happycat/永遠性

創作物置き場 小説と詩が置いてあるよ!

とても平たく白く

 スーパーハウス。プレハブ小屋のことだが、僕がぱっと思いつくプレハブ小屋はスーパーハウスという名前をしている。公民館の裏、整備されていない駐車場にぽつり佇んでいた、白くて小さな無人の建物。そこから走って二秒のところには百葉箱(ひゃくようばこ)があった。名前がわからなかった。女の子と帰る道すがら、白くて小さいやつ、と口にし、それを指さすと、上の辺ちかくに古いフォントでスーパーハウス、と書かれていた。

「あれ。スーパーハウスっていうんだ」

「どれ。ほんと」

 背後から、おれ、入ったことあるよ、と、話に割り込んできた友達が続けて言う。暑い日には暑いし、寒い日には寒い。しかも何にも置いてないんだ

「へえ、なんのためのものなんだろうね」

「全くわからん」

 友達が割り込んでくる前に僕と会話してた女の子が、思い出しながら話すようにたどたどしく口を開いた。

「捨てちゃうのにも、きっと、お金がかかる、んだよ。たぶん、そう、聞いたことがある」

「さっきまでスーパーハウスって名前も知らなかったのに?」僕は意地が悪い。言って後悔した。話が途絶えてしまったのだ。でも会話の隙間に現れる(この隙間こそが現実なのだ)沈黙には、愛想笑いも、いやらしいポーズもない。僕が放った言葉は女の子の発言と結びついてすらいない。生まれるべくして生まれた、この幼い沈黙は春うらら。

「使われてたんだろうなあ、何かに」

「でもよ、お前、休み時間にちょっと入ってみろよ。外の暑さとか寒さとかの悪い部分ぜんぶ集めたところみたいな、しかもとんでもなく狭いから、こう思うのもヘンだろうけど、身体にその暑い寒いが張り付いてくるように感じたんだよ。そうだ、もう通り過ぎちゃったけど、あの白いやつの窓、あれは開かないんだよ。空気がどこにも漏れないんだよ。漏れないから流れ込むこともないんだ。だから暑くて寒くてひどいんだ。謎だよな。あの、学校の七不思議的なやつに入れてもいいんじゃねえかな。おれたちで作るか、都市伝説。てかここまで来ちまった、じゃあな、またあした」

「じゃあね」

「まーたあしたー」

 友達が話しているあいだ、僕はずっと考えていた。あの白いやつの不思議さではなくて、もっと、違うアプローチ(当時必死に絞り出した言葉だ。「視座(しざ)」という言葉は生まれなかった)があるんじゃないかと、いや、絶対にあるんだと思えて仕方がなくなっていた。友達が言っていた「七不思議的なやつ」という言葉に引っかかったのだ。友達の捲し立てる口調がはじまって、女の子は頷くだけの機械になってしまった。「じゃあね」と言ってから、白いやつの話題も溶けて消えた。僕は、うまく言葉に出来ているか自信がなかったけど、ひとつの考えを紡ぎ終えたのだ。これはすごい。きっと、僕は成績は悪いけど、賢いことはあるのだと思う。生まれてはじめて、ここまで自分のことを客観視した。

 坂を降り終え、考えを言葉へ念入りにこねていると、

「おおおおおおおおおおおおおおおおおい!」

 裏声と怒声のあいのこみたいな大絶叫が背後から聞こえてきた。

「あした! マンガ! きーこーえーるー!?

 あ・し・た マ・ン・ガ!」

 坂のたもとにあるゴミ置き場に女の子はしゃがみ込んで耳を塞いでいた。友達は坂の上でちっちゃく、居た。前屈みになっていたようだが、小指の爪ほどの大きさだ。

 僕は深く息を吸って

「うっせー!(声が重なった。女の子も同じことを叫んだのだ) 忘れてねえよちゃあんと持っでくっがら!」

「じゃ・あ! ま・た・な!」

 小指の爪くらいの友達は、スキップしながら消えていった。ふーっ、喉が痛い。それにうるさい。あいつあんなにデカい声出せるんだね。わたしもびっくりした(デカい声を出せることに、なのか、大声じたいのことか、未だに分からない)。

