっき炒めたやつを入れ、
カレールーをいれ、レンジでチン
まあ、おいしいよね
 
 
そうだ、シャワー中に考えていたことを
 
自分は来週の木曜日に心療内科へ行く
ODのし過ぎではない、というかODの原因でもあった希死念慮がさらに強くなってきて、今はだいぶ安定しているが、ここ最近物凄く酷い精神状況だった
そこで自分のことを考えると、自分は躁鬱の傾向があるんじゃないかと思えてきた
行動を思い返していると、そんな気がする
さっき17TYPE診断をしたら、1回目:ヤンデレタイプ 2回目:依存タイプ だった
自分の恋愛は、たぶんに、付き合うまでは積極的?だけど
付き合ってからは消極的 でも相手がなにもしないと自分が見繕ってどうにかイベントを起こす
そうしてずっとやってきてずっと疲れてきたのだ(だから今はかなり気楽なのだ)
そしてあの積極的なものはたぶん性欲なのだ
一般論として男は一回セックスしたら終わりだの、態度が変わるだの言われるが、そうしたものとは少し違うと思う
セックスをして、もういいや、となるわけではないのだから
ただ狂ったように求めてしまうというか、熱に浮かされているみたいな言動 しかもクリシェ武装していってしまう
実際のところ、これはたいてい途中で終わる 疲れるというのではなく、オナニーして後悔する、というのではなくて、単純に飽きるのだ
これによって性欲が恨めしく感じることもある
しかし性欲は全てではないと思う
性欲はたぶん

こんな感じで写像によるものだと思う
だから、自分の中に必ずあるものではない気がする
また、このように、
全ての事柄はある集合による写像であるのではないだろうか
社会的政治的に集合による基本的要素は拡大される
古くは身体と他人と狩り、農耕についての要素だったのだろうが、
今は基礎的要素が増えているし、これが人間関係に密接にかかわっている 世代論はこの基礎的要素によって画定されるのだろう
この知識集合説を思いついたときは、この間自分が考え付いた自己=意識論の延長にあると思って感動した
そしてスペクトラルウィザードにも、そう、帯にもある通り
 
人間とは知識のしもべである——
 
と書いてある
これはクリスタルウィザードの言葉を要約したものだ
また、クリスタルウィザードはこう言っている
 
人類は肉体的には
1万年前からほとんど
変化していないのに
言葉と文字を発明し
社会は高度に発達し
魔術も
見違えるほど
進化した…
我々と彼女で
異なるのは知識だけだ
知識という
実態を何も持たない
形而上の概念が
進化しているんだ
つまり…
知識こそ人類を
人類たらしめて
いるのだと
世界をおおう
知識という
巨大なデータベース
それこそが
我々の主人であり
我々はそのしもべ
なのでは
思わんか?
 
クリスタルウィザードは、人を操る魔法を追及していたというところが感慨深い
つまり、人を支配しているのは知識だというのである(主人であると)
僕の知識集合説にも通ずるものがある、内的にだが……
しかし要素が集合がなることはないし、空集合も集合なのだ
はじめにスペクトラルウィザードの帯を見たとき、
「いや、『知識のしもべ』なんじゃなくて、『言葉のしもべ』なんじゃないのかな」
と思ったけど、やはり違うような気がした
 
そんなこんなで、スペクトラルウィザードは面白いから
買って読もう!
 
 
 
https://www.amazon.co.jp/dp/4781618308/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_8wXQDbKCG2T9Q
これが新刊で、2巻
 
https://www.amazon.co.jp/dp/4781615694/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_OyXQDb4J60254
これが1巻です、読もう! スペクトラルウィザードの作者、模造クリスタルは、金魚王国の崩壊を書いた人だぞ! 金魚王国の崩壊はこれだ!
 