「声、重なったね」

 女の子は楽しそうにそう言って、ゴミ置き場から飛んできて「えへへ」と笑った。

「かえろっ」

「うんっ」

 僕と女の子は再び歩き出した。特に考えてはいなかったけど、いつも僕が車道沿いを歩いて、女の子に車道沿いを歩かせることはなかった。

 縁石を「ほ」「ほ」「ほ」と、歩いていると、四つ角に建物がある十字路の、左の建物からとんでもないスピードの自動車が現れ、ハンドルをこっちに向かえるように切ったものの、僕の存在を気がつくや否や、左急ハンドルでそのままコンビニエンスストアに突っ込んでしまった。僕といえば建物から自動車がにゅっ、と現れた驚きで縁石を車道側に踏みはずしてしまい、ほんとうに、死んでしまうところだったのだが、女の子が僕の腰の周りに両腕で輪っかを作って、歩道側に引き寄せてくれた。どれもこれもが急で首が痛くなった。明日、この道を通ったとき、踏みはずした縁石からタイヤが残した黒い(あと)までの距離が、ちょうど僕の足から頭までの距離だった(踏み外したまま倒れていたら、僕の頭はきれいに()かれ、突然の大きな音に野次馬根性が刺激されて事故現場に向かった友達は、顔がないランドセルを背負った身体と、ぶっつぶれたトマトのような僕の頭を見てしまい、これは、マンガと僕の死が結びついて、生涯、マンガを読むことが出来なくなった)のに、はじめて死を感じた。でもそれは悲しいものではなかった。頭だけ轢かれ潰されていたのなら、身体はきれいだっただろうから。

 女の子に引き寄せられ、瞬間の轟音へ顔を向けると、白いスポーツカーコンビニエンスストアに突っ込んでいた。しかもそれはレジ側に、だった。客足の疎らな時間帯だったため、店長はレジ側の事務室で発注作業をしていたし、バイトの一人は一気に買われなくなってしまったチキンを揚げていたし、もう一人はレジにある小銭の枚数をプラスチックのコインケースに入れて数えていた。六十代の店長は自動車に頭を潰され(僕の死ほどではないが、美しかった)、チキンのバイトは店に自動車が触れた衝撃で油が身体中に撒かれ、片脚はぶらぶらと遊ばせていたから、左半身と右半身が引き剥がされた。レジのバイトはコーヒー豆まみれになって、右のタイヤに人間の型をばらばらにされた。ドライバーは、ショックで死んだ。

 僕と女の子しか事故の様子を見た人は居なかった。二人は口が不自由になって、叫ぶことも喋ることも出来なくなって、ただ走った。手を繋いで、どこまでも走った。救急車か警察車輛の音が聞こえてくるまで、家に帰りたくない(家に帰っても、その場所はきっと家だとは思えなかったからだろう。いまの僕はそうだったのだろうと思うし、女の子も、いつも僕と帰るときに曲がる道に差し掛かっても、手を緩めることも走りがぎこちなくもなっていなかった)と、あの場所からは去らなければならない、そう思っていた。

 通ったことのない道を通り、聞いたこともない場所から、生まれてはじめて見る景色まで走り続けると、そこは最近整備された自然公園の、町を一望できる高台に辿り着いていた。二人はそこで救急車と警察車輛の掛け合い——現代音楽のようなサイレンの洪水を鳥瞰(ちょうかん)した。

「いまここで、死ぬことができる」

 軽く飛び跳ねる黒いランドセルの背中。

「死んじゃったかな」

 防犯ブザーを少しだけ鳴らして、サイレンにサイレンを重ねる赤いランドセルの背中。

 自動車が突っ込んだのは、高台のふもとにあるコンビニエンスストアだったから、ここから、ぐちゃぐちゃになったコンビニエンスストアが見えた。

 二人して木でできた欄干から身を乗り出して事故現場を覗いてみると、まだ救急車も警察車輛も到着していなかった。

 散りばめられた硝子片が太陽で煌めいている。その隣には血が広がっていて、左脚が駐車場に佇んでいた。

「スーパーハウスってさ、あいつの言い分ならさ、何年もむかしの空気が保存されているんだろうね」

「使われていたころの空気ね」

「僕思ったんだ。なんであの小屋を使われている頃と、使われていない頃とで分けるんだろうって。なんで使われていないなら捨てちゃおうと考えるんだって。だって……」

「捨てる理由があるから捨てるんだよ」

「違う。捨てる理由は、使われている頃と使われていない頃に分けられるから、捨てようとするから、だからね、使われている頃と、使われていない頃、こう分けなかったら、捨てる理由、使わないからっていう、理由がなくなる、その、なくなるはずなんだ。それに、誰かひとりのものではない、から、ひとりの理由が捨てる理由にもならないから、そう、そう、こう思ってたんだ。わかるかな。伝わってるかな」