グエー
 

 

大もりそばの太陽の念仏

これから綴る言葉が意味する出来事、それらは読者諸君にとっては大もりそばの太陽の念仏信じがたい出来事であるのは確かだし、この文章はこれから綴られる言葉に先立って書かれたものではなく、一度書き終えてから書いたという、すなわちまえがきのようなものであり、先立ってというのであればこれから綴られる言葉の数々のはじめての読者はわたしなのである。だが書いたわたしでさえもそれらは信じがたく、もとよりわたしが体験した出来事ではないからであるような気がしないでもないが、ここでわたしが筆者であることを自称している以上わたしは筆者であり、話者であるのは事実であり、諸君にはそれを覆せる事実は持ち合わせていないのだから、つまり受け入れなければならない。ある日、それは彼にとって空を見上げてみると厚い雲が広がっていて、あかりというのが、つまり太陽のことだが、それの気配が全くなくならば俺が今こうして空を見る、つまりたくさんの色彩が交差するという、ただそれだけなのだが、そういった現象に疑問を浮かべひとしきり冷たい風を浴びたところで、思い直しをしたという言葉は俺にとって適していないけれど、彼を見ていた人たちはなぜそうも大振りに体の向きを変えて歩き出すのだろうと、そのことが疑問であったと思う。彼は体の向きをことさら大仰に変えたということで世界的な意見は合致する方向に向かっているし、その規模や価値はあまり大きくないために彼についての説明において、水戸駅ペデストリアンデッキで大仰に体を反転させた人、という文句が用いられることはないが、事実というものを事実あらしめるためには少数であれ情報が必要であり、目撃情報としての彼らの意見はこうして役に立っているし、役に立つというのはやはり道理から伸びた人間の感情がそれによって嬉しさを煽るものであるが、彼が振り向いた先に昔の恋人のような女が控えていたのは俺にとって嬉しいものでもなく、金輪際役に立つような出来事でもなければ、かえってコンマ数秒の反応で動悸のようなものに悩まされ、彼女に対して行っていた非道な仕打ちに胸を痛める傍ら、女の寂れた風采に対して無関心無関係を装わなければいけない気がしてしまうのであった。ところでわたしは脱線を恐れないし脱線をして良いのであればいくらでも脱線してやろうとなぜだかそちらの方にまで手腕を振るってしまうたちであるのだが、水戸という土地は何もないように見せかけておいて結構楽しめる土地であるし、福島なんかよりもずっともっと栄えていてというより福島のほとんど中心である郡山という土地は盆地で、そしてこの盆地という言葉を思い出すにはかなり時間ががかかっていて、それわたし自身の知識不足というかいろいろだめな点なのであり、それはいいとしてわたしは郡山を谷間と呼んでいたらいやらしい気持ちなどはないのだが、週刊誌的な気分の悪さを覚えていた俺はやはり汗を毛穴という毛穴から流して、特に生え際からは滝のように流していたし、滝のような潮吹きをしている女を想起させる成人向け雑誌の文句が俺とどうも合致しているようだと思うと、女そして女、聞こえてくる店員の甲高い声、耳元で囁かれるような「いらっしゃいませ」の声が聞こえてくる感じはただの自意識過剰で実際は俺の後ろで品出しをしながら時給780円のねじまきで機械にされた女の厚化粧な掛け声が背中合わせで響いてくるだけなのだし、いくら童顔とはいえ成人向け雑誌の前で佇む19歳に性的な好奇心を抱く女はいないだろう、そんな女は、と言葉が詰まり息がつまり、つまり詰まりというのは耳元で囁かれたのは「いらっしゃいませ」の声ではなくてあの女の寂れた雰囲気が細く口を開けて「(本名)」と舐めずったようなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ怖い!