 女の子はしばらくそっぽを向いて、欄干で頬杖をついていた。その腕は震えている。

「わたしのね、おばあちゃんは記憶力がなくなってきてるの。いつもものを失くすの。ね、おばあちゃんはそのとき、どうすると思う?」

「失くしものが見つかるまで待つんじゃないかな」

「ねえ、時間は戻らないんだよ」

「そう……は言い切れないはずだよ」

「真っ先にゴミ箱を探すんだよ。間違って捨てていないかどうか確かめるために。K君の言いたいことって、わたし、たぶんこういうことだと思う」

「きっと、それは違う。確信できてるわけじゃないし上手く言葉に出来てなかったけど、違うと思う」

(けれど、探すところが、家からなくなってしまう場所から、というのはおもしろいと、思う)

 最後の言葉は、余りにも自信が持てなかった。それまでは、かろうじて女の子の肩あたりで内巻きになっている髪の先端を見ていたが、軽くかぶりを振って女の子見ている方向に目線をゆっくりずらしていった。あの、豆腐みたいな建物はきっといつまでも残り続ける。公民館に生えそろっている喬木(きょうぼく)に並んで、泥や水垢に塗れながら当時の空気を保存……して、いる……? 当時の空気? それは違う、当時、なんてないはずなのだ。僕が表していたのは、それより前・それより後、というわけ方への疑問だった(これはいま浮かんでいた整理された内容だ)。ならば当時という言葉も……すこしおかしい。悩ましいのは、当時というのが、それより前・それより後のあいだを繋ぐ空間、時代、なのかもしれないということだが、きっとこれは失敗している。あいだを繋ぐ、と言いながら、これは時間を細かく切り刻んでいることと同じだから。

 なにも保存なんてされていないんじゃないのか。完全に密閉されていることが前提だったし、そうだと仮定して考え続ける。それでも、保存はされていないのだろうと思った。それは友達がたまに出入りしていたからでも、建物自体にミクロな空気の通り道があるかも、という理由でもない。周りの喬木が知らぬ間に何本かに増えていて、どれが最初の一本だったか、それはわからない問題だ。最初の一本はないんじゃないのか。はじまりがない。既に、はじまり続けているからだ。そして終わりもない。理由もない。建物は、空間を穿った——マクロな空洞の彫刻だ。樹林は空間に盛られた——フラクタルなミクロのマティエールだ。共通するのは、理由がないのにそこにあるということだろう。

「君、この前までゴールデンバットじゃなかった?」

 大学で出会ったはじめての喫煙友達が喫煙所にやってきたところで、考えが中断された。彼は青い眼を持つアルビノだ。物珍しく扱われて生きてきた。確かに僕もはじめ、美しい髪だと目をつけていたし、図書館で然る美術書を探しているとき、彼は僕のいる棚にふらつきながらやって来、その場にぶっ倒れてしまい、さすがに酷いと身を起こしてやって、まつ毛まで白いのを見て、アルビノだ、と知った。が、僕にとっては、ゆすりながら、あの、あのあの、大丈夫ですか。こんな昼間に……ウォッカでも飲んでたんですよね(安物ウォッカ特有の匂いがする)、ここは敷物がありますから吐いたりしてしまったら後が大変です。起きて。とりあえずトイレに……と慌てていると彼は(おもむろ)に口を開けて「俺は……俺はな……俺はよ……」俺俺俺とふわふわした語調で言い、次に、デュシャンなんだよ……俺はデュシャン……デュシャンなの……と呟いた。

 そして僕は

「マルセルですか!」

 と叫んだ日から仲良くなったのだ(彼はふらつきながらも目当ての本……彼は明らかに酔っていたのに、『ダダ大全』を貸りるために図書館に来ていた。ちょうど僕が『ダダ大全』を立ち読みしていた。きっと彼も僕に好感を持ったのだろう、僕が貸りる予定だった本——マルク・ダシーのダダ本、マラルメ詩集——を平置きしていた棚をちらちら見ていた)。

「僕は色々な煙草を試してるんだよ」

「嘘だあ、外から君のこと見かけてても、いっつも、あのちびっちぇ煙草吸っとったもの」

「まあ一番の理由は、値上がりしてからバットに固執(こしつ)するのもなんかあほらしーな、って思ったからなんだけどね。色んな煙草を試してたのは本当よ」

 へえ。それでセッタ? いやしかし白い煙草はほんと白いねえ。という彼は、リトルシガーがコンビニエンスストアで買えるほど手軽になるまで、黒い煙草・バイブを吸っていた。リトルシガーが出ると「まじい(まずい)、まじい(まずい)」と言いながら細いラッキーストライクを吸っていたが、ピースにもリトルシガーが出るとなり、彼曰く「この県で出回ってた分のすべて」を買い占めたという。無論、借金がすごい。僕が「ギャンブルで金溶かすよりか、ずっと生活的だぜ」と(そそのか)したことをまるで恨んでいるかのように貧乏話をするが、ピース・リトルシガーを吸う彼は、僕とダダの話をしているときよりも幸せそうだ。白の装いで彼の吸う煙草の色、本人もそう思っているが、美しい。

「俺、セッタ、マジで無理なんよなー。煙草ったらこれっしょー! って買ったときマジで後悔したもん。変な甘さ、無理」

「変な甘さだったらお前の銘柄、バイブとピースの方が人工的な甘さで気持ち悪いでしょ。僕はそう思うぜ」

「わかってねえなあ。あれは人工的な甘さの裏に花畑があるんだぜ。セッタは花畑に見せかけて人工的なんだよ。つまり花畑も人工的なんだわ」

「いいじゃん。僕はその言い分でも虚構(きょこう)の花畑を愛したいね」

「お前は殆っど引きこもりだもんなあ。空想家? 夢想家? やだわ。俺が女だったらお前絶対『アルビノの女だ!』って近寄ってくるだろ。そのくせリルケみてえなルソーみてえなSentimentalismをお持ちで、こいつは厄介だよ。しかも、根底には偉大なるDaDaismがあるときた。し・か・も、メンヘラ」

 彼も文学に精通しているが、その母体はダダであって、シュルレアリスムは嫌いなので、範囲は意外にも狭い。現行の文学に興味もない。僕たちは知り合って、ダダとシュルレアリスムの話をした。そこで彼は小説よりも戯曲の方が好きだと話していて、もしやと思い、少ない知識を絞り出して、ジャリ、イヨネスコ、ベケット安部公房、と上げると目を輝かせた。

孤独革命家の人間味って言っておくれ」

 茶色の煙草の灰を、とん、と落とす。

孤独革命家ね。俺は人間味てのは嫌いだが、わからんでもないぜ。名言じゃないか……それに応えられる格言もあるぜ『ムッシューDADAやわらかDaDa機械を召しあがれ』」

 最後に強く吸った不意に、彼はそう叫び、僕は笑って、白髪の男の方へ咳き込みながら白煙をふきだしてしまった。不意の笑い。

「けっ、僕の負けだ。ファッキン・ダダ」

「ハハハ、葉巻はいかが?ってね」

 白い煙草を貯められた水に落とす。じゅっ、と煙草と煙草の海になっていった。

 僕の今日の講義はもう終わっていて、大学を出る前に退屈な講義の憂さを晴らすための喫煙だった。そういえば、彼はこの時間に講義があったはずなのに、どうしてここに来てるのだろう。単位を取るのがかなり難しい、記号論理学の講義があったはずで、欠席数も二で目を付けられるほどなのに。僕も違う日にちに同じ教授の記号論理学を受けているけど、サボり癖ある自分でさえ未だ欠席はしていない。

記号論理学? あの講義つまんなくてさ、まあ、記号論理学自体は興味あるから、参考書買って独学してたのね。超おもしろくって、買って三日くらいで終わらしちゃって、教授に訊いたら『あの講義は、その参考書の1/3くらいしかやらないよ』って言われて、講義は出るやめたんだよね。退屈で退屈で。いまは様相論理と圏論を、暇なとき教授の部屋行って教わってんの。あの教授、おもしろいんだけど講義になるとクソつまんないからさあ」