 


走った。水戸のペデストリアンデッキの階段を登り、左のほうへ。川又書店を通り過ぎ。いや川又書店に居たいなと思ったし、というのも俺は本が好きだし村上春樹騎士団長殺しの文庫版の3と4が出ていて、それに惹かれたのもあったけれど、他には上田岳弘の私の恋人が気になっていて、なんというか、マジックリアリズム風で惹かれていて、磯崎憲一郎もそういった作風で最近は世紀の発見を読んであのゴツゴツとしているのにすんなりと身体に馴染む文体に虜になってしまい、肝心の子供/太陽の目も積んでいるから読みたいのだけれど、マジックリアリズムの大元の大元のマルケスエレンディラしか読んでいない叱責を感じて予告された殺人の記録を積んでいたことを思い出したのだが、彼らのマジックリアリズムは族長の秋っぽいのかな、などとゆらゆら考えて癒されていたのはわたしではなくて俺なのでわたしはそんな本は知らないし、そもそもわたしは本を読まないし、本などというのは大嫌いなのだ。わたしは水戸に住んでいないし、実を言うと俺も水戸に住んでいない。そんなことはどうでもよろしい。さてわたしはいま車に揺られていて、どこに連れて行かれるのかはよくわからないし、きっと俺もそんなことはわからなかったと思う。俺はあるところで誘拐された。あるところというのは逆川の橋から身を乗り出して緩やかな川の流れを眺めていたら、30センチくらいの小人に背中を押されそのまま川に頭から落ちてしまった。というのはわたしの考えであり、俺にはそんなこと分からなかったと思う。なぜなら背中を押されたのだ。俺は振り向かなかったし、俺のことを見ていた人は小人の他に誰もいなかった。そして俺はさざなみ立った鏡面の川に映る小人を見ることなく、驚きと恐ろしさからメ一杯目を瞑り、小人のおツムの3回りくらいの大きいくらいの俺の頭は川に落ちていった。目を覚ますとセダンの中で、セダンは国道118号線を走っていた。文京二丁目の橋に隣接している大学に見覚えはなく、いやあるのかもしれないがなにもわからず、唯一わかることと言えば左折すれば偕楽園に辿り着けて、運転席にはあの女があの風采で座っているという、ただそれだけだった。

そう、それだけだったのだ。道という道があらゆる道に続いていて、原因と結果、因果などというものが通らない、いやもしかしたら通るのかもしれないが、それは学問で、学問というのは永遠の言い訳でしかなく、なぜ言い訳なのかと言えば、学問には定義があり、定理があり、その中でしかそれらが効果をなさないのであれば、この大きな謎に包まれた世界というそれを解き明かしたくとも、世界が人差し指で少し押してやるだけでドミノがパタパタと、いや、ジェンガのようなものが建った地面に揺さぶりをかけたようにバラバラと、崩れてしまい、雑然とした瓦礫の散らばりがそこに見えるだけで、崩れる前と崩れた後の連関を繋ぐのは一体なんなのだろう、そう思うのは女にわたしは身ごもっていると言われたその瞬間であったことをちょうどいま思い出したし、それは本当にわたしの子なのか、ちゃんと避妊をしていたじゃないかと俺は言ってやったと記憶しているのだが、もしかしたら言っていないのかもしれない、それでも君があなたの子ですときっぱり言い放ったことは覚えているし、そのあと即座に君の腹を蹴りまくったことも記憶には新しく、言ってしまえばそれはいまなのであり、いま、君の足を柱に縛り付けて腹を一心不乱に蹴りつけていて はその間何も感じない は何も思わない は思い出したということになるのかもしれないけれど何を思い出したのかについてはわからずとりあえず出来事の前後がわからなくなっている身ごもったらしい女の腹を蹴りつけるまるで機械のようなただのそれになっていた。甲高い音が鳴った。それはご飯が炊けた合図なのだった。 はごはんのことを思い出した。そしてわたしは疲れを感じてきた。30センチ程度の小人がいま目の前に3人いる。それぞれこんなことを話していた「この間3800円もした美容室に行ったんだけど、あんまり質が良くなかった」「お前に髪なんてもともとなかっただろう」「いや、お前に見えていないだけなんだよ」小人ABCは丸メガネ、ウェリントンのメガネ、コンタクト姿だった。小人Cがコンタクトであることを見抜いたわたしはそれぞれの小人が流れてしまった赤子であることを悟った。わたしは線路の向こう側から西日を浴びて、小人Cの名前を思い出そうとした。