 ここらへんになっとまじー(まずい)と言って、彼は煙草を水に落とした。

「なるほどね。そういや僕も似たようなことしてたわ。哲学の講義が初歩的すぎてさ、講義切って教授に形而上学を教わってるんだ、」

 小刻みに白髪が左右に揺れて「形而上学っ」と笑った。

 俺たち、ダダダダ言っておきながらかなりガチガチの学問やってるよな。でもお前の方がガチガチやぞ。形而上学って言っても結構、可塑性あるからな。そうか、俺はただ好奇心の赴くまま、その学問に突っ走ってるけど、お前はなんというか、お前の中にあるやつを表現する手段を探してるみたいだ。へへーーー。まさにその通りだよ。僕はね、情念の形而上学ってやつを組み上げようとしてるんだ。へえ、情念ねえ、デカルト? や、もっと射程は伸ばすつもりよ。プラトンからドゥルーズ、あと人道主義者のデリダまでって感じ。ひゅーっ、やりますねえ。人道主義者のデリダって言葉の響きなんかおもしろ。

「ぷっはー! 僕そろそろ家帰るよ、お前は?」

「そうね、Kのその教授ンとこ行って、ちょっと可能世界のことでも訊いて来よかな。きっと守備範囲っしょ。俺の教わってる教授と、どの差があるかちょっと気になるし」

「そか。あの教授、結構、暗いっていうか、厭世(えんせい)的だから、可能性の話になると暴走するかも」

「それもおもしろいから行くわ。てかお前気づいてないのかもだけど、お前の可能性-理論はかなりニヒルだぞ」

 白い壁を四本の指で撫でながら二人は喫煙所から出た。講義の終わる時間なだけあって、人がごちゃごちゃ居る。

ヒルな論理は情念だから。生来、そうだから

「あっそ、まあそうだろうとは思ってたけどな……じゃ、俺行くわ」

「へーい、頑張ってね」

「うーす、頑張るわー。お前、死ぬなよーっ」

「死なねえよ。早く行け」

「うーっ、うーっ、行きますよー」

「またな」

「うす」

 小走りに彼は校舎に入っていった。柔らかく細い白髪を揺らして。彼は倫理を高校時に選択していて、僕の話すことも理解してくれる。実際、僕は哲学専攻だが、よく読むのは文学の方だから、もしかすると彼の方が深く哲学を理解しているのかもしれない。哲学を学ぶと言うよりかは、僕の表したいものの手段がたまたま哲学が最適だった、ときているから彼の言い分は当たっている。むかしからよく考える方だったのだろう。決定的なのは、女の子と見た事故だ(僕は一度死んでいたはずだ)。この出来事は僕を倫理の道へと誘った。𠮟責(しっせき)があったのだ。さながらトロッコ問題がこの身にあったと言える。そして、僕は死ななかった。

 女の子は、あの時のことはもう、なにもわからないよ、あの白い車が見えたときにはもう、K君が危険だからってすぐ、抱き寄せたし、それがK君を救う手段だったってことを理解したのは十年後くらいだったの。無我夢中というけれど、ちょっと違くて、熱いものに手が触れたら手を離してしまうくらいの、反応の連鎖が起きてたんだ。だから、変に思わないでほしいけど、K君が死んでしまっても、K君が生きていても、そのどっちもが同じで、どちらにせよ、ただひとつの行動があっただけなんだよ。だから、それが道徳であり、倫理である、とは言えないとわたしは思うよ、と後述していたことを覚えている。

 もちろんあんなことがあったわけだから、当時もそれについてのことを話していたけど、それはいつも「死ななくてよかった。死ななくてよかった。本当に死ななくてよかった」と感情的に言っていた。十数年後の女の子の言い分から察すると、その「死ななくてよかった」人は、女の子の友達であれば「誰でもよかった」ということになるだろう。僕は女の子より先にそう感じていた。その頃に、このことを女の子に話したが、はじめは激怒した。それから時間が経ち、また同じ話をしてみると「死ななくてよかったと思うけど、本当にそうだとわたしが思っているのかどうかはわからない」と返ってきた。そしてまた、数年後に同じ話をすると——さっきの後述を話してくれたのだ。僕は、女の子に救われた側の人間だから、白い車のことについてあまり考えたことはなかった。その代わり、考え事の要素の大部分が死で満たされた。そして、僕は一度死んでいると考えている。これも、女の子の後述を聞く前からそう思っていたから、女の子の後述を聞いて、安心した。

 事故のあと、さまざまなメディアでニュースになっていた(白いスポーツカーに乗っていたのは、僕は知らないが、かなり有名な女優だったのだ)。根掘り葉掘り、というまででもないが、死亡者のちょっとした来歴、顔、事故の様子を、あの自然公園の高台から覗いた景色に透かして見て、悲しい気持ちになった。それはドラマや映画——ストーリーから受ける悲しさでしかなかった。しかし、時が経って、コンビニエンスストアで働く人々の社会的な地位、働いている理由、大きく言って、個人の生活のことに目を向けると、当時、ストーリーというオブラートに身を包んでいた事故の有りよう、自分からの距離、という要素はまるきり形相(ぎょうそう)を変え、死にゆく者たち(我々、人間のことだ)の突然の死、不条理——雑草のように踏み(にじ)られた四つの生と、自分の生を見るようになっていた。はじめの段階では、四つの生の為に自分の生を幾つかに増やしてそれぞれの対応関係を見た。次は、ある程度ついてきた物心から、自分史が強靭(きょうじん)になり、四つの生と強靭な一つの生を見た。いま、ここ最近は、四つの生と僕の生、救ってくれた女の子の生を均等に並べて、アポリアを感じている。考え続けた結果、いまの段階では「まずこれはアポリアなのだ」と思ってから、それぞれの視座に自分を据えるようになった。そうなってから、この出来事をトロッコ問題だとは思わないようになっている。なぜなら、トロッコ問題はトロッコが動く前に与えられれる問題であり、僕の場合はその逆で、既に動いて人が死んだ、いわば終わりの地点からの思考だからだ。そして、トロッコ問題が倫理-記号学的な問題なのに対して、この終わりのロッコ問題は哲学-情念論的な問題である。既に経験したものを整理する事は、極めて抽象的であり、極めて個人的な事柄だからだ。僕が、あの事故で一度死んでいても死んでいなくても、惹かれるのは終わりのトロッコ問題だろう。なぜだろうか、そう思う。だが、つい最近よく考えることは、このトロッコ問題、終わりのトロッコ問題の中間、この区別を無化させる真ん中は存在しないのだろうか、ということだ。丁度、孤独革命家の人間味白霧(はくむ)がかった景色に、決して窓を置かない方法はないのだろうか。

 喫煙所にとんぼ返りして煙草を連続で五本吸いながら考えていた。いつも思う。僕は死んでいるのだろうか。それも美しく。僕の顔は醜いから潰してくれて結構なんだ。だからといって身体が美しいわけではないにしろ欠点を消してくれるのは有り難いと思う。では僕は生きているのだろうか。ただでさえきつい煙草を考え事をしていたからついつい肺に多く入れてしまってそれで心臓がばくばく言っている。こういうとき深呼吸をすれば正常なばくばく加減になると勝手に思っている。すーーーっ(痛っ)。肺が……肺が痛い……ぴきっとした……。煙草吸いはじめて何ヶ月経っただろうきっと半年は吸っている。煙草をはじめたのはえーと六月でいまは十月だからまだ半年ではないんだな。こうしてみるとやはり僕は生きているように感じる。心臓は高鳴るし肺が痛んだりカレンダーの日にちが進んでいる。生きていない状態というのは何を指しているのだろう。線分的に生きていない状態というのはわかるそしてある。でも直線的に生きていない状態というのはない。科学によると半直線的に生きていない状態が生きていない状態の限界値なのだという。観念的な話だけど。死んでしまいたいときそれはいまが負担になっているときが主だろう。でも僕はきっと半直線的に(=生来)死にたがっている。強く言えば自殺することが自分の使命だと思っている。四流芸術家の言い分ではなく僕を取り戻すずっとそこに居てもらう為に僕は思考の果てに自殺することに取り憑かれている。もちろん自殺でなくてもいい。自殺といえど潜在的道具(エネルギー)を必要として死に至るのだからどれも他殺-他者殺となると思う。何かで精神的身体的に悪く作用した他(人)殺ではない他者殺は自殺を丁寧な形で表したものだ。考えてみれば位置エネルギーというのは極悪な犯罪者だ。mgh。

 煙草を今度は二本吸った。もう帰ろう。過ぎていく時は悲しく、せつない。プレハブ小屋の喫煙所を後にした。